ようこそ、音速でやってきた3月14日-前編-








「新宿の本社にですか?」


上司のデスクに呼び出されたかと思ったら、大きく厚い封筒を渡されておつかいを頼まれた。


「そう。FAXの故障で今度使う資料が向こうに行ってなくてね。

 電話じゃ用足りないから届けて欲しいんだけど…今他に手の開いてる子いなくて」


女性上司はそう言って作業中のパソコンから目を離し、デスクの前に立つを見上げる。

今日片づける予定の仕事を全て終え、そろそろ退勤しようと準備をしていた自分に声がかかった理由が分かった。

の勤める出版社は新宿に本社があり各専門誌によって東京にいくつか支社がある。

20〜30代の女性向けの雑誌を扱うの会社は池袋にあり、池袋にはもう一か所10代の女性をターゲットにしたファッション誌の事務所もある。

新宿の本社はそれら全ての監修を行っているのだが、資料交換に重要なFAXが壊れているとは一大事だ。


「届けたらそのまま退勤していいから。お願いできる?」

「はい。行ってきます!」


は封筒を抱え、自分のデスクに置いていたバッグを持って会社を出た。


(…新宿の本社なんか、滅多にいかないもんなぁ…)


入社試験に行ったのが最後だった気がする。

池袋と自宅の目白を行き来するだけの生活なのでその他の場所にあまり行かない。

(でもおかげで早く帰れそうだっ)

