忘れていた、というよりも

もともと気にも留めなかった、といった方が正しい。

彼女という存在は空気のようで、あるいは水のようで

今日起こった出来事の中からほんの少しでも心が穏やかだった時間を探してみたら

そこにはやっぱり彼女がいたことを知ってしまったんだ。





One-5-






池袋の空を、今日も自販機が飛ぶ。


「待てっつってんのが…聞こえねぇのかゴラ------------ッッッ!!!!」


逃げる男と追う男

そしてその2人を更に追う男

追われている立場で待てと言われて待つ馬鹿はいないというが、

自販機をブン投げる男が物凄い形相で追いかけてきたら誰だって本能的に逃げてしまうだろう。

「今日随分調子いいな…やっぱあのドリンク効いてんじゃね…?」

周囲に散らばっている缶ジュースを避けながら歩くトムは関心した様子で静雄の後ろ姿を眺めていた。

「…いや逆か。効きすぎてやべぇな…静雄!一旦ストップ!」

ドォン、という轟音と共に2台目の自販機が犠牲となった。






同時刻・池袋某出版社ビル


「………ん?」


デスクに座って作業をしていたはふいに顔を上げて窓の方を向いた。

「どうかした?」

「何か外で音がしたような…気のせいかな?」

同僚に声をかけられ、念のため立ち上がって窓の外を見たが外の風景はいつもと変わらない。

「よし、と。添削ファイル送ったから。後で確認よろしくね」

「うん。そういえばこないだコンビニの前で男と話してるの見たけど、あの人例の彼氏?」

はパソコンを閉じて帰り支度を始める。

「そういうんじゃないってば。友達ぐらいには、なりたいなぁって思ってるけど」

「またまたそんなこと言って」

同僚はいつもの調子で笑いながらの脇腹を小突く。


「池袋みたいに人で溢れてる街はさ、どこで出会ってどこで別れてもだーれも気に留めないんだから。

 自分だけはそういう出会い、大事にした方がいいよ」


からかうように笑っていた同僚が急に真顔になってそう言ったものだから、

も支度する手を休めてふと「出会った人」の顔を思い浮かべた。

この街では一度すれ違った人に再び出会えることは滅多にない。

同じ街に暮らしていても言葉も交わさず、顔も名前も知らず、他人のまま一生暮らしていく人が大半だ。


(…大事に、かぁ)


会社を出たの足は自然と静雄の会社がある裏通りへ向いていた。

こんなところを歩いていてもそうそう毎日会えるわけではないのだが。


…連絡先、聞いたら教えてくれるだろうか。

彼女いるのかな?

好きな食べ物や嫌いな食べ物はなんだろう?


「…もっと、お話したいなぁ」


彼に助けてもらった雑居ビルの前で立ち止まり、ぼそりと呟く。

すると



「あーこの女に間違いねぇわー」



酔っ払ったような間延びした声と共に、前方に立ちはだかる男。

はハッとして顔を上げた。

気づくと後ろにも男が数人立っている。

どの男も体のどこかに黄色い布を巻きつけていた。


「アンタだろー最近静雄と一緒にいる女ってのはー」

「え……?」


目の前に立つ男がニヤニヤと笑いながらに1歩近づく。

瞬時に、の体が危険信号を発した。

…逃げなきゃ。

だがそれと同時に後ろから肩を強く握られる。

「ッ」





「…ちょぉーっと、付き合ってくんねーかなぁ?」






1時間後

「あぁくそ…っ余計な手間かけさせやがって…」

漸く借金の収集を終えた静雄は、抑えきれない怒りを口にしながら夜の街を堂々と歩いていた。

ドアに穴を開けた時の衝撃で右手から血が出ているが本人は全く平気なようだ。

「ったく…さっさと払えば怪我しないで済むのにな」

その横でトムも口を開く。

「利子倍にしてもう50万ぐらい上乗せしたらよかったんじゃないですか」

「今日ホント調子いいな…」

血が出ている手の指をボキボキを鳴らす静雄を見てトムは乾き笑いを浮かべた。

…実際、調子はいいと思う。


(…いつもより体が軽い)


