「政宗様」


出陣の用意を整え、門前に控える政宗に小十郎が声をかける。

その肩には大きな鷹が留まっていた。

からか」

「は。無事書状を届け三河を発ったとのことです」

鷹が足首にくくりつけていた小さな紙を広げ、文面を見て政宗にその内容を報告する。


「All right.俺たちも行くぞ」


馬に跨る総大将の掛け声に騎馬隊が続く。

奥州伊達軍の本陣は大阪へ向かって出陣を始めた。






猫足が喚ぶ-3-






一方、幸村と別れたは自身も大阪へ向かうため来た道を引き返していた。

本来ならば一度甲斐に立ち寄り武田軍の動向を探りに行くところだったのだが、

思わぬところでそれを知ることが出来たので行き来する必要がなくなった。

不本意ながら真田隊の後を追うような形で南下を始めたところだ。


(…政宗様に、報告すべきだろうか)


周囲の見渡せる高い松の木に飛び乗り、西の方角に目を凝らす。

主は捨て置けと言うだろうが、再び伊達軍の弊害にならないとも限らない。


「、」


判断に迷っていたの顔を上げさせたのは、西南の方角から匂ってきた香りだ。

草木や獣の匂いに混じってほんの少しだが人工的な匂いがする。

甘く、喉や鼻にへばりついて噎せ返るような。

にとっては懐かしく、数年前まで体に染み付いていた匂いだ。


(…まさか…)


