彼の人は著した。




彼女の思いはただ一つ、

ただひたすら、私を愛し、私に愛されることだけだった。…と。








エドガー・アラン・ポーは詩集を破り捨てた-2-









「ごめんくださーい」


平日の午後3時を回ったあたり

は近所にある行き着けの古書店に来ていた。

年配の店主が1人で営んでいる小さな店だが、探してみると意外に珍しい古書があり

アパートの近くということもあってはしょっちゅうこの店に通っていた。

カウンターで新聞を読んでいた店主は顔を上げる。


「あれっ、ちゃん今日は1人かい?」


何度か通って親しくなった店主は1人で店に入ってきたを見て少し意外そうな顔をした。

は首をかしげながら後ろ手でドアを閉める。

「どうかしたんですか?」

「いやね、ラックさんに頼まれていた本が届いたものだから…

 今日お見えになったら渡そうと思ってたんだ」

店主はそう言ってカウンターから一冊の本を取り出した。

ラックもまたこの古書店の常連であり、2人揃って店に足を運ぶことも多い。

はそれを見てラックが詩集を一冊注文したと言っていたのを思い出す。

ずっと探していたものだから手元に届くのが待ち遠しいとも言っていた。

「渡してきましょうか?今の時間なら事務所にいると思うし…」

「そうして貰えると助かるよ。ラックさん随分探していたみたいだし…代金は先に頂いているから」

店主はの話を聞いて安心したように笑い、本を紙袋に入れてに差し出した。

は「お預かりします」と言って本を受け取り、代わりに自分が買うために棚から持ってきた本をカウンターへ乗せる。

「お二人揃って読書家だねぇ」

店主は本を包みながらにこにこと笑う。

やはり二人が恋人同士であっても、このシマを仕切るマフィアのボスよりは

日本人留学生のの方が緊張せず話ができるというものだ。

「これラックさんに勧められたんです。今読んでるのもうすぐ読み終わりそうだから」

はそう言って代金をカウンターに乗せる。

日本にいた頃から古書は好きだったが、ニューヨークに移り住んでから言葉を学ぶため海外の古書も読むようになった。

そのほとんどがラックに勧められたものだ。

「じゃあラックさんによろしくね」

「はいっ」

代金と引き換えに本を受け取り、は満面の笑みを浮かべて店主に頭を下げる。

ベルの取り付けられたドアを開けると少し湿っぽい向かい風が髪を揺らした。





ガンドール・ファミリー事務所


野暮用で事務所を出ていたラックは1人で地下に通じる階段を下りていた。

キースも別件で出かけているし、ベルガはフィーロに会いにいくとアルヴェアーレへ向かったので事務所には誰もいないはずだ。

急ぎの用事もないし、久しぶりに途中にしていた読書をしようと考えながら事務所のドアを開けると


「よ、おかえり」


誰もいないはずの事務所には、何故か幼馴染が我が物顔でソファーに座っていた。

「クレアさん。いつ戻ってきたんですか」

ラックは久しぶりに会う幼馴染に少し驚きながら数秒ドアの前で立ち止まる。

「暇が出来たから寄ってみたんだけど誰もいなかったからさ。

 シャーネとの待ち合わせまで時間潰そうと思って」

「事務所を暇つぶし代わりに使わないで欲しいのですが」

構成員が持ち歩いているナイフを数本使って見事にジャグリングしているクレアを見ながら

ラックは呆れ顔で中折れ帽を脱いだ。

「お前は相変わらず堅いなぁ。そんなんでお前あの子とうまくやれてるのか?」

クレアはつまらなそうに唇を尖らせ、いっきに放り投げたナイフを片手で全て受け止める。

5本のナイフは見事クレアの指の間に挟まっていた。

ラックはそんな超人的ジャグリングに驚くことなく、少し冷めた目線をクレアに送る。

「…なんでそこで彼女を話題に出すんですか?」

「いや、そろそろ結婚とかしないのかと思って」



ぼすっ



ラックは一先ず机に置こうとした中折れ帽を床に落とした。

軽い帽子はさして音を立てず静かに絨毯の上に乗っている。


(…何なんだこの間から…ベル兄といいクレアさんといい…)


「…自分の新婚生活が楽しいからって人にそれを押し付けるのは止めて下さい」

ため息をつきながら拾った帽子の埃を掃い、改めてフックに引っ掛けた。

「押し付けちゃいないさ。あ、でもシャーネとの新婚生活は最高だぞ?

 いや、生活といっても一緒に一つ屋根の下で暮らしてるわけじゃないんだが…

 何て言えばいいのかな。例え一緒に住んでなくても心はシャーネと一つ屋根の下にいるみたいな感覚なんだ」

「途中から只の惚気話になってますよ」

熱く新婚生活について語るクレアの言葉を受け流し、ラックは再び呆れるように深いため息をつく。

何だってこんなに身内から結婚話を切り出されるんだ。

…今まで、極力考えないようにしてきたことなのに。




その頃、は店主から預かった本を大事に抱えてガンドールの事務所へ向かっていた。

マフィアのボスと関係を持って数年になるがこうして事務所へ出向くのは意外と少ない。

ラックに来るなと言われたわけではないが、やはり仕事の邪魔になるからと用がある時以外は来ないようにしている。

ラックが出かけていないことを願いながらマルベリー通りを歩いていると

見慣れたジャズホールの看板が見えてきた。

地下にある事務所の階段の前に立ち、少し緊張した面持ちで深呼吸をして階段を下りた。




「つまりだ。俺が何を言いたいかというと、お前も折角彼女がいるんだから早いとこ結婚しちまえばいいんじゃないかってことだ」




数段降りたところで、突き当たりのドアからラックではない男の声が聞こえてきた。

は思わず足を止める。

(………この声…)

聞き覚えがある。


(……クレアさん…?)


