魚月





「………………」


思わず、小脇に抱えていた籠を地面に落としそうになった。

落とすわけにはいかない。籠には魚が入っているのだから。

陽が傾きかけた頃、水軍館から程ない小さな家屋に住む知人を訪ねて来たのだが生憎家主は昼寝中だった。


…土間と床の間で。


上半身は辛うじて床に乗っているのだが足はほとんど土間に出ている。

家に入る前に取り込んだだと思われる洗濯物を両手に抱きかかえるようにして、倒れこむように眠っていた。

健康的な色の爪先が中途半端に草鞋を突っかけているから、

最初は本当に倒れてるんじゃないかと驚いた。

声をかけようと近づくと静かな寝息が聞こえたので呆れて物も言えず、今に至る。


…どうやったらこういう寝方が出来るんだ。


寝相云々の問題じゃない。

寝るなら洗濯物を置いてちゃんと家の中で寝ればいいのに。

「おい」

一応、声をかけてみる。

「風邪引くぞ」

肩も揺すってみる。

眉をひそめることもせず寝言も言わず、ただ寝ることに没頭している。

溜息をついて頭を掻き、草鞋を脱いで屈みながら洗濯物ごと軽い体を抱え上げた。

そして部屋の中央まで運んでいって洗濯物と一緒に下ろす。

布団か何かかけてやればいいのだろうが生憎彼女は洗濯物枕が気に入っているようだ。


(不用心だな…)


町から離れているとはいえ、物盗りが来ないとも限らない。

年頃の娘が家の戸を開けっぱなしにして玄関で寝てるだなんて。

呆れてもう一度溜息をつくと白い洗濯物を握りしめる彼女の手に目が行った。

細い指はあかぎれと豆だらけで、お世辞にも年頃の綺麗な女の手とは言い難い。

女の手というより海で働く自分たち男の手に近いものがあった。




"同情か?罪滅ぼしか?"




「彼」を、助けたわけではなかった。



もうだめだと、息絶えていると知りながら海中で抱きかかえて引き上げてきて、

その姿をただ、彼の妹に見せただけだった。

小麦色だったはずの肌がびっくりするくらい白くなった彼の顔を見て、

彼女がぽつんと呟いたのを覚えている。



『…もう兄貴の捕った魚、食べられなくなっちゃうね』



"そんなんやめとけ。お前もあの子も、キツくなるだけだぞ"



「………ん…」

体がふわふわと浮いてるみたいな微睡みの中で

小さな泡が弾けたような感覚がして目が覚めた。

「……あれ…私こんな真ん中で寝てたっけ…?なんか…玄関あたりで力尽きた覚えが……」

畑仕事を終えて家に戻ってきて、ああ洗濯物取り込まなきゃって取りこんで

抱えた洗濯物がふわふわであったかくて気持ちよくて

そしたら何だか眠くなって草鞋を脱ぐのも土間の段差を跨ぐのも面倒くさくて…

うん、やっぱり玄関でそのまま寝てる。

ぐるりと振り返って玄関を見るとしっかり戸が閉まっていた。

夢遊病?と首を傾げると、部屋の隅に見慣れた籠が置いてあることに気付いた。

一目で捕れたての新鮮な魚だと分かる。しかもいつもより大量に。


「…舳兄?」


ぱっと起き上がって草鞋を突っかけ外に出たが、彼の姿はない。

「何だ…来たなら起こしてくれればよかったのに」

頭を掻きながら家に戻って後ろ手で戸を閉める。


いや起こしたから。


本人がいたら眉をひそめてそう言いそうだが。

取りこんだまま枕にしてしまっていた洗濯物を整理しながら、もう一度魚の入った籠を見た。



生まれてまだ二十年に満たないが、今まで食卓に魚が出てこなかった日はなかった。

ただ一日、兄が死んだ三年前の今日を除いて。




仲間が寝静まった頃、眠れなくて何となく夜の海辺を歩いていた。

夜の海はどこまでも静かで、昼間と同じ反復運動を繰り返しているはずなのに

昼間よりもずっと大きな勢いで砂浜を打ちつけているような気がする。

穏やかでありながら一瞬で全てを持っていきそうな、

近づき過ぎたら呑まれてしまいそうな、そんな気がする。

足元を引っ張るように海へ向かって引いていく砂の一粒一粒がそれを誘っているようにも感じた。


(…今日で三年)