血まみれの右手を握ったり開いたりしながら静雄は微妙な体の変化を感じていた。

(駅で毎朝栄養ドリンク飲んでるリーマン見る度にあんなんで元気になれたら

 医者いらねーだろって思ってたけど…実際効くんだな)

昨日その栄養ドリンクをもらったコンビニの前を通ると、

学校帰りの高校生や仕事を終えた会社員で相変わらず混雑しているのが見えた。

(…職場、すぐ近くだっつってたな)

ふいに向かいの道路へ目線を移す。

何の仕事をしているのか聞かなかったし、この辺りは商業ビルが多いから彼女がどこで働いているのかは分からない。


(…また変なのに絡まれてないといいけど)


次の瞬間、そんなことを考えた自分自信がバカバカしく思えて思わず鼻で笑ってしまった。

友人と呼ぶ程親しくはなく、増して恋人でもない女の心配をするなんて何様だ自分。

この数日間たまたま顔を合わせることが多かったというだけで、

もしかしたらこれからは全く会わなくなるのかもしれない。

その間にお互いのことを忘れてしまうかもしれない。

この街はそういう所だ。



…解っちゃいるけど。



「……あ?」

せっかく穏やかになってきた気持ちが再び沸騰し始める。

静雄とトムの前に立ちはだかる十数人の集団。


「……こないだはよくもやってくれたなァ?静雄ぉ」


集団の中から前に出てきた1人の男。

首に黄色い布を巻きつけており、頬にはガーゼが貼られていた。

恐らく、随分前に静雄に絡んで看板の下敷きになった連中の1人だろう。

静雄も完全に戦闘体勢に入って男達に近づいていく。

トムは面倒事に巻き込まれないようにと2,3歩下がるが恐らく確実に巻き込まれるだろう。

黄色い布を身につけた男達がいっせいに静雄に向かって飛び掛っていく。

静雄はそこから1歩も動かず、ただ右手の拳を前に突き出した。

目にも止まらぬ速さで男の顔面に叩き込まれた拳。

男が鼻血を吹いて後ろに倒れる様など確認せず、今度は左から突進してきた男の胸倉を掴んで引き寄せ、

脳天に強烈な頭突きをかます。

そして怯んでいる他の連中にも全く手加減せず、力任せに掴みあげて投げ飛ばす。

その繰り返し。

男達の勢いなどは完全に打ち消して、静雄はただ殴って蹴って、投げ飛ばしていた。

周りを囲っていた男たちが全員静雄の前に倒れたのを確認し、

トムは頭を掻きながら静雄の横に戻ってきた。


「まだこの辺ウロついたんのか。黄巾賊のガキども」


倒れている男たちは全員、体のどこかに黄色い布を巻きつけている。

三国志から名前をとったカラーギャングだ。

静雄は蝶ネクタイを緩めながらポケットから煙草を取り出して口に銜える。

すると、手前で倒れていた男が辛うじて意識があるらしくゆっくり顔を上げて静雄たちを見上げた。



「あの女……今頃どうなってんだろうなぁ…!?」



見るに耐えないボコボコに殴られた顔で男は掠れた声を出す。

「--------あ…?」

静雄は目を細めて怪訝な顔をした。


「テメーの女だよ!!お前らがこうしてる間に…っ他の奴等があの女を連れ出してたんだ…!

 アイツら今頃痺れ切らして何してるか分かんねぇなァ!?」


男の言っていることが理解できない静雄はひたすら眉をひそめて男を見下ろす。


女?

誰のことだ?


