「静雄さん」
夜9時 池袋某所のマクドナルド店内
男女が向かいあって軽食を済ます光景はありふれていたが、
自分の向かいに座って先ほどまでハンバーガーを食べていた彼女が急に真顔で自分の名前を呼んだものだから、
男の方は目を丸くしてシェイクのストローを口から離した。
「どした?」
「…静雄さんって、甘いものお好きですか?」
食べかけのハンバーガーの包みをわざわざトレイに置いて、
両手を膝の上に落ち着かせてまで聞いてきたことは静雄にとって不可解な質問だった。
僅かに目を細め、自分が右手に持っているシェイクを見下ろして「あぁ」と数回頷く。
「これのことか?」
「あ、いえ…その、シェイクって結構甘いじゃないですか?
だからシェイクを飲めるってことは…甘いもの好きなのかなぁと思って…」
真顔だった表情は一転綻んで、いつものように柔らかいものに変わった。
静雄はが指差したシェイクを再び見つめて少し首をかしげる。
「…別に特別好きってんじゃないけど…何でだろ、暴れた後って甘いモン欲しくなるんだよな」
それは多分派手に動いて血糖値が下がっているからではないだろうか。
はそれを指摘しようと思ったがやめて苦笑した。
「じゃあ、ケーキとかお菓子は食べますか?」
「ケーキ…は食わないな…食う機会もねぇし…
菓子は会社にあればたまに食うけど……何で?」
ズズズーッとシェイクを啜りきったところで静雄は再び首をかしげる。
は顎に手を当ててまた真顔で「うーん…」と唸り声をあげていた。
「分かりました!厳選します!」
「いや…何を?」
急にぱっと顔を上げて右手の拳を握りしめるを見て静雄は怪訝な顔を浮かべた。
さらば、鈍足だった2月14日-前編-
「ちゃんは静雄にチョコあげるんだよね?」
一台のバンの中で温かい缶コーヒーを飲んでいると、隣に座っていた友人が突拍子もないことを聞いてきた。
だが今が2月上旬だということを考えると突拍子でもないのかもしれない。
はコーヒーをしっかり飲み込んでから友人の方を見る。
「…静雄さんってチョコ食べるんですかね?」
「いやキミが知らない静雄のことを私たちが知るわけないじゃない。
ねぇゆまっち?」
心底不思議そうな顔で聞き返すを見て隣に座っていた狩沢は思わず吹きだした。
後ろの席に座っていた遊馬崎も笑いながら「そうっすねぇ」と相槌を打つ。
「もしかしてあげないつもりでいたの?」
「いえ…煙草をよく吸う人って甘いもの駄目なんじゃないかと勝手に思ってて…
もしあげるならあまり甘くないチョコをがいいかなーっては考えてたんですけど」
仕事帰り、買い物中だった狩沢たちと偶然会って「車の中で茶でもしばかない?」と誘われて今に至る。
彼らが今日買ってきた電撃文庫の新作の語りに始まり、自然の流れで「静雄は元気?」と聞かれ、
そしてその流れのまま冒頭のようなことを聞かれた。
「あー…そっか、どうなのその辺、ドタチン」
「知らねぇよ。学生の時だっていっつも一緒にいたワケじゃねーんだから。
食い物の趣向まで知ってたら気持ち悪ぃだろ」
前方で同じように缶コーヒーを飲んでいた門田は呆れ顔で答えた。
運転席の渡草は全開にした窓から煙草を持つ右手を出している。
「バレンタインかぁー私も去年死ぬほど作ったわ!」
「えっ狩沢さん誰かにあげたんですか?」
は興味津々というように身を乗り出して狩沢を見た。
友人になって1年近くが経つが、二次元にどっぷりな彼女に男の影はないように見える。
の反応を見た狩沢はケラケラと笑いながら「違うわよ」と否定した。
「友達でコスプレ喫茶に勤めてる子がいてね。去年その手伝いをしたんだけど、
板チョコにキャラの絵を描いた痛チョコを作ってバレンタインに配ったのよ。
それがもう大盛況で!でもなんかコスト的にも痛かったらしくて今年からお徳用チョコにしたらしいけど」
「あの痛チョコは凄かったっすよね狩沢さん!俺通いまくってコンプしましたもん!」
「ちゃんも静雄にあげる!?痛チョコ!!」
「…多分カチ割られると思うんですけど…」
は苦笑しながら静雄の姿を想像した。
思えば彼と親しくなってから贈りものという贈り物をしたことがない。