濡れた砂浜に埋もれる足がずしんと重くなった。



『お前もあれから毎日御苦労なこったな。別に、止めはしねぇけどよ』



鉤爪を片付ける手を休める兄に言われたのは、丁度一年前だったと思う。


今も


あの時抱えた体の重さを、右腕が思い出すことがある。

陸で人を抱える時とも寝ている人を抱える時とも違う。

海で溺れた人を抱える時とも海で負傷した人を抱える時とも違う。

海で死んだ人を抱える時の重さは 独特だ。

機能を失い後は腐って行くだけの肉体に海水が沁みこんで行くのがよく分かる。

じわじわと、ずっしりと重くなっていく。

嫌な重さだ。



『確かにこの先大変だろうがな。何も大変なのはあの子に限ったことじゃない』



海から浅瀬に視線を移し、険しい表情を向けるのは砂浜で遊んでいる子供たちだ。

確か全員、船戦でふた親を亡くして町の寺に預けられているはずだ。

たまにああして海に遊びにきて、手の空いている若い連中と遊んでいるのをよく見かける。

『責任とりたきゃ嫁にでも貰うんだな。…ま、無理な話か』



『一度海で男を亡くした女は必ず言うんだ。


 もう海の男はこりごりだってな』




足を引き摺るようにして夜の砂浜を歩く。

地上は体が重い。

海中はそんなことないのに。

崖下の岩場に近づいて行くと岩場に座る人影が見えた。

またドクタケの連中が懲りずに…と目をこらしたが、すぐに警戒を解いて岩場に近づく。


「何してるんだ、こんな時間に」

「うわ!」


岩場に腰掛けていた少女は驚いて大きな声を出した。

「びっくりした…珍しいね、こんな時間に…」

「それはこっちの台詞だ。夜の海辺は冷えるぞ」

「眠れなくて。頭、冷やしたかったの」

頭を冷やしたらますます眠れなくなるんじゃ…と思ったが何も言わないことにした。

自分も似たような理由で此処に来ているのだから。

なんとなくその横に腰をかけ、二人で夜の海を眺める。

二人で眺めてもやっぱり、夜の海はどこまでも静かだ。

「不用心だぞ」

「何が?」

「戸を閉めずに、家の入り口で寝てるの」

彼との会話は、話を最後まで聞いていないと繋がらないことがある。

いつも言葉が少ない人だから、多分話している途中で本人が思い出したように付け加える所為だと思うのだけど。

は昼間のことを思い出して「ああ…」と頷く。

「起こしてくれたら夕餉ご馳走してあげたのに」

「何度も起こした」

その返答が予測できていたのではふふ、と笑う。

「…魚、ありがとうね」

「皆で食っても余るぐらい獲れるからな」

は膝を抱え直し、夜の海面に映るひしゃげた月をじっと見つめた。


「…もう、いいよ?」


隣で彼が「何が」という顔をしているのが分かる。

「魚なら、町に行って買ってこれるし…」

「知り合いに海賊がいるならわざわざ買う必要もないだろ」

溜息混じりにそう言って彼もまた海を見つめた。


あ、少し怒らせちゃったかな。


ほんの少しの沈黙。

「…私ね、夜寝る時も部屋の真ん中では寝ないようにしてるの」

「どうして?」

話が少し戻ってしまった。

だが彼はそれを不審に思うことなく聞き返してくれる。

「昔から部屋の壁に、怖い顔みたいなシミがあるの。

 子供の頃はそれが怖くて泣いたけど、兄貴が壁側に寝てシミが見えないようにしてくれた。

 今はまたちょっと、こわい」

そう言って手近な小石を掴み、夜の海に向かって放り投げる。

ぽちゃん、と軽い音がして石は濃紺の海にのまれていく。

ふいに、のまれていく石はその瞬間海に恐怖を感じるのだろうかと考えた。


「…じゃあ」


数秒して隣で彼が口を開く。

「今度、その壁塗り直しにいってやるよ」

目を丸くして、思わずその横顔を凝視してしまった。

視線に気づいてようやくこっちを向いて、首をかしげる。