誰かと勘違いしてるんじゃないかと不審に思っていると



「……あの子…じゃねぇのか…?」



トムが、まさかという顔で呟いた。

静雄にとって女と言われて思い浮かぶ知り合いは狩沢だけで他に誰がいるのかと考えたが、

次の瞬間、静雄の脳裏に1人の女が浮かび上がった。

知り会ってまだ1ヶ月とたたない

ごく普通の会社員で、生真面目で柔和な性格の




あの、彼女。





池袋駅から程ない路地裏にひっそりと放置された廃倉庫。

ドラム缶が点々と並び、角材や鉄パイプなどが束になって積まれている。

室内を照らすのは時折チカチカと点滅する古びた蛍光灯。

明らかに人が近寄らないような場所に、黄色い布を身につけた男が十数人で溜まっていた。

男たちが囲うのは、1人の女。

スーツ姿の若い女性がカラーギャングに囲まれている姿を誰かが目撃すれば、

必ず警察に通報されるだろう。

は手足を縛られるまではされなかったが、四方を囲まれて身動きが出来ない状況だ。


「さぁーて、アンタの彼氏は来るんでしょーか?」


前に立つ男が、の前にしゃがんでニヤニヤと笑う。

「…何のことですか」

話が全く見えないは、眉をひそめて男を見上げる。

「助かりたいからってシラァ切るのはよくないなー

 アンタあの静雄の女なんだろ?だったら静雄は彼女を助けに来るっしょー

 他の仲間が静雄んトコ行ってっからよーもうそろそろ来んじゃね?」

男の言葉には事態の全てを一瞬で理解した。

自分は静雄の恋人に間違われた。

そして静雄に恨みをもつこの連中が、自分を使って静雄を誘き出そうとしている。


「……私は…あの人の彼女じゃありません」


恐怖に震える下唇を噛み締め、は誤解を解こうと口を開く。

薄ら笑いを浮かべていた男の表情が変わった。

「あ?」

「ただの…知り合いです。知り合ってまだ1ヶ月も経ってないし…」

顔を伏せ、事実を吐く。


「嘘ついてんじゃねーぞコラ。お前と静雄が一緒にいるの見たって奴がいんだよ」


一緒にいただけで彼女になるなんて。

理不尽な男の言葉に苛立ちつつ、は再び口を開いた。

「本当です…!私…っ静雄さんのことは名前しか知りません…」



「だからあの人は……ここには来ないと思います…」



自分にとって最悪の絶望である事実を、はしっかりした口調で紡ぐ。

誰も助けに来なければ、自分はこの後どうなってしまうのか

それは池袋の裏世界など知らないでも容易に想像できた。





---------その頃


静雄は夜の池袋を駆ける。

後ろから追いかけてきていたトムをいつの間にか置いてきてしまったが、それでもなお猛スピードで走る。

駅から帰宅してきた会社員の波に逆らいながら、渋滞待ちのタクシーを追い越して走る。

呼吸を全く乱さず、人にぶつかるのも気にしないでただひたすら走る。

それと平行してその渋滞待ちの中に車の合間を縫うように走る1台の黒いバイクがあった。

ライダーであるセルティは、道路に面した歩道を走る金髪の姿に気づいて速度を緩めた。

(…静雄?)

それが静雄だと気づき、セルティは歩道に寄る。

彼があんな猛スピードで走るのは取立て主を追っている時ぐらいだが、見るからに様子がおかしい。

セルティがクラクションを鳴らすと、静雄は立ち止まって振り返った。

「……セルティ」

「悪い今時間が…」

珍しく焦っているような静雄に、セルティはバイクの後ろの席を指差した。

影で作ったヘルメットを差し出しながら「乗って」と合図する。

静雄はしばらく考えた後、漆黒のヘルメットを受け取った。

「…ありがとよ」

そして後ろの席を跨ぐ。

「知り合いが拉致られた。駅裏の廃倉庫まで急いでくれ」

ヘルメットを被り、あくまで冷静な口調で場所を指定する静雄。

セルティは頷き、再びバイクを発進させた。

…セルティは気づいていた。

口調こそ冷静だが、静雄の目が今までないぐらい血走っていたことを。

セルティは気づいていた。

バイクの座席に掴まる静雄の手に、太い血管が浮き出ていたことを。

漆黒のバイクが、夜の池袋を駆け抜ける。




To be continued