「お早うございます政宗様、小十郎でございます」


雨垂れ滴る朝

湿っぽい木造の廊下に膝を着き主の部屋の前で声をかけると返事はすぐに聞こえてきた。


「入れ」


両手で障子を開けると、政宗は床の間の手前で朝餉をとっている最中だった。

「夜のうちに相当降ったみたいだな。田畑に影響は無ェか?」

「はい。昨晩のうちに対処させましたので問題御座いません」

箸を止める政宗の問いに小十郎は障子を閉めながら答える。

政宗は「ならいい」と笑って箸を進めた。


「政宗様、今朝からの姿が見えぬのですが…」


本題を思い出した小十郎は正座した足の付け根に拳を置いて僅かに目を細めた。

昨晩遅くに主の部屋を出たところを見送ったのを最後に、小十郎はまだの姿を見ていない。

だが政宗はさして驚くことなく「あぁ」と頷く。


「西国の物見に行くっつって早くに出てった。

 クソ真面目だな。無傷じゃねぇんだから休んでりゃいいのに」


政宗はそう言って笑った。

主を怪我させてしまった負い目なのか、昨晩のことがあって士気が上がったのか。恐らくそのどちらもだろう。



「それより小十郎、お前いつからアイツを名前で呼ぶようになったんだ?」



政宗は椀を置きながらニヤリと笑って小十郎を見る。

以前は、というか昨日までは「忍」とか「おい」とか呼んでいたのに。

流石というべきか、些細な会話の変化も見逃さない主の鋭さに小十郎はどきりとした。


「…忍の過去など詮索するつもりは御座いません。政宗様も仰った通り、今現在奴は伊達の忍。

 以前どの軍で誰に服従していようと関係のないこと。

 ですがいくら忍は飛び道具と割り切っていても長年仕えた主から受けた裏切り…さぞ苦心したことと思います」


じっと畳を見つめる小十郎の表情は厳しい。

「この伊達軍で女手が通用するとは思っておりませんでしたがその働きぶりには敬意を払います。

 政宗様への深い忠義、この小十郎もしかと受け止めました」

顔を上げてはっきりとした口調で言う小十郎を見て政宗は満足そうに笑う。

「主を守るのは部下の役目だが、部下を守るのも主の役目だ。

 俺にはあいつを守る責任がある」

食事の済んだ箸を椀の上に置き、卓を少し押して煙管盆に手を伸ばした。

刻を詰めて火鉢の残り火に近づける。

湿った空気に煙が滲んで主の姿をけぶらせた。

左手で右目を覆い、ふーっと白い煙を吐きながら小十郎を見る。



「…馬鹿なことをしたと思っているか」



長年仕える従者にしか見せたことのないこの眼帯の下を、仕えて半年と経たぬ忍に曝したことを。

小十郎は静かに首を振った。

「…いいえ」

そして昨晩見た彼女の身体を思い出す。

暗がりで蝋燭にぼんやりと照らされたあの細い身体の傷を、自分は一生忘れないだろう。

「貴方様がを想う心、感服致しました。あいつもそれを真摯に受け止めたからこそ。

 私も、そして足軽たちも、これから奴を只のくノ一とは思いますまい」

「HA!伊達軍はそうじゃねぇとな!」

大きく吸い込んだ煙を吐き出し、煙管盆に柄を軽く叩きつけて刻を落とす。

「しかし西国とはどちらに…」

「小田原を制した豊臣は恐らく稲葉山に拠点を置いている。ならば次はどこだ?」

「…浅井…!」

小十郎はハッとして顔を上げた。

政宗は「Exactly!」と鎮火した煙管で小十郎を指す。

「近江の物見ついでに書状を預けた。信濃で足止め食らってなきゃ、夜にでも戻ってくるだろうよ」

そう言って立ち上がり、東側の障子を開けて城下を見下ろした。

小十郎は僅かに眉をひそめる。

「まさか真田幸村に…」

政宗は振り返り、にやりと笑う、


「止めてくれるなよ、小十郎」






神雷が猫を打つ-9-








近江・小谷城

は姉川沿いの木の上から聳え立つ城を眺めていた。

だがその城は数刻前から城の原型を崩し始めている。

水辺に近いこの場所にいても風向きで感じる熱風

それに乗って時折降ってくる灰や川の上流から流れてくる木材や武具

燃え盛る炎が城だった大きな物体を包みこみ、未だごうごうと音を立てて燃えている。


(政宗様のお考え通りだった…)