封筒をしっかり両腕に抱え、足取り軽く池袋駅の改札を通った。







池袋・某高級マンション


我が家が近づくにつれて足早になり、部屋が近づくとスキップに変わる軽い足取り。

白衣を翻し、右手のカバンを振りまわしそうな勢いは高級マンションの重厚なドアを通り過ぎてしまいそうだった。


「セルティただいー…」


出張検診が早めに終わって愛する恋人の待つ我が家へ意気揚々と帰ってきたのだが、

ドアを開けて玄関を見た瞬間その表情は一転した。

その場に革靴と脱ぎ捨て、カバンも放り投げてリビングへ猛ダッシュ。


「セルティィィィ!!!俺の知らないところで他の男を連れ込むなんて酷いじゃないか!!!」


スライディングを決め込みそうな勢いでリビングに駆けこむ。

だだっ広いリビングには帰りを待つ恋人だけが座っているはずだったが、

大きなソファーには恋人の向かいに見慣れたバーテン服の男が座っていた。


「…あれ、静雄じゃないか。来てたの?じゃあ玄関にあった革靴って君の?」


立派な革張りのソファーに向かい合って座る恋人のセルティと友人の静雄。

家主である新羅はそれを見て冷静さを取り戻し、少し下がった眼鏡を上げ直してソファーに近づく。

普段玄関には自分とセルティの靴が二足あるだけなのに、今日は男物の革靴が一足あったために早とちりしてしまった。

新羅がソファーに近づいたが、2人は向かい合って俯いたまま動こうとしない。


「…もしもし?俺見えてるよね?」


改めて新羅が声をかけるとセルティがはっとして影を揺らめかせた。

『あぁおかえり新羅。新羅も一緒に考えてくれ』

「は?何を?」

迎えの言葉の次に主語のない不可解な言葉がPDAに打ちだされる。

新羅は首をかしげてセルティを見ると、その向かいに座る静雄にも目をやった。

静雄は灰皿に立てかけた煙草を途中にしたままじっとテーブルを見つめて微動だにしない。

こんなに長いこと黙っている彼を見るのは久しぶりかもしれないと新羅は思った。


ちゃんが欲しそうな物を一緒に考えてくれ』


するとセルティが再びPDAに文字を打ち込んだ。

ちゃん?誕生日近いの?」

新羅が首をかしげるとセルティは首を振る。

そこで新羅はようやく今日の日付を思い出して理解した。


「あぁ、ホワイトデー?なに、まだお返し買ってなかったの?静雄」


けろりと答える新羅の言葉にこれまで微動だにしなかった静雄の肩がぴくりと動く。

「今日何日か知ってる?3月14日は今日だよ?これまでは無縁だったかもしれないけどこれからは違うんだからさ、

 そういう行事ちゃんとチェックしないとちゃんに愛想つかれちゃう…ぉうぶぇ!」

「…悪かったな無縁でよ」

勢いよく立ちあがった静雄がそのまま新羅のネクタイの根元を引っ張る。

「締まる締まる締まる締まる!!!ネクタイ千切れる!!!ごめんなさい調子に乗りました!!!」

次第に青くなって行く白い顔。

両手をバタつかせる新羅を見てセルティが慌てて止めに入ると、静雄はぱっとその手を離した。


「…千切れたらネクタイを作った人に悪いな」


行為とは裏腹に律儀なことを言って再びソファーに腰をおろし、

すっかり短くなってしまった煙草を改めて潰した。

一瞬目の前を白い線が横切った新羅の視界は再び良好になり、戻ってきた酸素を思う存分に吸い込んで大きく深呼吸する。


「…は…、はぁ……そ、それで…?ちゃんにあげるお返しで悩んでるの?

 クッキーとかキャンディとか、店で色々売ってるじゃない。あんまり悩まなくてもいいと思うんだけど」

『そっちじゃないんだ。菓子の他にあげるものを悩んでるんだよ』


静雄の代わりにセルティが説明した。

新羅はそこでテーブルの上にあるジッポライターに気付く。

普段100円ライターで間に合っている男が自分で買ったものではないなとすぐに分かった。

「そのライターちゃんに貰ったの?いいセンスしてるねぇ。うん、静雄っぽい」

その言葉に静雄は頭を掻いて照れくささを誤魔化すように新しい煙草を出す。

「彼女の好きなものなら静雄が一番知ってるんじゃないの?」

「あいつの好きなものはラーメンとマックの月見バーガーしか知らない」

「そんな食べ盛りの中学生じゃないんだから」

お互いによく知り合っていない凸凹したカップルだなぁとは前々から思っていたが、

付き合いを重ねながら知り合うのだって全然アリだ、と思う新羅はそれを指摘しなかった。

だがここまで来ると一大事かもしれない。

静雄は浅く溜息をつき、同時に白い煙を吐きながら再び頭を掻く。


「…セルティならあいつと一緒にいて色んな話するから、そういうこと分かるんじゃねぇかと思って聞いたんだ」

『いや、お前ほど一緒にいないし会っても世間話しかしないぞ』

「いや俺といても世間話しかしねぇぞ」


セルティは敢えてに恋慕の相談をしていることは言わなかった。

…だってそこに新羅いるし。

「ここは手堅く指輪!とか!俺なんかお返しにちゃんと純白のウエディングドレスをぅ!!」

口を挟んだ新羅の腹にセルティのチョップが決まる。

「せ、セルティ…今のちょっと…み、みぞおちに入っ、た…」

『真面目な話をしてるんだ』

セルティはPDAを突き出して影を大きく揺らめかせる。

「分かってるよ…ごめんごめん。ちゃんは…アクセサリーとかつける子だっけ?」

「いや、時計ぐらいしかつけてない」

「確かにあんまりジャラジャラしてるイメージないなぁ…難しいよねぇ女性は。

 いやいや、しかし普段滅多に考えることで脳を使わない君がそういうことで悩むのはいいことだよ。

 こういう場合君の全身の筋肉への伝達運動はどうなるんだろう?少し抑えられるのかな?

