「…雨っすね」

「雨だな」


気象庁が梅雨入りを宣言して1週間ほどが立つ。

ああいう宣言などはあくまで数値上のものだと思っていたが、

おかしなもので「梅雨入りしました」とアナウンサーが言えばその次の日から雨が続いたりするものだ。

事務所の窓から雨に濡れる池袋の街を見下ろし、静雄は顔をしかめた。

「こんな日に限ってこれから3件も回らなきゃならねぇ」

「…雨降ってんだからそっちが出向いてこいよって感じですよね」

トムは缶コーヒーを飲みながらテーブルの書類を取って目を凝らす。

降りやまない雨にイラついているのか、静雄は舌打ちをしながら理不尽なことを言った。

借金を返さずに身を潜めている連中の元へ出向くのが自分たちの仕事なのだから。

静雄は銜えていた煙草を灰皿に押し付け、携帯を開いて時間を確認する。

午後6時を少し過ぎていた。

「なんか予定入ってんのか?」

「あ、いえ…久しぶりにが飯作ってくれるっていうんで、

 8時くらいにはケリが着くといいなぁと思って…」

「お、マジか。いいよなぁ帰って飯があるって。ちゃん何でも作れるんだろ?」

「ある程度は。こないだなんかサイモンに寿司の握り方聞いてたんで、そのうち寿司も握り出すんじゃないすかね」

携帯を閉じながら再び窓の外を見る静雄の表情は穏やかになっていた。

トムはコーヒーを飲みきり、空き缶をテーブルに置いて「よし」と自分の足を叩く。

「じゃあ早いとこ片づけないとな」





卯の花腐し、愛とやらを借りてくる






「醤油はこのスプーンで4杯、砂糖も同じくらいですけど好みで少し減らした方がいいかもしれません」

目黒某アパートの一室には部屋中に美味しそうな匂いが充満していた。

1LDKの小じんまりとしたリビングと隣接したキッチンには

住人であると客人のセルティが揃ってエプロン姿で立っている。

2つあるガス台の手前では小さな鍋がコトコトと音を立てて同時に美味しそうな湯気を立てている。

「あとは蓋をして煮込むだけです」

『さやえんどうはいつ入れるの?』

の手順をPDAにメモしていたセルティは会話画面に切り替えて素早く文字を打ち込んだ。

「えんどうは煮立ったら最後に入れるんです。その方がシャキシャキしてて美味しいですから」

はそう言って笑い、まだ調理台の上にあるさやえんどうを見る。

セルティはこくこくと頷いて再びPDAにメモをした。


"一生のお願いだちゃん、私に料理を教えて!"