クリスマスはの自宅で夕飯を食べて終わったし、
お互いの誕生日を知らないのでプレゼントをあげたこともなかった。
1年が経とうとしている今になっても、プレゼントをあげた時の彼の反応というのは全く想像できない。
突き返されるまではしないだろうが喜んでいる表情も想像できなかった。
(…この子に貰えば例え痛チョコだろうと何だろうと黙って食うだろうけどな)
後部座席の騒がしい会話を聞きながら門田は野暮なことを考えていた。
「手作りにするの?痛チョコ作りたいってんなら教えてあげるよ!」
「いえ、バレンタイン前日まで仕事立て込んでて時間がないので…
どこかで買おうと思ってました」
「あ、そっか。ちゃん女性誌の編集者だもんねぇ。バレンタインは忙しそうだわ」
女性向け雑誌はほぼ全てといっていいほど2月にバレンタイン特集を組む。
人気のチョコレートやおすすめデートスポット、チョコと一緒にあげたいプレゼントのランキングなど話題は様々だ。
の会社では月末に発刊する為、バレンタインはリアルタイムで記事作りをしなければならない。
「今年もバレンタインフェアやってる店全部回ってコンプしようねゆまっち!」
「はい!去年同様防腐剤買ってコレクションにするっす!!」
盛り上がる後部座席をルームミラーで傍観していた門田は呆れ顔で溜息をつき、ふと車の時計に目をやった。
「おい、そろそろ店閉まるんじゃないのか?」
「あ!アニメイト!」
時刻は8時。
アニメイトは8時半閉店だ。
「すいません長居して。コーヒーありがとうございました」
「いいのいいの!ドタチンの奢りだから!こっちこそ引き止めてごめんね!」
後ろの遊馬崎が席を立ってバンのスライドドアを開けてくれた。
が持っていこうとした空の缶を狩沢が取り上げて陽気に笑う。
「じゃあまたねー!」
「静雄さんによろしく!」
2人は車を降りたに手を振りながら再びドアを閉め、
助手席の窓が半分開いて門田も軽く手を振ってきた。
が手を振り返して頭を下げると、エンジンがかかったバンは急発進してアニメイトの方向へと走って行く。
バンのテールランプを見送りながらは腕時計で時間を確認した。
(…どこかでチョコ見て行こうかな)
デパートやケーキ屋では1月の下旬からバレンタイン商品を売り出している。
バレンタインを3日後に控えた今はその売り出しもピークだろう。
バッグを肩にかけ直して近くのデパートへ向かおうとすると
「あ」
駅の方向から猛スピードで走りぬけてくる漆黒の影。
はそれを見逃さず、またその影もを見逃さなかった。
「セルティさん!」
が声をかけると都市伝説はぴたりと停まり、地面に片足をついて即座にPDAを取り出す。
『買い物?』
「はい。あ、さっきまで狩沢さんたちと一緒でした」
素早く画面に映し出された文面には笑顔で答るとセルティはコクコクと頷いた。
「これからバレンタインのチョコを見に行こうと思って」
続けてがそう言うと、セルティはしばらく首をかしげて再びPDAに文字を打ちこんでいく。
『そっか。そういえばそんな行事もあったね』
「セルティさん…新羅さんにあげないんですか?」
他人事のようなそっけない文章を見てはきょとんとした顔をした。
セルティは返事に困り、何回か左右に首をかしげて考えると再び指を滑らせる。
『何年も一緒にいるけど、一度もあげたことないよ』
「え、どうしてですか?」
『新羅はあまり甘いものを食べないし…私も店には買いに行けないから』
長年この国で生活してきて2月14日に女性から好意を寄せる男性にチョコレートを贈る行事のことは知っている。
だがこれまで自分にとって全く関係のない行事だったため、それを実行しようと考えたことはなかった。
新羅と親しくなれてからは無関係というわけでもないのだが、
このナリでは店に入ってチョコレートを買うことなどできるはずもない。
「じゃあ、もしよければ一緒に行きませんか?」
の言葉にセルティは再び首をかしげる。
「静雄さんもあまり甘いものを食べる人じゃないから、甘さを抑えたチョコを探そうと思ってたんです。
だから同じようなものを一緒に選んで私が買えばいいんじゃないですか?
