「これやるよ」







奥州に来て間もない頃、偶然城内で会った足軽が兵糧の余りだと言って握り飯を差し出してきた。

はその手元を見下ろして硬直する。

やるよと言われてそれをどうしていいのか分からなかった。

一緒にいた足軽が「奥州の米は美味いぞ!」と言っての手に無理やり握り飯を掴ませた。

当然冷めていたが顔を近づけると米のいい匂いが香ってくる。

足軽たちが去っていった後も、は右手に持った握り飯をじっと見つめたまま棒立ちしていた。


…これは自分が食べていいものなのか?


兵糧の余りを言っていたからいいのだろうが、忍が兵糧に手をつけるなんて話聞いたことがない。

それをわざわざ自分にくれたことに喜ぶべきなのか後を追って返すべきなのか、は悶々と考えていた。

すると



「飯持ってなに突っ立ってんだ?」



思いがけず主の声が近づいてきた。

は握り飯に集中していた視線を慌てて上げて主に頭を下げる。


「……あの、…これをどうしたらいいか分からなくて……」

「Ah?食えばいいじゃねーか」


主は怪訝そうに眉をひそめて首をかしげた。

「でも」とが言うと「奥州の米が食えねーってのか」と睨まれる。


「…兵糧は、忍が食すものではありません」

「誰が食おうが米は米だ。粗末にしたら承知しねぇぞ」

「でも…」

「あぁもう煩せぇな、心配しなくても毒なんか入ってねぇよ」


主はガシガシと頭を掻き舌打ちしながら近づいてくると、の手から握り飯を取り上げた。

長い指でそれを半分に割り、片方を自分の口へ運ぶ。

が目を丸くしてそれを見ているともう片方をの顔の前にずい、と突き出してきた。

この距離で突き出されては受け取るしかなくなり、は両手で握り飯の半分を持ち直す。

指についた米粒を舐めとる主を見上げながら、おずおずと握り飯を口に運んだ。



「美味いか?」



既に半分を完食した主は笑って問いかける。

薄く塩で味付けられただけの握り飯は米本来の味が口内に広がって、疲労した体に優しく浸透していくようだった。


「…はい」


が素直に頷くと主は「そうか」と言ってもう一度笑った。








…置き場所を迷うなんて、恐れ多いんですよ片倉様










神雷が猫を打つ-8-









「身体にデカい傷作って、あいつはそれまでしてきたくノ一の仕事ができなくなった。

 だから傭兵としてあちこちの軍を転々としてきたんだよ。

 豊臣に行く前は今川、北条…本願寺にも少しいたっけ」


佐助が淡々と説明を続ける中、幸村は未だ険しい表情で下唇を噛み締めている。


「…俺は、女子が己の身体を犠牲にしてまで得た隠事など要らぬ」


絞り出すように吐かれた主の言葉に今度は佐助が眉をひそめた。

「アンタねぇ、仮にも忍隊仕えてる人がそんなん言ったら元も子もないでしょう。

 世のくノ一飯食いっぱぐれちゃうよ」

佐助は心底呆れた顔で溜息をついた。

真田忍隊では佐助があちこち走り回って情報を集めてきているからいいものの、

くノ一を使って情報収集している所はそうもいかない。


「女とくノ一は別々の生き物だと思った方がいい。あいつは運が悪かっただけだ。

 くノ一にまで情けかけてたらキリねぇよ」

「情けではない」


幸村は首を振って強い目付きで佐助を見る。


「とても女子とは思えぬ腕の立つ忍であった。

 次は影武者としてでなく政宗殿に仕える忍として戦場でお相手願いたい。
 
 俺はそう思っただけだ」


そう言った幸村は血の乾いた頬の切り傷に触れた。

佐助は浅い溜め息をついて苦笑する。





「今度本人に言ってやってよ。きっと喜ぶ」






奥州総大将とその副将、そして女の忍が座る城内の部屋は静まり返っていた。

の前に立てられた蝋燭の火が時折揺らめくのは近づく嵐のせいか、

それを挟んで向こうにいる主から漏れる怒気に火が恐れているせいか。

は正座を守り、肩を強張らせてただじっと畳を見つめていた。

開けたままの前身頃から冷たい風が入ってきて上半身を冷やし、僅かに身震いする。

すると次の瞬間主がすっくと立ち上がった。

びくりと体を強張らせ、自分が受ける処罰を覚悟して下唇を噛み締めたが、上半身には軽くて柔らかい衝撃がかかっただけだった。