とセルティに頼まれたのが1週間前。

以前から味覚がないから料理が出来ないと悩んでいたので、がその頼みを断る理由がなかった。

代わりに彼女が唯一作れるというカニ玉の作り方を教えてもらう、というのが今日集まった趣旨だ。

『本当にありがとうちゃん。肉じゃがなら作れそうな気がするよ!』

「いえいえ、私も人に教える程上手じゃないしほとんど自己流なので…

 新羅さんに食べてもらって塩加減とか調節してみて下さい」

は苦笑しながらエプロンを外し、「一休みしましょう」とソファーに座るよう促した。

癖で2人分のコーヒーを淹れようと準備したが、はっとしてカップを1つ棚に戻す。

「私こそカニ玉教えてもらってありがとうございました。レパートリー増えて嬉しいです」

『カニ玉しか作れないから役に立てて嬉しいよ。

 私には食べ物の美味しさは分からないけど、料理上手な彼女がいて静雄が羨ましいな』

「静雄さんは何でも美味しいって食べてくれるから…」

は照れくさそうにはにかみながらカップにお湯を注ぎ、

テレビの横の置時計を見てはっとした。

「セルティさん…そろそろ6時になりますけど…お仕事大丈夫ですか?」

『あッ!忘れてた…!ご、ごめんそろそろ帰るね…!』

セルティもPDAの右上に出ているデジタル時計を見ると慌てて立ち上がる。

帰る前にもう一仕事片づけなければならないのを忘れていた。

も淹れたてのコーヒーに口を付けずに立ち上がった。

『今日は本当にありがとう。帰りに材料を買って、早速今晩作ってみるよ』

「頑張って下さい!新羅さん、喜んでくれるといいですね」

玄関までセルティを見送り、はやんわりと微笑む。

セルティは照れたように頭を掻いたがコクンと頷いてもう一度PDAに「ありがとう」と打ち込んだ。

『じゃあ、静雄に宜しく』

続けてそう打ち込み、セルティは部屋を出て行った。

は手を振ってそれを見送ると、再び時計を見て「さて」と腕まくりをする。

リビングに戻って再度キッチンに立ち、弱火で煮込んでいた肉じゃがを少し皿にとって味見してみた。

一人暮らしを始める前母に教わった味には自信がある。

納得したように頷いて火を止め、隣のガス台に置いたフライパンの蓋を開けた。

こちらにはセルティから教わったカニ玉が既に出来上がっている。

「あとは味噌汁かな」

これが済んだら部屋をもう一度掃除しよう。

そう考えると自然に鼻歌が漏れてきて、次に玄関のチャイムが鳴るのが待ち遠しかった。

「…雨、酷くならないといいな…」

再びエプロンを着ながら窓を見つめて呟く。

朝から降り続く雨は止みそうにない。





「…あぁくそ…鬱陶しいな…」

蒸し暑さも手伝って、傘から滴る雨粒の1つ1つが鬱陶しい。

スラックスの裾を汚す水溜りも、車がそれを撥ねるのも、行きかう人々と傘同士がぶつかるのも。

繁華街から1本裏路地に入った古いアパートの前で静雄は何度目か分からない舌打ちをする。

「駄目だ、ここも留守だな」

トムが頭を掻きながらアパートの階段を下りてきた。

「…居留守とかじゃないですよね?」

「いや窓から中覗いたけどいなかった。メーターも見たけどありゃしばらく帰ってねぇな」

「ちッ…帰る家なくしてやろうか…」

ギリ、と音が聞こえる程奥歯を噛みしめるこめかみに血管が浮き出てくる。

3件連続で留守となると静雄の機嫌が悪いのも仕方がなかった。

「な、なんならお前もう帰っていいぞ?ちゃん待ってんだろ?」

「…いえ、仕事っすから。そういうわけにはいきません」

気を遣ったつもりだったが静雄は律儀に首を振る。

彼女の名前を出したことで幾分冷静になったようにも見えた。

繁華街に出ると雨のせいかいつもより人通りが少ない気もしたが、やはりこの街はいつでも人に溢れている。

「サイモンのトコもこの雨だと今日は空いてるかもな」

少し歩いた先に見える露西亜寿司の店頭には、いつも客寄せをしているサイモンの姿はなかった。

ポケットに携帯を仕舞い、気だるそうに顔を上げた静雄はその店頭に目を凝らす。


「無理言って悪かったよ。大将に伝えといて」


暖簾をくぐって店を出てきた男は手にテイクアウト用の寿司を持って大柄な店員に声をかけた。

店員が頭上で傘を持っている間に自分の傘を開き、屋根の下を出る。

「オ得意サンノ注文オチャノコサイサイヨーナゼ店デ食ベテ行イカナイカ?」

