エドガー・アラン・ポーは詩集を破り捨てた-4-
あれからどれくらい経っただろう。
はすっかり冷めてしまったココアの水面をしばらく眺めていたが、ふと思いたったように両手でカップを持ち上げていっきに口へと運んだ。
「……帰ります」
そう言ってすっくと立ち上がると、傍にいたエニスとミリアは驚いてを見上げる。
「さん…大丈夫ですか?」
「大丈夫…ごめんね2人とも迷惑かけて…リア、ココアありがとう」
は苦笑しながら2人に謝り、裏口で片付けをしていたリアにはココアの礼を言った。
休憩室から酒場に出ると手前の席に座っていたフィーロが慌てて立ち上がる。
「大丈夫か…?」
集まっていたマルティージョの構成員たちも心配そうな顔をしている。
マルティージョがガンドールと決定的に違うのは、構成員の全員が不死者だということ。
構成員だけではなくこの店の女将であるセーナや従業員のリアも同様だ。
ラックたちガンドールファミリーの幹部もその妻たちも、みんなこの場所であの酒を飲んだのだから。
…その時まだラックとが出会っていなかったことを悔やんでも今更遅い。
「うん、休んだら落ち着いた…」
「…セーナさん部屋貸すって言ってるぞ?お前そんな状態で家に帰れるのかよ」
顔面は蒼白で唇は紫色。
どうみても健康体とは言えない。
「平気。明日は講義もあるし…こんな時間まで邪魔してごめんね。皆さんも、ご迷惑おかけしました」
はそう言ってマルティージョの面々に深く頭を下げる。
「アパートまで送るか?」
「ううん、そんなに距離ないから平気。…一人で考えたいし。変なこと言って…ほんとにごめん」
店を出るといつの間にか雨は止んでいた。
フィーロはまだどんよりと厚い雲が立ち込める夜空を見上げながらを気遣ったが、は首を横に振って再びフィーロに謝る。
そう言われてしまってはフィーロも無理を言えなくなってしまった。
あまり店でラックとのことを聞くのもどうかと思ったから、彼女を家まで送りながら聞くつもりでいたのだが。
「いや、それは全然いいんだ。…こっちこそ悪い、幼なじみのことなのに力になれなくて」
フィーロが頭を掻きながら謝ると、は苦笑してふるふると首を振った。
「じゃあおやすみ」
「ああ。気をつけて帰れよ」
手を振りながら雑踏に消えていくの背中を見送り、完全に見えなくなってから静かに店の中へと戻った。
ドアを開けると入口ではエニスが心配そうな顔をしている。
「…さん、大丈夫でしょうか」
「うーん…ラックとちゃんと話が出来れば…大丈夫だと思うけど」
曖昧な言葉を返すしかない。
話の流れによっては2人が交際をやめる可能性だってあり得る。
だがそれは絶対にあってはならないことだし、誰もがそうなって欲しくないと願っていることだ。
すると
「「フィーロ!!」」
客席の合間を走り抜けてくるカウボーイ姿のアイザックと真っ赤なドレスを着たミリア。
ミリアはにつきっきりで裏口にいたが2人揃って関わると面倒くさくなりそうだと判断し、アイザックだけは酒場に追いやっていたのだ。
「おいフィーロ!何では泣いてたんだ!?何でラックと一緒じゃないんだ!?」
「いやそれは…」
ああもうまた面倒なことに。
なんと説明しようかとフィーロが口を濁しているとミリアが横から割り込んできた。
「ラックと喧嘩したんだって…すごく悲しそうだったよ」
「ラックと!?じゃあラックがを泣かせたってことか!?」
「きっとそうだよアイザック!」
「ラックはいい奴だけどそれはいけないなミリア!よし!今からラックにガツンと言いに行ってやろうぜ!!」
「殴り込みだね!!」
「女の子泣かせたらいけないんだぞって言ってやらなきゃな!