 そうなれば静雄も物と人に優しくクリーンな体に生まれ変わっわわわわわ」

静雄は再び立ちあがって大きな手で新羅の頬を左右から鷲掴みにする。

「人を燃費の悪い車みたいに言ってんじゃねぇよ」

「い、いや静雄の体はどちらかと言えばかなり燃費のいいぃだだだだだ!!!」

歯茎の輪郭が分かるまで指が減り込む。

すると

 
『あ!』


セルティが勢いよく立ちあがってPDAを2人に突き出した。



『確かちゃん…』



山手線の電車に揺られるのバッグの中で携帯が震えた。

吊革を持ち直し、封筒を脇に挟んで携帯を開くとその表情が変わる。

きっと周囲にいた誰しもが恋人から来たメールだと分かるような、そんな明るい表情。

向こうからメールが来ることが滅多にないせいか、何度メールをやりとりしてもこの表情だけは自分で制御できない。



From 静雄さん
今日仕事終わったらあいてるか?



読んですぐ返信ボタンを押し、「あいてます!」と一番よく使う顔文字を後につけて手早く送信した。

車内アナウンスが「次は新宿、新宿」と流れる頃「じゃあ7時にいつもの所で待ってる」と絵文字も顔文字もないいつも通りの返事が返ってきた。

いつもの所、というのは2人の会社の丁度中間地点にあるコンビニだ。

大抵待ち合わせにはそのコンビニを使っている。

は「分かりました」と返信して携帯を閉じ、新宿駅で電車を降りた。


(今日は一緒に何食べようかなぁ…あ、新しく出来たラーメン屋さん提案してみようかな)


てっきりいつものように夕食の誘いだと思っているは、

相手が3人がかりで悩んだ末にようやく送ることが出来たメールだとは気付くはずもなかった。







「あーやっぱ街混んできたなぁ」

「そうですね」


新羅のマンションを出て仕事に戻った静雄はトムと一緒に池袋の街を歩いていた。

陽が傾くにつれて多くなっていくカップル。

バレンタインほどではない気がするがやはりいつもより街は賑わっているような気がする。


「終わったらちゃんと会うんだろ?最初だけちょっと俺も顔出していいか?

 ちゃんにお返し渡さねーと」

「別に最初だけじゃなくても…一緒に飯食いましょうよ」

「いや俺もそこまで野暮じゃねーよ。お返し渡したらとっとと消えるわ」


首をかしげる静雄の横でトムは苦笑を浮かべた。

多分ここに彼女がいたら「そうですよ一緒に食べましょうよ」と言うだろう。

…2人共トムに気を遣って言っているわけじゃないから面白い。


「しかしまさかお前と女に贈るもの選ぶことになるとは思ってなかったわ」

「すいません付き合ってもらって…」

「いいって、流石に下着屋とかだったら付き合えなかったけど」

「…それってただの変態じゃないんですか?」

「いや今流行ってるらしいよ。プレゼントに下着とか」

「へぇー」


丁度道路を挟んで向かいに女性の下着専門店が見えたのでトムはそう言ったが、

静雄は自分の手首に引っかかった袋を気にしながら生返事をした。






同時刻・新宿駅


本社は駅からほどなく、用事はあっけなく終わった。

駅前の時計は午後6時を指しており約束の7時までまだ1時間ほどある。

一度家に戻るのも億劫だし、とは駅前で時間の潰し方を考えていた。


(…とりあえず池袋の戻ろう。静雄さんも早めに終わってるかもしれないし)


時計の前を離れ改札に向かおうと踵を返すと、腕に下がっていたものがするりと滑って地面に落ちた。

小さな金属は音を立ててアスファルトに跳ね返り数十センチ先に転がる。


「あ」


慌てて駆け寄って拾おうとすると、前から歩いてきた人影が立ち止まって落ちた金属を拾い上げる。



「どうぞ」

「、あ…!す、すいません!!」


黒く長い手がシルバーの細い腕時計を差し出してきた。

差し出された時計に手を伸ばそうとして、指先が鎖を弾き時計は再び地面に落ちる。

だがの目線は地面ではなく時計を拾ってくれた相手から逸らせずにいた。





「……折原………臨也さん…」






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