片言の日本語を身ぶり手ぶりで話す店員のサイモンは見送る客に向かって問いかける。

黒で統一したシンプルな服装で酔っぱらいの手土産のようなものを持つ客、折原臨也は肩をすくめて笑った。

「そうしたいのは山々なんだけどいつシズちゃんに会っちゃうか分からないからね。

 久々にここの寿司が食べたくなって寄ったんだ」

「オォー喧嘩ヨクナイ。アナタトワタシ、ナカヨシコヨシ、大キナ栗ノ木ノシタヨー」

「あいつに会わないうちにさっさと帰るのが得策……」

暖かい東京の街では少し浮いて見えるファー付きのコートを翻し、店を離れようとしたその直後。

得策は得策では終わらなかった。

目の前を猛スピードで横切った街の一部。

街路樹に当たってようやく止まったのは定食屋の店頭にあった食券販売機だ。

辛うじて直撃を免れた臨也は微動だにせず冷ややかな目線で販売機の飛んで来た方向を見る。


「…ほらね」


夜の街の人混みを切り裂いた販売機の延長線上には、会わないように会わないようにと細心の注意を払ってきた男が立っていた。


「……何でてめぇが此処にいるんだ…?」


傘を投げ捨て、ゆっくりと詰め寄ってくる静雄だが間にサイモンが入って何とか乱闘になるのを防いだ。

臨也は手に持っていた持ちかえり用の寿司の袋をくるくると指先で回しながら笑う。

「何でって夕飯買いに来たんだよ。君に俺の夕飯のメニューにまでケチつける権利があるのかな?」

「テメーの夕飯なんざどうだっていいんだよ…寿司食いてぇなら近所のスーパーで買ってろ」

「安物の寿司で済ませるなら最初から寿司なんか食わないよ。貧乏舌の君には分かんないか」

「だからって池袋に来るんじゃねぇって何回言ったら分かるんだ…?あぁ…!?」

手近にあった道路標識に長い右手が伸び、太い支柱をがしりと掴むとコンクリートに埋まっていたそれはいとも簡単にすっぽ抜ける。

根元の崩れたコンクリートがパラパラと地面に落ち、

先端の侵入禁止マークがゆっくりと傾いて静雄の腕と平行になった。

長いこと雨に当たっていたせいで支柱は濡れて滑ったが、静雄にとってはどうでもよかった。

そんな光景を誰より見慣れている臨也は鼻で笑って首を振る。



「やれやれ…相変わらずだねぇ君は。これじゃ彼女も苦労するはずだ」

「…あ……?」


標識をふりかぶった静雄の動きが止まる。

目の前の男の口から思いもよらぬ単語が出てきたからだ。


「前科持ちの化け物を、鉄パイプでも俺のナイフでもなく情報から守るんだってさ。傑作だろ?」


それを聞いた瞬間静雄は自分の全身の毛が逆立つのを感じた。

これまでボコボコと沸騰していた臓物が一定の状態を保ったまま、

ようやくまともな言葉を発するだけの伝達指令をすばやく脳へ送る。


「……あいつに何話した……」


こめかみに血管が浮き出るのを感じながら声を絞り出す。

臨也はその殺意を受け流すように鼻で笑った。

「つい先日新宿で偶然会ってね。世間話をしただけだよ。

 昔の話を聞いてちょっとは動揺してくれるかと思ったけど火に油だったみたいだ」

雨が鬱陶しいのか、目の前の男が鬱陶しいのか。

無論、両方だ。


「君だって分かってるんだろ?今やあの子はカラーギャングの間じゃ名の知れた有名人だ。

 ネットに顔写真や名前だって出回ってる。これまでそれを利用した奴らがいたようにこれからもっと増えるだろうよ。

 まぁ警察にそれをどうにかする力はないだろうし、結果として彼女に何かあったら真っ先に疑われるのは君だろうね」
 

ぶつんと男がするのと体が反応するのはほぼ同時。

右脚を軸に上半身を捻って標識を振りかぶり、槍投げのように全力で目の前の男に投げつけた。

雨垂れを飛沫に変えて飛んでいく標識は男に避けられ、先にその場所に突っ込んだ自動券売機に突き刺さる。

「所詮無理なんだよ」



「君が、愛を語るなんてさ」



人ごみに紛れて消えていく臨也を黙って見逃す気になったのは、話に出てきた彼女の顔を思い浮かべたからなのか。

あの男が言っていた言葉が気になったからなのか。

多分、両方だ。

…無理も何も、「愛」なんて語った覚えがないのだが。

世界の中心でなんちゃらを叫ぶだとか、なんちゃらがあれば歳の差なんてだとか、

この街に溢れてる「愛」とかいうやつの形を全て語れたとして


(…すげぇことなのか……それは…)