前に数回会っただけだが、ラックより高い声はベルガやチックとは間違えようがなかった。

(……どうしよう)

出直した方がいいだろうか、そう考えているうちに今度はラックの呆れたような声が聞こえてきた。

「時が来れば彼女とそういう話をすると思いますよ」

「いや、お前がそういう曖昧な態度をとる時は粗方自分の中で整理がついてる時だ」

思いもよらないクレアの言葉にラックは眉をひそめる。

…この人はその手の話題に関してかなり破天荒で理不尽なのだが、たまにこうして的を射ることを言う。

それが十数年の長い付き合いだからといえばそれまでだ。



「もしかしてあの子が不死者とやらじゃないからなのか?」



そして、軽いノリで言った筈のクレアの言葉はラックの図星を突いた。


同時に、ドアを隔てた階段の上では身動きがとれなくなっていた。

全身の血の気がいっきに引いていく。

一瞬呼吸が止まった気さえした。

2冊の本が入った紙袋がほんの少しの動作で音を立てそうで、

足場の狭い階段の上で直立を保っているのは難しかった。


「………どうしてそう思うんですか?」


数秒して、ラックの落ち着いた声が聞こえてくる。

はびくりと肩をすくめた。

「だってそれ以外理由がないだろ?ケイトもカリアもお前らと同じように
  ・ ・ ・ ・ ・
 そうなったってんなら、不死者じゃないのはあの子だけじゃないか」

ラックの動揺とは裏腹にクレアはいたって冷静だった。

…そもそもこの男と出会って十数年、ラックは彼が慌てふためいた姿をみたことがない。

ラックは少し目を泳がせたが、しばらくして諦めたようにふーっと深いため息をつく。

「…確かに、これからの人生を彼女と過ごせたらと考えたこともあります。

 彼女の前では兄さんたちといる時と同じぐらい自然体でいられるし、

 彼女もそう感じてくれていると思っています」

「じゃあ」



「でもそれは、互いが普通の人間だった場合の話です」



ドアを隔てた向こうから聞こえるラックの低い声に、の体は硬直する。

…自分はここに居ないほうがいい。

この話は聞かないほうがいい。

なのに体はその場から動いてくれなかった。



「彼女は不死者ではない。老いて、私より先に死んでしまう」




それは"一般的"な人間の定義だった。





「私は誰かに食われない限り永遠にこのままですから。

 自分と幾つも年の違わない男が、何年、何十年経ってもずっと変わらぬ姿のまま。

 私だけが年もとらず、皺も出来ず、腰も曲がらず、彼女が死んだ後も永遠にそれを繰り返すんです。

 誰がそんな化け物と生涯を共にしたいと思いますか?」



まって



「それが幸せなどと言えますか?」




言わないで
 


「彼女には共に老いて、同じ時間を生きる伴侶が必要なんです」



それ以上




「この先…彼女と一緒になることは、ないと思います」





上の階から僅かに聞こえるジャスミュージックに掻き消されることなく


低い声は





確かな言葉を響かせた。





重心が思わず後ろへ傾いて



コツン!



「「ッ」」


ブーツの踵が階段に当たって高い音を立てる。

その音は部屋の中にいたラックとクレアにもしっかり聞こえていた。

ラックが慌てて立ち上がると同時には身を翻して階段を駆け上る。

ドアを開けて見上げる階段に、



彼女の後ろ姿を 見た。




「………ッさん!!」



後ろから聞こえたラックの声に立ち止まることは出来ず、

はそのまま事務所の入り口を出て路地を走った。

ラックは階段を上りきったところでビタリと足を止めてしまう。




…呼び止めてどうする。




無責任に





なんの保証も




無いのに






「…っはぁっ…はぁ、はぁッ…!」


気の済むまで走ったは、表通りの手前で立ち止まって屈みながら呼吸を整えた。

全力疾走したのは久しぶりで酷く胸が痛い。


「…、………ぅ…っ」


呼吸が戻ってきたところで、自然と涙がこぼれてきた。




…涙が出るのはラックさんにああ言われたからじゃなくて





何れは向き合わなければならないことを逃げてきた自分が恥ずかしだったからだ。




その全てを彼に委ねてしまった自分が





彼の優しさに甘えていた自分が











彼にあんなことを考えさせてしまった











・ ・ ・ ・
只の人間である自分が










とてつもなく浅はかで、愚かで、幼くて








…無力だった。











ラックが諦めて再び階段を下りると事務所のドアの前に紙袋が落ちていることに気づいた。





エドガー・アラン・ポーの詩集が、丁寧に包まれていた。







To be continued

アナベル・リー/エドガー・アラン・ポー