木々を飛び移って更に城へ近づきながらは一度咳をした。

蒼い襟巻の下の襟ぐりを鼻まで上げ、先ほどより高い木の上から城下の様子を見下ろす。

民家はおろか田畑も焼け、その中息のある者を探すには困難に思えた。

が辺りを見渡していると、岸辺にしがみついて懸命に陸へ上がろうとしている兵士の姿がある。

おそらく川を流れてここまで逃げてきたのだろう。

は一瞬戸惑ったが、木を降りてその兵士のもとへ駆け寄った。


「…息はありますか」


背中に矢を数本刺したままうつ伏せになっている兵士に声をかける。

兵士は僅かな力を振り絞って顔を上げ、を見た。

「…だ……誰だ…」

「奥州の使いです。浅井長政の安否が知りたい」

「……長政様は…ご、ご無事だ…姫様、も………城を、離れた…この先の、上流に…」

息絶え絶えに兵士は姉川の上流を見やる。

も続けて顔を上げ、戦の残骸が流れてくる川の流れを目で追った。

「すぐに手当てを…」

そう言って視線を下ろすと兵士は目を開けたまま事切れていた。

は首筋に指を当てて脈をとったが意味はなく、きゅっと唇を結ぶと兵士の目を閉じさせて再び木に飛び乗る。

開けた場所を探して木々を飛び移っていると川に浮かんでいる死体を何体か見つけ、

岩礁には折れた亀甲の旗が数本引っ掛かって今にも流れてしまいそうだった。

更に上流を目指していると、浅瀬に兵士とは違う色合いの影を見つけて足を止めた。

長い黒髪と桜色の裾が川に浸るのも気にせず座りこんでる女の後姿


(…魔王の妹…)


「…長政様…長政様、しっかりして……長政さま…」


その細い両腕には倒れ込む夫が抱かれている。

は木の上で息を潜め、その様子を窺っていた。


「………市…城は…小谷城は…どうなった…」

「…燃えてる……城が…燃えてるわ長政様…」


のいる場所からでも見える未だ燃え続ける城。

ここまで香ってくる焦げくさい臭いに眉をひそめて一瞬城に気を取られていると、

先ほどまで自分が見ていた女の方からじっとこちらを見つめる視線を感じた。




「………誰?」




が慌てて視線を戻すと女・市は夫である長政を抱いたままのいる木を見つめていた。

妖艶でありながら暗愁漂う顔つき

まさか気付かれると思っていなかったはびくりと体を強張らせる。

…逃げるべきか、いやもう総大将である浅井長政は戦意喪失しているのだから降りても問題ないだろうか。

市の視線は考える隙を与えてくれそうもない。

は黙って木を降りて二人に近づいた。


「…誰……?市たちを殺しに来たの…?」


市はそう言って長政を庇うようにぎゅっと抱きしめた。

は静かに首を振る。

「…奥州の使いの者です」

「……奥州…独眼竜の…?」

市が僅かに首をかしげるとその腕に抱かれていた長政の手が動く。

「…市、誰だ…」

「奥州の使いだって…くノ一が…」

掠れ声を絞り出す長政を見下ろして市が答える。

それを聞いた長政は両手を着いてゆっくりと上半身を起こした。

心配そうに「長政様、」と呟く市の肩を借りて起き上がりを見る。

「…奥州…そうか…嘗て腕の立つ傭兵であったくノ一が伊達軍に入ったという話は真であったか…」

川の水に濡れた黒髪が蒼白の頬にはりつき、乾いた長い毛先が紅白の鎧に跨って揺れた。

は市の後ろに膝をつく。

「豊臣軍は半刻ほど前稲葉山に戻った…川中島で武田・上杉両軍の動きを窺うつもりのようだ…」

はそれを聞いて眉をひそめた。

近々川中島で武田・上杉の交戦があることは政宗も予想していたが、

小田原・近江を制した豊臣がそちらに動くとは予想外だった。

「独眼竜が小田原で深手を負ったと聞いた…そなたも早急に奥州へ戻るがいい」

「……は」

は頭を下げたが、手負いの夫婦を前にすぐ立ち去る気にはなれなかった。

だがその様子に気付いた長政は静かに首を振る。

「心配には及ばない…我々は大丈夫だ……」

その言葉を聞いたは顔を上げて頷いた。

懐に手を入れて気つけ薬を取り出し、その小瓶を市に差し出す。

市は瓶を受け取りながらの指先に触れた。

血の気の無い女の青白い指は水に浸っていたせいで冷たく、少し濡れている。



「…おんなじね…」


「…貴女と同じ色の忍を見たことがあるわ…」




市は消え入りそうな声でそう言った。

は眉をひそめる。

忍装束というものは大抵黒い。そんな忍などあちこちにいるではないか。




「真っ赤なのよ…」




深紅の唇がゆっくりと紡ぎだす。

は相貌を見開いた。

ぞわり、得体の知れないものが背筋を走る。




「血に染まって…真っ赤なの」





金縛りにあったように立ちつくしていただったが、

次の瞬間市はへの興味を無くしたようにフイと顔を逸らして再び夫に声をかけた。

は僅かに鼓動が速くなった胸を押さえて下唇を噛み締め、木に飛び乗ってその場を離れる。

背中を嫌な汗が伝っているのが分かった。


「…………………」


奥歯を食いしばり、更に速度を上げる。

足が縺れても早くこの場を離れたい気持ちが前へ前へと急がせた。

蒼い襟巻を鼻まで上げ、同色の頭巾を目深に被る。

その手で懐に手を忍ばせて主から預かった書状を取り出すと、これから行かなければならない場所を思い浮かべて少し鬱になった。






To be continued