右手を見下ろす。

濡れた金属を掴んだ感触はもうなかったが、降り続く雨は相変わらず鬱陶しかった。


「…くそ……」


濡れた手で濡れた髪を掻き上げても気は晴れなかったが、冷静さを取り戻すのは自分が思っていたよりも早かった。



『静雄さん、何か食べたいものありますか?』



3日前、互いに仕事を終えて目白のアパートまで歩いていると突然が尋ねてきた。

つい先ほど2人で夕食を食べたばかりだったので静雄もすぐには食べ物が連想出来ない。

考えながら5歩ほど歩いてようやく浮かんだ。

『…あ、アレ。クリスマスの時お前が作ってくれたやつ』

『クリスマス…あ、肉じゃがですか?』

去年のクリスマスは散々で、豪華ディナーも綺麗な夜景もなかった。

家に着いたのはクリスマスが終わってからで、「材料なくてこれしか作れなかったんですけど」と

が作ってくれたのが肉じゃがだった。

母親が作ってくれた肉じゃがの味を覚えているかと言われると微妙だから比べられないが、

優しい味がして美味しかったのを覚えている。

『じゃあ、今度の土曜は肉じゃが作りますね』




ぼんやりと部屋のテーブルを拭いていたは玄関のチャイムではっと我に返った。

慌てて立ち上がり、短い廊下を走って玄関に向かう。

二重にしているドアロックも来客が分かっているので手早く外してしまった。

「静………」

外開きのドアを開けては思わず絶句する。

ドアの前に立っていたのは間違いなく静雄だったが、右手に傘を持っているのに何故か全身ずぶ濡れだ。

そんなに暴風雨だったのかとは慌ててドアを大きく開いた。

「だ、大丈夫ですか…!?雨そんなに酷かったんですか…!?」

「いや…そういうわけじゃねぇんだけど…」

「と、とりあえず入って下さい!」

静雄が困ったような顔をしながら右手でドアを支えたのを確認し、

はすぐに廊下を戻って脱衣所からバスタオルと小さいタオルを引っ張り出してきた。

いつも無造作な金髪が完全に寝て直毛になっていて初夏だというのに寒そうに見える。

静雄はサングラスを外して小さいタオルで髪を拭きながらバスタオルも受け取った。

「何か温かい飲み物持って……」

再び踵を返して廊下を戻ろうとしたが、後ろから緩い力で制止される。

は一瞬何かが起こったか分からずに目を丸くしたが、

静雄に渡したはずのバスタオルが何故か自分の腹のあたりにある。

バスタオルを握る静雄の手も、ある。

時間差で背中に少しひんやりとした感触が伝わってきて、それを認識すると同時に体がかっと熱くなった。


「……あ…あの……、静雄さん……」


密着してると分かるとなかなか自分で体温は調節出来ない。

目が回ってきた。

「…あぁ、悪い。服濡れるな」

「い、いえ…それは大丈夫ですけど……何かあったんですか…?」

は少し首を捻って静雄を見上げる。

静雄より先に頭に下げたタオルが目に入って、次に目があった静雄は困ったように苦笑した。


「…あったけど、忘れた」


そう言って笑うので、もそれ以上聞けず首を傾げる。

「もしもの話だけどよ」

「?はい」

「もし、俺が無実の罪で警察に追われて北極まで逃げるから一緒に来てくれっつったら、来るか?」

本当にもしもの話だった。

同時に折原臨也から聞いた言葉を思い出して少しどきりとする。

なぜ静雄が突然そんな話をするのか分からなかったが、

もしかしたらここへ来る途中その諸悪の根源と顔を合わせたのかもしれないと思うと納得がいった。

は傾けていた首を戻し、数秒考えて再び静雄を見上げた。

「まずは私が警察に事情を説明して…それでも駄目だったら一緒に行きます。

 あっ、北極なら色々準備が必要ですよね!毛布いっぱい持って、防寒着も買って…

 あと私パスポート持ってないから…」

「そういや俺も持ってねぇな」

「あれ取得に結構時間かかるんですよね?だから早めに申請しないと…」

そこまで言ったところで静雄が顔を伏せて吹き出すように笑った。

「…馬鹿だって思いますか?」

「いや」

静雄はゆっくり首を振る。




「俺、お前のそういうところ好きだ」




あまりに柔らかく笑うので、は言葉に詰まってしまう。

「私も、」と言えなかった。言うタイミングを逃してしまった。

ようやく両手を離して、静雄は廊下の先を見ながらスンスンと鼻を鳴らす。

「すげえいい匂いする」

「あっ、ご飯出来てます!すぐ温め直しますね」

はそう言って小走りで廊下を駆けて行く。

静雄はそれを見送りながら、バスタオルでしっかり体を拭いて玄関に上がった。





どっかのノミ蟲がどんな「愛」の形でも語れるというのなら


語ってみやがれ、この「愛」とやらを。






アンケートで2位を頂きましたシズちゃんです。
最近、このヒロインでシズちゃんを書くのが一番こっ恥ずかしかったりします(笑)
中学生みたいな恋愛をする成人バカップル。
いつまでもチューより先にいけないけど別にいいと思ってるそんな感じ。