薬降る






「…幸村様」


もうどれくらい此処に突っ立っているだろう。

絶え間なく体を打つ雨は随分前にどうでもよくなって、

長いこと水浴びをしているのだと思えば濡れた髪も忍装束も気にならなくなっていた。

こちらに背を向けて座りこんでいる主を見下ろし、何度目か分からない溜息をつく。


「そろそろ参りましょう、幸村様」


再度促す。

だが主は相変わらず立ち上がろうとしない。

結わえられた長い髪はしっとりと濡れて背中の六文銭に張りつき、

いつも風に靡いている赤い鉢巻きも重力に従っている。


彼の前には重なった屍が同じく雨に打たれている。

言葉を発しなくなってからどれくらい経っているのか、には判断しかねた。


「…改めて埋めに来ましょう。ですから今は…」

「……ああ」


幸村は漸く返事をしてゆらりと立ち上がる。

立ち上がった幸村は屍に向かって一礼し、傍に停めていた馬へ跨った。

「…慣れぬものだな。死臭というのは」

手綱を握ってそう呟く幸村の表情は険しい。

は馬の鼻を撫でながら主を見上げ、スン、と鼻を鳴らす。

常人より鼻がいい方だと自負していたが今は雨と土の匂いしかしない。

「雨で鼻が効かないのであまり分かりませんが…」

そう言って空を仰いだ瞬間、キシ、と何かが撓る音がして

反射的に後ろを振り返りながら左腕を薙ぎ払った。

すぐ傍から飛んできた矢の羽が飛び散って、折れた矢じりが足元に落ちる。

幸村もすぐに振り返ったがどこから矢が飛んできたのか分からずにいた。

「雨の匂いとそう変わりませんよ」

は舌打ちしながら苦無を取り出し、迷わず矢の飛んできた方向へ投げつける。

雨の音に掻き消されず短い悲鳴が聞こえたので、

はふうと息を吐いて濡れた髪を耳にかけ直した。

左腕がドクドクと脈打っている。

折れた矢の半分が関節の少し下に食いこんでいたが、血は殆ど出てこなかった。

さて刺さった矢をどうしたものかと考えているとすかさず幸村が馬から降りてきて

鞍に結びつけていたサラシを差し出してきた。


「…あ、いえ…これくらい平気なので…」

「駄目だ。噛め」

「…噛むんですか?巻くんじゃなくて?」


は眉をひそめながら主を見る。

「そんな、舌噛むような下手な真似はしな、もがッ」

有無を言わさずサラシを口の中に詰め込まれた。

すぐに矢を抜かないのは雨で出血が止まらないと面倒だからであって…

毒矢かもしれないものを主に触らせるわけにはいかないからであって…


(…ああもう)


