「なぁラック」
「何?ベル兄」
昼下がりの事務所。
中央のソファーでコーヒーを啜っていたベルガがラックに話しかける。
ラックはその向かいに座り、読みかけの本に目線を向けたまま返事した。
「お前と結婚とか考えてるのか?」
ゴドン。
エドガー・アラン・ポーは詩集を破り捨てた-1-
兄の唐突な言葉に、ラックは右手の本を床に落とした。
「……何…突然」
呆れたような表情でベルガを見て、絨毯の上に落ちた本を拾う。
「だってお前らいい加減付き合い長いんだろ?
別に突然でもなんでもねーじゃねーか」
「いや…だからって何でそれを今聞くのさ…?」
いつもと変わらぬ午後。
むしろいつもより平和に過ぎていく午後。
なのにどうして急に、兄から付き合っている彼女との結婚話を切り出されるのか。
ラックは完全に読む気のなくした本をテーブルの上に置いてベルガと向き合った。
「いやな、こないだマルティージョんトコに行った時フィーロに結婚がどうのとか聞かれてよ」
「…フィーロが?キスも告白もまだなのにいきなり結婚話に飛んだの?」
幼馴染の顔を思い浮かべ、ラックは僅かに眉をひそめた。
顔なじみの間では超がつくほどの奥手で、ホントに人間か?とまで言われている男とはあまり比べられたくない。
「アイツと違ってお前らはちゃんと付き合ってるわけだろ?
なら別に結婚考えたっておかしくねーじゃねーか」
「………………」
ソファーの肘掛に頬杖をつくベルガ。
正論を言われてラックは浅くため息をついた。
「…今はいいじゃない。その話はさ」
「?そうか?」
うまくはぐらかされたことも気づかず、ベルガは首をかしげる。
ラックは自分の前のコーヒーに口をつけ、2度目のため息をついてその脳裏に恋人の顔を思い浮かべた。
NY内の大学に通う彼女は今日も講義があって、
今日はそれが終わってから夕食に出かけようと約束をしている。
付き合い始めて、2年になろうとしていた。
「じゃあね、また明日」
は今日の講義を終え、大学の正門で友人と別れた。
アパートに向かって歩きながら、コートのポケットの懐中時計を取り出す。
(…ラックさんとの約束までまだ時間があるな…)
現在時刻は午後4時過ぎ。
ラックとの約束は6時だ。
「買い物して帰ろうかな」
くるりと踵を返し、行き慣れた商店街へと向かう。
(今日はラックさんと食べるから…明日の夜ご飯なに作ろう…)
異国での1人暮らしにも慣れ、
どうにかアメリカの食材でも料理が出来るようになってきたのだが毎日毎日その献立には悩まされる。
明日は夕方まで講義だから、簡単に出来るものにしよう。
そんなことを考えながら路地を歩いていると
「!」
後ろから声をかけられ、反射的に振り返る。
数メートル後ろには深緑のスーツを着た青年が立っていた。
「フィーロ」
は青年の顔を見てぱっと表情を明るくする。
ガンドール三兄弟の幼馴染であるマルティージョ・ファミリーの幹部、フィーロとはも顔馴染み。
ラックを通じて知り合い、年が近いことや互いの人柄もあって今では親しい友人だ。
「学校終わったのか?」
「うん。フィーロは?エニスと一緒じゃないの?」
「な、何でそこでエニスの名前が出るんだよ!