背中と額に嫌な汗が滲み、それを振り払うように木の枝を蹴る。

足元から這い上がってくる霧が濃くなってきて

その小さな粒の一つ一つに香りが染み込んでいるようだった。


『恐らく、織田信長の亡骸を…』


幸村の言っていた言葉を思い出し木を飛び移った瞬間、

「!ッ」

着地した足元に苦無が投げつけられ、体勢を崩したは枝から足を踏み外す。

すぐに苦無を取り出し、落ちながら飛んできた方向に向かって投げつけた。

が地面に着地するのと弾かれた苦無が地面に落下するのは同時。

濃い霧で木の上の相手を確認出来ず、目を凝らしながら腰の多節棍を掴むと


「久しい顔だな」


甘い香が強くなって、目の前の霧の中から声がする。

多節棍を掴んだ右手がびくりと強ばった。



「…松永…久秀…」



自分がどんな表情でその名前を呟いたのかは分からない。

苦虫を噛み潰したような、狐につままれたような、豆鉄砲を食らった鳩のような、

押し殺し切れない感情が顔の筋肉に微妙な動きをさせる。

目の前に立つ男は数年前と変わらず、穏やかに見えて常に計略を巡らせている微笑を浮かべていた。


「竜の膝の居心地はどうかね」

「、」


二の句が続かなかったより先に松永が口を開く。

松永の目線はの首に巻かれた襟巻きに向けられていた。

あの時の金色とは違う蒼い布。

体中にまとわりつく匂いとじわじわと滲む嫌な汗に耐え、は下唇を噛み締めた。

「…貴方が生きていたのなら、訊きたいと思っていたことがある」

右手に多節棍を掴んだままようやく口を開いた。


「貴方はあの時、私を殺すつもりではなかったのか…?」


腹の底から絞り出した声。

松永は僅かに目を細めた。

佐助に助けられ甲斐を出た後、傷を看てくれた薬師は言っていた。

傷は深いがまるで大事な臓器を裂けて貫いたような痕だ、と。

まともに動けるようになるまで随分と時間はかかったが、完治してから腹の傷が痛むことはなかった。

日に日に癒えていく傷を眺めながら、初めて主があの時何を思っていたのか考えた。

…いくら考えても、応えなど出なかったけれど。


「…あの場において、殺す生かすの選択の必要があったかね」


松永が口を開く。

「卿が死のうと生きようと、あの場に何ら変動はなかった筈。

 尤も、卿を盾にするか私自ら敵を斬るか、どちらがより熱量を失うか考えれば答えは明らかだが」



「卿の生き死になど、私にはどうでもいいことだ」



遠のいていく感覚には、自覚がある。

昔の自分と 今の自分と。

こんなこと昔の自分ならば訊かなかったはずだ。

彼を同じことを思っていたから。


「…久しく見ないうちに、私の知らぬ表情をするようになったものだな」


の考えを讀むように、松永は薄く笑ってそう言った。


「卿は傷心も苦痛も憤怒も悦びも、決して顔に出すことなどなかった」


---


『これから俺は、お前が忍になる為に必要なことを全て教える』


まだ手が苦無の柄を握りきれていなかった頃郷の忍が言っていたことは

奥州に来るまで全く意味が分からなかった。


『それ以外は別に知らなくていいし、知ったところでお前の得にはならない。

 だから覚えておくといい。それを一つ知る事に、お前は少しずつ忍ではなくなるよ』


忍として生きること以外に、自分が必要なことなどあるのだろうか。

飯の炊き方、怪我の応急処置、化粧の仕方、夜伽の手順、喉の潰した声色の変え方、薬草・火薬の調合の仕方

戦うこと以外に覚えたことは、皆忍として必要なことだっただったはずだ。

…いつからだろう。

培ったそれら全てを捨ててでも、あの国で生きていきたいと思い始めたのは。



「…奥州は、米も野菜も美味い」



がふいに口を開く。

何の話だと松永は眉をひそめた。

「国主にその出来を褒めてもらいたくて、休まず田畑を耕す民がいる」

「国主にそれを温かい状態で食べてもらいたくて、城内で芋を焼く足軽がいる」

常に色々な場所で主を囲う、奥州の人々をずっと見てきた。

それをせずとも罰せられることなどないのに

それをすれば主が喜んでくれるからと労を費やす。

「郷の忍にも貴方にも教わらなかったし、私も教えを請おうと思わなかったことが奥州にはある」


「忍でなくともいい。百姓でも侍女でも足軽でもなんでもいい。

 私は人間として、あの人のお役に立ちたい」


甘い香りを帯びた砂煙に翻る蒼い襟巻きには、小さく竜の刺繍が施してある。



。これをやる』



政宗が半兵衛の空木毒にやられた際に襟巻きを裂いてしまったため、政宗が新調してくれたものだ。

『な、なりませんこのような高価な布…!しかも私等がこの紋を…』

『別に上物じゃねぇし、細ぇこたぁいいんだよ。俺の手当で駄目にしたんだ、大人しく巻いとけ』

そう言って真新しい襟巻きをの胸に押し付ける。

今まで巻いていた布よりも温かく首筋にあたる感触が柔らかい。

それでいて繊維の一つ一つが丈夫で軽く、巻かずとも上質な反物だと分かった。