店に入らなくても、チョコレートの専門店なら写真入りのパンフレットを置いてたりするし…
味見をさせてくれるところもあるから私が食べて確かめれば大丈夫ですよ。こう見えても舌には自信があるんです!」
はそう言ってにっこりと笑ってみせた。
フルフェイスヘルメットを被っていては店内に入ることも出来ないし、脱いでも首がないから味を確かめることができない。
そんな自分を気遣ったの言葉に感動したセルティだったが、すぐ我に返り慌てて指を滑らせた。
『そこまで迷惑かけるわけにはいかないよ。ちゃんは静雄の分を選ぶだけでいいのに』
「迷惑なんかじゃないですよ。それに新羅さんすごく喜ぶと思います」
のその言葉にセルティの心が動いた。
自分が新羅にしてプレゼントしてやれるものといえば、運び屋として得た金で好きな食べ物を買ってやることぐらいだ。
新羅はその度に「そんなの気にしなくていいのに」と言うけど、同居人として、また1人の大切な人間として、
彼に何か贈ってあげたいと思っていたのは事実だ。
『…そうかな…?』
「はい、絶対!」
どんなに美味しい外食よりもセルティと居られる時間が一番嬉しいよ。
そんな台詞を真顔で言ってくれた程だし。
「今日はもう専門店閉まっちゃったので…明日行ってみませんか?」
はそう言って笑いながら首をかしげる。
セルティはまだ迷っていたが、もう答えは決まっていた。
『うん、じゃあ行くよ』
「よかった。明日は6時ぐらいに仕事が終わるので…都合のいい時間にメール下さい」
『分かった』
文字を打つセルティの指も心なしか弾んでいる。
…いい子だなーちゃん。
彼女と関わった周囲の人間は大抵そう言う。
静雄やセルティを見ても驚かないのは「変わっている」の一言で片づけられるが、
狩沢たちや新羅も口を揃えて彼女の人柄を絶賛している。
セルティは何より自分の正体を知った上で親しくしてくれることが嬉しかったし、
友人の静雄にもなかなか相談できないことを彼女に相談したりして信頼もしていた。
「…嬉しそうだね?セルティ」
マンションに帰ってきた恋人の軽い足取りで機嫌を察したのか、新羅がコーヒーをすすりながら笑って首をかしげる。
『ごめん明日はちょっと遅くなるかもしれない』
「なんか難しい仕事?」
PDAに映し出された文字を見て新羅が再び首をかしげるが、
セルティは軽い指さばきですらすらと文章を打ち込んでいく。
『ちゃんと会う約束をしてるんだ』
「へぇ、そりゃ機嫌もいいはずだ。女の子同士楽しんでくるといいよ」
まさかバレンタインの準備の為に約束をしているなんて思ってもいない新羅はそう言って微笑んだ。
セルティはボディスーツのファスナーを下ろしながらパソコンの前に腰を下ろす。
『明日は街に出る予定はあるのか?』
コーヒーのおかわりを注ぎにキッチンへ戻った彼の足音に少しそわそわしながら、PDAを持ってわざわざ新羅に見せに行った。
「え、ううん?用事はないよ?何で?」
『何でもない』
すぐにキッチンを離れて再びパソコン前の椅子に座った。
新羅はカップに口をつけながら首をかしげている。
…人間の女の子はバレンタイン前いつもこんなに落ち着かない気分になるのか。
特に打つ文章もないのだがテーブルで人差し指をトントンと上下させる。
(明日、楽しみだなぁ…)
「………あれ」
2月13日の夕方
静雄は携帯画面を見つめて短く呟いた。
「どうした?」
「あ、いえ…今日早めに終わるからメシでも食いに行こうと思ったんですけど…
あいつ先約あるみたいで」
缶コーヒーを飲みながら首をかしげるトムの向かいで静雄は頭を掻く。
「そりゃ残念だったな。俺と寂しくロッテリアでも行こうや」
トムはそう言って笑いながら静雄の肩を叩いた。
静雄はから来たメールに再び目を向けて首をかしげる。
From
Sub Re2:
すいません今日はセルティさんと会う約束をしてるんです(>_<)
また次の機会に誘って下さい!