同居人だからっていつも一緒にいたらおかしいだろ…!?」
彼と同棲している彼の想い人の名前を出すと、
フィーロは赤面して動揺を露にした。
はそんな彼の様子を見てくす、と笑う。
の向かう店とマルティージョの事務所が同じ方向ということもあって2人は必然的に並んで歩き始めた。
「…お前こそラックと一緒じゃないのかよ」
「夕方約束してるよ。夕食に行くの」
「…夕食かぁ…いや、エニスとは毎日一緒にメシ食ってるからな…
でもチェスがいるから2人きりってわけじゃないし…」
フィーロは額に手を当てて唸りながらブツブツと不満を洩らす。
傍から見れば同棲できているだけで幸せそうなのだが、
フィーロ自身はもう1歩進展したいらしい。
…ラックに聞いた話ではキスや手を握ることはおろか、その想いすら伝えられずにいるというのだから不憫な話だ。
「…ラックはいつもどうやってお前を食事に誘うんだ?」
「え…普通に…「今晩一緒に夕食でもどうですか」って…
フィーロもそう言って誘ってみたらいいじゃない」
「「いつも食べてるじゃないですか」って言われるのがオチだと思わないか!?」
「だから…たまには2人きりで外食、とか…」
「い、嫌がられたらどうすりゃいいんだ!?」
「私はエニスじゃないから分からないよ…」
あくまで小声で不安をぶつけるフィーロと困り顔の。
自分も恋愛経験は決して豊富とは言えないが、
ここまで奥手だとどこをどうアドバイスしてあげていいか分からなくなってしまう。
エニスに関することはフィーロとラックからある程度のことを聞いているが、
は彼女が人造人間だからといってフィーロに無感情で接しているわけではないと知っている。
「……いや、変なこと聞いて悪かった。
ラックによろしくな」
「うん。エニスにもよろしく言っておいてね」
蜂の巣が描かれた看板前で立ち止まったフィーロは中折れ帽を脱ぎ、
幼馴染の名前を出して幾分落ち着きを取り戻した。
も笑って友人に別れを告げる。
「へぇ、フィーロに会ったんですか」
フィーロと別れた後邪魔にならない程度の日用品を買ったは、ガンドールの事務所から程ないレストランに来ていた。
鮮麗された店内には僅かに聞こえる程度のクラシックが流れており、
きちんと並べられたテーブルはほとんど満席だったが店全体はとても落ち着いた雰囲気だった。
向かいに座る恋人は幼馴染の名前を口にしながらグラスのワインを口へ運ぶ。
「これからラックさんと待ち合わせしてるって言ったら、
ラックさんはいつも私をどうやって食事に誘うんだって聞かれました」
はフィーロと交わした会話を思い出して笑い、ナイフとフォークで切り分けたポークステーキを口に運んだ。
「フィーロの奥手ぶりは時々可哀相になりますね」
「エニスがフィーロの誘いを断るわけないのに」
ラックは呆れるように笑って店内の窓から外を眺める。
もそちらに目線を移しながら残念そうに肩をすくめた。
それを聞いたラックは少し意外そうに目を丸くしてを見る。
「そう思いますか?」
問いかけられたは慌てて視線を戻し、膝のナプキンで口元を拭いた。
「フィーロといる時のエニスが楽しそうだからそう思うだけなんです。
女の勘かなぁ」
根拠ありませんよね、とは笑う。
ラックもつられて微笑むとワイングラスをテーブルへと戻した。
"結婚とか考えてるのか?"
向かいに座るを見つめ、ふいに兄から言われた一言を思い出してしまった。
落ち着いた雰囲気の店で恋人同士が向かい合えばいつ会話に出てもおかしくない内容だろうが、
ラックはこれまでなるべくその手の話題を避けてきたつもりだ。
おそらく彼女もそうだろう。
「?どうかしたんですか?」
「あ、いえ…すいません。何でも」
視線に気づいたは首をかしげたが、ラックは笑って首を横に振る。
…今はいいんだ。
今は、まだ。
「ありがとうございました。すごく美味しかったです。
事務所の近所にあんなお店あったんですねぇ」
は自分のアパートの前で嬉しそうに笑う。
ラックもそれを聞いて「よかった」と笑った。
恋人を家まで送り届けるのは当然の役目だとは思っているが、
自分といることで不死者でない彼女に及ぶ危険を考えると常に心配はついて回る。
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい。気をつけて帰って下さいね」
中折れ帽を被り直すラックには柔らかい笑みを向けながら言葉をかけた。
ラックは一瞬目を丸くさせたが、それを彼女に悟られまいとすぐに笑顔を作る。
「はい。ではまた」
アパートの前を離れ雑踏に紛れていくラックを見送り、
角を曲がって見えなくなったところではアパートの鍵を開けた。
ラックはトレンチコートの襟を立てながら自宅へと向かって歩き出す。
……気をつけて、か。
ある一つの方法を使うこと以外では、どんなことをしても死なない体になった自分に向かって
彼女は別れ際にいつもその言葉を投げかける。
彼女自身特に深い意味を持って言っているわけではないのかもしれないが、
ラックは日和っていた感覚がここ数日で敏感になりつつあった。
(………近いうち話をした方がいいのかもしれないな…)
自分に聞こえる程度の浅いため息は夜のNYの雑踏に消えて、
考えれば考えるほど今別れたばかりの恋人のもとへ引き返したいような気分になった。
…近いうち、なんていって本当は切り出すつもりなんてないくせに。
To be continued
5話ぐらいで終わると思います。