「…代わりに一緒に寝てやる、とかではないんだ?」

「寝て欲しいのか?」

「ううん、舳兄っぽい。っていうか「一緒に寝てやる」とか真顔で言う舳兄は気持ち悪い」

「……………」

気持ち悪いと笑いながら言われても。


「…うんと昔、父さんが言ってた。海の男は死んだら魚になるんだよって」


そして急に突拍子のないことを言い出す。

急に妙なことを言い出すものだから思わず目を丸くしたが、は至って真顔で海を眺めていた。

「本当かなぁ」

「どうだろうな」

曖昧に首を捻る。

海はまだまだ未知の生物で溢れているというし、

人魚や妖怪がいるなら迷信とは断言できないかもしれない。


「それって、素敵」


はふふ、と笑って肩をすくめた。

「兄貴はガタイがよかったから、大きい魚かな。骨も多くて太そう。絶対食べづらいね」

「食べること前提なのか」

思わずふ、と笑いがこみあげる。

もしその話が本当なら、自分は海で死んで一体どんな魚になるんだろうと考えた。

大きな魚でなくていい。

小さくていいから誰にも捕まえられない速い魚がいい。

そんなことを考えたら案外本当の話なのかもなと思った。

「…

「ん?」



「嫁に来るか?」



ざん、と波の音が耳を劈く。

は目をまん丸に見開いてこちらを見た。

しばらく黙った後、徐に冷たい右手を額に押し当ててくる。

「…熱もないし酔ってもいない」

「ああいや、ごめん一応確認…だって今の流れからそう来るとは思わないじゃない…?」

額から離した手を左右にぶんぶん振って膝を抱え直す。

今日はやけに波の音が大きく煩い。

「…兄貴が夢に出てきてそう言えって言ったの?」

「いや。単純に、お前が心配だから」

「何で?魚は貰って食べれてるし、野菜は自分で育ててるし、

 たまに誘われて茶屋のバイト行ったりしてるから大丈夫だよ?」

「そういう問題じゃない」

家の戸を開けっ放しにして土間で寝てる奴が「大丈夫」と言っても説得力がない。

は困ったように苦笑して少し寒そうに肩をすくめた。


「…嫁には、いかないよ」


そしてきっぱりとそう答えた。

「…海の男はもうこりごりだからか?」

「ううん。海の男は好き。潮の匂いとか傷んだ髪の毛とか、

 日焼け具合とか顔の傷とか、がさがさの指とか黒っぽい爪とか、総合してかなり好き」

「じゃあ何で」

「…何でだろう?」

首を傾げてもう一度困ったように笑った。


「…舳兄は、今も昔もずっと舳兄だからかなあ」


顔を上げ、そう言う横顔は自分に言い聞かせているようにも見えた。

「…俺は、お前の兄貴にはなれない」

「だから夫になるの?極端だなぁ舳兄は」

ふふ、と笑って手元に置いてあった花を手に取る。

ここへ来る途中で摘んできたと思われる白い梔子の花だった。

三本の梔子を束にして海へ向かって放り投げる。

水音もせず水面に落ちた花は波に揉まれて上下左右に揺れながら徐々に沖へ流れていった。

岩礁にぶつかって花弁が散り散りになると、白んだ水面に同化して見えなくなる。

白い花弁だけが海の底に飲み込まれていくみたいだった。


「…やっぱり魚、届けに来て」


水面を見つめたままそう言ったに目を移して、すぐに逸らす。

「ああ」

「たまには、ご飯食べにうちに来て」

「ああ」

「魚が獲れなかった日でも、話し相手になって」

「ああ」

「はやく、家の壁塗り直しにきて」

「…ああ」

花を投げた右手で瞼を覆う横顔を見ないようにして

袖を掴む左手を払いもせず握り返しもせず、ただ相槌を打った。


花弁が消えた場所から大きな魚がぽちゃんと跳ねた気がした。



久々舳丸。去年の夏ぐらいから書いてた気がするんですがどうにもまとまらずようやく書けました。
舳丸が盛大に振られるだけのお話。