(…仲いいのは知ってるけど…なんだろ)
セルティは食事をしないから一緒に夕飯を食べるわけではないだろうし、
女性同士でよくある喫茶店でお茶会、とかいうのでもないだろう。
(ま、いっか)
仲がいいのはいいことだ。
そう思って気に留めず、「分かった」と返信して携帯を閉じた。
同時刻・池袋某所
『…随分色んな種類があるんだね』
セルティはが持ってきたパンフレットを見つめてゆっくりと文字を打ち込んだ。
チョコレート専門店から少し離れた公園のベンチに2人並んで座り、これから買うチョコを吟味している。
チョコレートは丸や四角、花や動物を模ったものなど色も形も様々でざっと50種類はあるだろう。
「こっちの四角いのが割と苦めでしたよ。この丸いのはお酒が強かったです」
『あ、新羅は酒も滅多に飲まないんだ』
「じゃあお酒が強いのはやめた方がいいですね」
先に店に入って試食をしたが一緒にパンフレットを覗きこんで説明をする。
こんなに種類があっては選ぶのも大変なのだが、甘さを抑えたものに絞ればだいぶ選びやすくなる。
「あ、これ中にエスプレッソのクリームが入ってるみたいですよ」
『これいいかも。よくコーヒー飲んでるから』
「6個入りと12個入りと25個入り…12個入りだと別の種類も入ってますね」
『6個入りでいいと思う。多くて残っても勿体ないし…』
人に贈るものでこんなに悩んだのは初めてかもしれない。
セルティはそう思った。
こんなにたくさんある種類の中から大切な人を想ってたくさん悩んでチョコレートを買う人間の女の子はすごいな。
そうも思った。
横目でを見ると、彼女もまた真剣な顔でチョコを選んでいる。
(…静雄は幸せ者だな)
「じゃあ買ってきますね。待ってて下さい」
はそう言ってパンフレットとバッグを持って再び混みあう店の中へ入っていく。
セルティはその帰りを待ちながらが座っていたベンチに目を向けた。
仕事道具を入れているトートバッグの他に贈答用と思われる紙袋が混じっている。
印刷された店名を見るにチョコレートではなさそうだが、持ち手の紐に赤いリボンが結ばれているのが見えた。
セルティが首をかしげているとが紙袋を2つ持って店から出てきた。
「お待たせしました。はい、こっちがセルティさんの分です」
『ありがとう』
白い息を弾ませて戻ってくるに礼を言って、綺麗なプリントのされた茶色い紙袋を受け取る。
『静雄にチョコ2つあげるの?』
「え?」
再びベンチに座るにPDAを見せるとは首をかしげたが、
「あぁ」と頷いてベンチに置いていた別の紙袋を引っ張ってきた。
「これはチョコじゃないんです。チョコあげようって決める前から買おうと思ってたもので…
って、自分のとこの雑誌見て思い立っただけなんですけど」
はそう言って照れくさそうに笑う。
買ったチョコレートと袋を1つにまとめてバッグと一緒に脇に寄せた。
「新羅さん、喜んでくれるといいですね」
が柔らかく笑って言ったのでセルティはこくんと頷いた。
『本当にありがとう。ちゃんに言って貰わなきゃずっと買えないままだったよ』
「いいんです。私も楽しかったし」
セルティは自分の膝においている可愛らしい紙袋に違和感を感じながらも、
喜んでくれる新羅の顔を想像するとやっぱり嬉しくなった。
『静雄も喜んでくれるといいね』
「はい!」
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