好きにしてくれ。

きっと今は何が何でもこうしたいのだろうから、黙ってやりたいようにさせてやろう。

そう思いながら体の力を抜く。

口めいっぱいにサラシを詰め込まれているので体を楽にして鼻呼吸しないと聊か苦しい。

左腕を体側にぴったりと付けると、幸村はの肩を押さえていっきに矢を引き抜いた。

骨にぶつかって中でへしゃげていたらしく抜くのに少し力が要った。

思いがけず口内のサラシを強く噛むことになって、結果としてこのサラシは役に立ったようだ。

予想していた以上に血が吹き出て二人の足元に落ちたが、

は慌てず銜えていたサラシを腕に巻きつけてきつく縛る。


「幸村様は」

「死臭とは間逆の匂いをお持ちだからですよ」


抜いた矢を捨てる幸村はの言葉に目を丸くして首を傾げた。

ああ、先ほどの話の続きか。と理解すると反対側に首を傾げる。

「間逆?」

「幸村様は特にいろんな匂いがします。火の匂いだったり、汗だったり、甘味だったり、

 あぁあと、敷布を天日干しした後の匂いとか」

「天日干し…?」

なんだそれはと幸村は馬に跨りながら眉をひそめる。

サラシの先端を口で引っ張って結びながら、はそこまで言って少し恥ずかしくなった。

この人は良く晴れた日、外に干していた敷布の匂いを嗅いだことがあるだろうか。

そう思うと庶民的すぎる例えをしてしまってばつが悪くなる。

「…そういう意味なら」

今度は幸村の方から口を開いた。

「お前も、佐助とは少し違う匂いがするな」

「へぇ、どんなですか?」

興味がある。とは主を見上げる。


「薬と、少し香の匂いがする」


それを聞いたは怪我をしていない右腕を鼻に近付けた。

…やはり雨の匂いしかしない。

そういえば昨日、薬草を煎じながら香を焚いた部屋でうたた寝したのを思い出した。

女だからという理由ではないが何となく部屋で香を焚いていることが多いから、そのせいだろう。

「香の匂いが強い女子は、お嫌いですか?」

意地悪く笑って主を見上げる。

幸村は馬を走らせながらを見下ろし、小首を傾げた。

「…嫌いというか……そういう感情で見たことはないな。

 お前の香は嗅ぎ慣れているから…あまり気にしたことがない」

予想通りの答えが返ってきては思わず苦笑する。


「死臭に慣れないのは生きている証ですよ。だから、」


喜ばないと。

そう言おうとしては足首に力を入れ、急停止する。

水捌けの悪い地面が抜かるんで泥が跳ね返った。

総毛立たせて相手の気配を探りながら鼻を鳴らす。

ああほら、死臭が近づいてきた。

「…幸村様」

「分かっている」

幸村は手綱を放し、背負っていた二槍を抜く。

も懐から苦無を取り出し振り返った。

前に四、後ろに五といったところか。

「後ろは任せたぞ」

「承知しました」

幸村が手綱を下ろすのとが地面を蹴るのは同時。

が木に飛び乗ると、忍装束の男たちが同じように苦無を構えて木の上に立っていた。

「…さて、と」

左腕のサラシは雨に濡れて血がじんわりと滲んでいる。

だが鼻につくは血の匂いではなく草木が湿った雨の匂い。


「来るならまとめていらっしゃいな。私、長と違って短気だし」

「あの人と違って、死臭とかどうとか、興味ないし」


幸村様。

雨はお嫌いですか?


私は好きです。

雨の日は静かだし、面倒な仕事を任せられることも少ないし。

見るに堪えない醜い姿を、全部洗い流してくれそうだし。


最後の相手の喉元に苦無を突き刺す。

首の骨を砕いた感触と同時に勢い良く血が噴き上がって、

それを避けるのも億劫で正面から返り血を浴びた。

木から滑り落ちた体は地面に叩きつけられてもしばらくピクピクと動いていたが、

上からしばらく観察しているとややあって動かなくなった。

も木から下りて口に入った血を吐き出しながら空を仰ぐ。

絶えまなく降り続く雨が顔を、体を打って返り血を洗い流していった。

視線を落として水溜りの上に倒れた死体を見下ろし、足元に落ちている苦無を拾う。


「…そういうのは、あの人に近づかないで欲しいな」


唯一嫌なことといえば、あの人の匂いが消されてしまうことくらい。


雨に濡れた手を懐に入れ、赤い香り袋を取り出して死体の上に置く。

死体の血と雨に濡れてじんわりと色を変えていく袋は、

一瞬だけ柔らかな香を匂わせてすぐに死臭に紛れた。


主が駆けていった先を歩いていくと、山林の終わりに主と馬の姿があった。

さきほどと同じ忍装束の男たちは皆馬の傍に倒れている。

二槍を下ろした幸村はの足音に気付いて振り返った。

左の頬から鼻頭にかけてべったりと血が付着している。

は苦笑しながら取り出した手拭いを差しだした。


「男前が台無しですよ」


幸村は「済まぬ」と言って手拭いを受け取り顔を拭く。

「腕は大丈夫か」

槍を背中に差して馬に跨り、の左腕を見下ろす。

は肩をすくめて血の滲んだサラシを軽く叩いた。

「雨が毒も洗い流してくれたようなので」

きっとそんなことはないのだろうが。

だが幸村は素直に「そうか」と言って手綱を握る。

この人は部下を無碍にする人ではないけれど、こちらが大丈夫だと言えば必要以上に心配してくることはない。

だから自分の失態で怪我を負ってしまった時はとても助かる。(もう一人の上司はそうはいかないから)


「参りましょう幸村様。この長雨では、上田の田畑も気になります」

「そうだな。急ごう」


馬と忍は再び地面を蹴る。

雨は死臭を吸って曖昧にして、上がれば全て跡形もなく消える。

そんな都合良さを、たかだか空から降ってくる水滴に求めるのは


(…都合がいいんだろうか、やっぱり)
 

ああどうか


この人の匂いだけは、消してくれませんように




ああああ大変遅くなりましたフリー夢最後の幸村ぁぁあああorz
3位が一番遅いってどういうことです…もう夏も終わるんです…
言い訳をさせて頂きますと最初書いてた話が姫設定だったので連載とカブってしまうなと思い、
まるっと書きなおしした次第でありまして…
旦那の匂いフェチなヒロイン。