『…有り難き幸せ』

政宗は「頭巾くらいで大袈裟だ」と笑う。




『それがボロ布になるまで奮えよ』




「…馬鹿なことを」

松永が吐き捨てたのは予想通りの言葉だった。

「私は昔の卿を気に入っていたよ」

「忍として、飛び道具として生きること以外に無駄な熱量を費やさなかった」

ジャリ、と草履が砂を蹴る音がして松永がこちらに近づいてくる。


「況してや主君を想い自我を持つなど、忍としては至極滑稽な末路だ」


目に前に出された松永の右手に、の体が強ばる。

「…卿が忍であろうがなかろうが、私にはもうどうでもいいことだがね」

長い親指と人差し指に摩擦が生じた瞬間、火花が散って熱風に変わる。

「ッ」

胸元まで迫った炎と熱風を避けたが多節棍を抜くのと、目の前に刃が迫るのはほぼ同時。

振りきった先端の棍棒に小太刀の刃がぶつかって再び火花が散る。

距離をおいて着地した白黒の装束を纏う忍には見覚えがあった。


『松永は新たに腕の立つ傭兵を雇ったと聞きまする』


「…やはりお前か」


以前北条軍に雇われていた時から何度か顔を合わせたことがある。

当時まだ松永軍にいたはまだ合見えたことはないが、佐助とかすがから話だけは聞いていた。

伝説の忍と謳われる、風魔小太郎。


「卿がここにいるということは独眼竜もそろそろ大阪に到着する頃だな」

「!」


離れたところに立つ松永の言葉を聞き、は目を見開く。

「初めからそれを…!」

「卿がこの香を辿って此処まで来るか危うところではあったが…いやはや、

 捨てた猫の堕落ぶりと拝めただけでも良しとしよう」


「黒猫がいくら総毛出させて牙を研ごうと竜の影にはなれまい。

 尾を掴まれ頭から食われなかっただけ幸運だと思うことだ。例え今は愛玩物に成り下がっていようとも」


再び松永の指から爆炎が上がり、一帯は噴煙に包まれて視界が遮られた。

「…っ松永!」

噴煙の中から完全に松永の気配が消える。

はその後を追おうとするが、新たな傭兵は当然それを許してくれるはずがなかった。


「…退け」

        ・・・・・・・・・・・
「お前と違って、主君を想い自我を持った忍は忙しいんだ」



は素早く篭手から苦無を抜き、相手の懐に投げつけた。

だが相手が宙に飛びあがる方が早く苦無は木の幹に刺さる。

の背後をとった風魔が再び小太刀を振り切るが、は多節棍を抜きながら刃にぶつけた。

すぐさま顎の下に相手の足が迫る。

は幹に刺さった苦無を踏み台に風魔の頭上に飛び上がった。

再び懐から苦無と小さな鉄の塊を取り出し、先に鉄の塊を相手に向かって投げつける。

鉄の塊は空中で破裂して噴煙を撒き散らす。は間髪入れず煙の中心に苦無を投げた。

地面に着地しながら木の上の様子を窺っていたが、背後に気配を感じて振り返るとすぐ目の前まで小太刀の刃が迫ってきている。

「……………っ」

宙返りをしてなんとか避けたが髪が少し切れてしまった。

体勢を整える前に勢いよく距離を詰めてきた風魔の小太刀が迫り、多節棍を持ち直したが間に合わない。

振りきった小太刀に左手の多節棍が弾かれて宙に舞った。

再び篭手から苦無を抜こうとしたが風魔の足が右の横面に直撃する方が早い。

「っ!」

はそのまま地面に倒れながらも体勢を立て直し、後ろに飛び退いて距離をとる。

鼻血を手で無造作に拭き取り、落ちてきた多節棍を掴んで再び地面を蹴った。

両手同時に振り下ろした多節棍は相手もまた両手で受け止め、

押し合いになる前に両手を引いたが風魔の顔面に右膝を叩き込む。

「、」

ゴギン、と鈍い音がしての右足が風魔の左腕に阻まれた。

そのまま足を掴まれたの腹に今度は相手の右足が迫る。

腹筋を固めることも間に合わず、は後ろに飛ばされて木の幹に叩きつけられた。

一瞬視界が途切れてすぐに頭を振り目を開いたが、すぐ眼前に苦無が迫る。

咄嗟に首を逸らしたが間に合わなかった左耳に刃が突き刺さった。


「…ッぁ…!」


ぶちり、と嫌な感触がして刃が薄い軟骨を貫通し木に刺さっているのが分かる。

体の一部が串刺しになっている状態では身動きがとれない。

は襟巻を噛みしめ、勢いよく体を横へ投げ出した。

「………!……っ」

肩に大量の血が落ちてきて耳の中にも浸入してくる。

「……は、…はッ…」

襟巻きがじっとりと重くなるほど滲んだ血。

幸い鼓膜は傷つけなかったが、左耳の上半分が千切れてしまったようだ。

軟骨が裂けようと聴力に支障がなければ問題ない。

顔に飛んできた血を拭いながら右手の多節棍を持ち替え構え直す。

風魔の左腕は変色して腫れ上がっているから、恐らく骨を折ることが出来たはずだ。


(…政宗様…!)




「政宗様!」




大阪を目指す本陣と並行して木々を飛び移り走る黒い影。

先頭を走る政宗が手綱を引くと本陣も街道の途中で停止する。

丁度尾張を越えた国境に差し掛かった頃だった。


「只今戻りました」


馬の前に片膝を着く忍を見下ろし、政宗は手綱から手を離した。