でもラックにはメキシコですっごく世話になったからあんまり強く言っちゃいけないよな!」
「飴と鞭だね!!」
「ちょ、ちょっと…待てって!別にラックが悪いわけじゃねーんだって!!」
勝手に話を進める二人にフィーロが慌てて助け船を出した。
「「……そうなの?」」
まるで状況を飲み込めていない二人を前にフィーロは心底疲れた顔で溜め息をついた。
「…頼むからお前らはこの件に関しては口を突っ込まないでくれ…」
翌日・ガンドールファミリー事務所
「……………」
ラックは受話器を耳に当てたまましばらくコール音を聞いていた。
十数回聞いたところで諦めて受話器を戻し、短い溜め息をつく。
かけた先は恋人の自宅アパート。
(…まだ講義の時間か)
時刻は正午を過ぎた。
マンハッタン内の大学に通うは恐らくまだ講義で大学にいるだろう。
冷静に考えればわかることだったが、冷静さを欠いている今はそこまで頭が回らなかった。
とにかく彼女と話をしなければ。
何から切り出そうとか、この先どうしようとか、そんなことはまだ考えていない。
とにかくと会って2人だけで話すことに意味があると思っていた。
(…夕方なら…戻っているかもしれない)
焦る気持ちを抑え、椅子に腰を落ち着かせたが気分は落ち着かない。
彼女はどんな思いで大学に向かったのだろう。
生真面目な彼女が、まさか講義をサボっていることなど予想もせずに。
「……………」
同時刻・マンハッタン某市民公園
は大学に「風邪で行けないと嘘の電話を入れた後、一人で公園のベンチに座り込んでいた。
仮病を使って講義を休むなど入学してから初めてだ。
昨夜の雨など嘘のような晴天だが、はそんな空を見上げることなくぼんやりと自分の足元を眺めている。
…ラックさんと会わなきゃ。
そう思いながらも足は動かない。
自分が勝手に話を盗み聞きして立ち去ってしまったから、ラックがどこまで状況を把握しているかも分からない。
だが恐らく昨夜アルヴェアーレに行ったことはラックの耳には入っているだろう。
ならば話さなければいけないことは決まっている。
(…どうしよう)
膝の上に肘をついて両手で顔を覆う。
…最低だ。
(…わたし)
(クレアさんとの話を盗み聞きして勝手に飛び出したりして…フィーロたちにまで迷惑かけて…)
下唇を噛みしめて自己嫌悪に陥っていると
「………あのぉー」
「っ」
突如至近距離から聞こえた声に驚いて、は勢いよく顔を上げた。
「あっ、ご、ごめんなさい!脅かすつもりはなかったんです!すいません!!」
ベンチのすぐ横に立っていた人物もの動作にビクッと驚いて慌てて何度も頭を下げる。
長い髪を1つに束ね、白衣を纏った若い女性。
申し訳なさそうに顔を上げた女性はあどけない表情に眼鏡をかけており、どこか地味な印象を持たせる顔立ちだ。
だが白衣の下に着ている青いシャツは胸元ギリギリまで開襟されていて、豊満な胸の谷間が覗いた。
加えて黒いミニのタイトスカートとハイヒール。
顔の地味さと体型や服装がアンバランスなその女性は、おどおどとの表情を窺っている、
「気分が悪そうに見えたので…あの、大丈夫ですか?」
女性はそう言って心配そうに首をかしげた。
「あ…す、すいません…大丈夫です」
まさか見知らぬ人にまで心配されてしまうとは。
は逆に申し訳なくなってぺこりと頭を下げた。
「もしよかったら、これをどうぞ」
女性はそう言って白衣のポケットから茶色い小瓶を取り出してに差し出す。
「私この近くの製薬会社に勤めてるんです。肉体疲労に効くお薬なのでよかったら飲んでみて下さい」
女性はにっこりと笑っての手に小瓶を握らせた。
「あ、あのお代は…」
「いいんですよーそんなの。試供品ですからー」
にこにこと笑う女性は白衣のポケットに手を入れ、ベンチを離れる。
「何があったのかは分かりませんけど、元気出して下さいね」
そう言ってひらひらと手を振るとスキップで駆け出していったが、数歩歩いたところで小石に躓き派手にすっ転んだ。
が慌てて駆け寄ろうとしたが、女性は恥ずかしそうに立ち上がって落とした眼鏡を拾い、そそくさと走り去っていく。
「…………」
すごいスタイルのいい人だったなー
なんてことを思いながら白衣の後ろ姿を見送る。
…ちゃんと白衣着てたし、よく見えなかったけど会社のバッヂみたいなのしてたし、きちんとした製薬会社の社員なのだろう。
そう思っただが、一応小瓶の蓋を開けて念のため飲み口に鼻を近づけてみた。
「……ん?」
…どこかで嗅いだことのある匂い。
首をかしげ、恐る恐る瓶に口をつけた。
「……………」
一口飲んで、すぐその液体の正体が明らかになった。
「…お酒だ」
なんてことはない、ただの醸造酒だ。
ウイスキーか何かの類だろうか、かなりアルコール度が高いように感じる。
お酒味の薬なのかとも思ったが、ほのかに体が熱くなってきたので間違いなく酒そのものだろう。
(…お酒でも飲んで元気出してって意味なのかなー)
嫌なことは飲んで忘れろとも言うし。
「…でも昼間ったら酔っ払うのはちょっとな…」
あとは全部解決してから家で飲むことにしよう。
瓶の蓋をしっかりと閉め、バッグの内ポケットに入れた。
…通りすがりの製薬会社員に励まされるほど自分は落ち込んで見えたのだろうか。
そんなことを思いながら立ち上がると、これから行くべき場所はすんなり決まった。
女性の好意に女性とは反対方向に向かって歩き出す。
その好意がどんな意味を持つかなど考えもせずに。
To be continue