「……………?」


立ちあがって近づいてきた政宗が肩にかけていた羽織をに向かって放り投げたのだ。

は恐る恐る政宗を見上げる。


「…悪かったな」

「-------…え…」


主が吐いたのは全く予想していなかった言葉だ。


「古傷なんてのは誰にも見せる必要のねぇものだ。

 テメーの醜さ曝け出すだけだからな」


政宗はそう言って右手で眼帯を覆う。


「お前が曝したものは俺も曝す」

「っ政宗様!」


眼帯の紐に手をかけた政宗を見て小十郎は思わず腰を浮かせた。



政宗は右手で眼帯を押さえながら左手で紐を解き、ゆっくりと黒い眼帯を右目から外した。

暗がりの中、彼の長い前髪に隠されてその下が窺えずにいたが、

政宗は顔を上げてを見ると右目に被さっていた前髪をかき上げてその両眼を確かにへと見せた。




は相貌を見開き、全身を強張らせる。




数秒と経たず喉の奥が熱くなって顎が震え、

瞬きを忘れた瞳が乾いてようやく一度瞬きをするとその表面に水の膜が張った。






-------------どうして








どうしてこのお方は








「………っ政宗様…」


張った膜が粒となって零れる前に、歯を食いしばって主の名前を呼ぶ。



「例えあの一件に関わっておらずとも…亡き主の犯した悪行…っ生き残る部下が償わねばなりませぬ…!

 どうか…どうか私を……!」



再び眼帯を目に当てる政宗は座ったまま頭を下げるを見下ろし、項で紐を結びながら浅いため息をついた。


「…俺の周りは頭の固ぇ奴ばっかりか」


なぁ小十郎、との横に座る副将を見やると、小十郎はゴホンと咳払いして首を振る。

副将はもちろん、自分が最も敵視するあの紅い若武者のことも含まれているのかもしれない。

そんな小十郎の姿を見て笑いながらも政宗は再び鋭い眼差しをに向けた。




「俺は忍っつー生き物が嫌いだ」

 


そして唐突に言い放つ。


「隠密だの暗殺だの、コソコソした真似は伊達の流儀に反する。

 俺が言ってることはお前ら忍の存在を全否定するものだと思っていい」


だからは奥州に来て物見以外の仕事をさせて貰っていない。

主の考えは分かっていた。


「だが武田、上杉、北条…どの忍も腕は認めている。

 性別、忠義、心酔…全部とっぱらってもお前と同等の腕があると思っている」


はぱっと顔を上げる。

主の口から他軍の忍の話を聞くのは初めてだ。


「俺の中の忠義とお前の中の忠義が噛み合ってねぇようだから言っておく。

 忠義っつーのは主の盾になることでも、主の代わりに汚れ役買って出ることでもねぇ。

 主と同じ戦場で死ぬことだ」


政宗がそう言って両手で障子を開けると冷たい風が吹き抜けてきて蝋燭の火を揺らす。

だがあれ程近づく雨脚に疼いていた胸の傷は自然と痛くなくなっていた。


「此処は俺の国だ。民草も百姓も、足軽も武将も忍も、誰一人無駄死にさせるわけにはいかねぇ」


政宗は振り返り、黒髪と着流しの裾を夜風に靡かせてを見下ろす。



「俺に命を預けろ



ざわり、湿った風がいっきに部屋へ吹きこんできた。

突然の向かい風に瞬きをすることなく、はただ主を見つめている。





「俺が聞きたいのはその覚悟の有無だ」





…ああそうか





戸惑ってしまうのは、このお方は私の限界を「死」と思っていないからだ。





"……卿が、そうか。若いな…若さは自尊心を生み、それ故に意図も簡単に己の箍を外してしまうものだ"


"だがそれもまた雑観の価値があるというもの。私に卿の限界を見せてくれ"




あの時私はあの人の限界に達してしまったから




でもこのお方は、まだ






…………まだ。







「………………っ」


は胸の前に被せられた羽織をぎゅっと握りしめて歯を食いしばる。



「私は……っこの命、政宗様と共に在りとうございます……!」



右手を畳に着き頭を下げると、寸前のところで眼球に留まっていた水の膜が粒になって羽織の上に落ちた。

人前はおろか自分一人の時でさえ、最後に泣いたのは何年前のことだったか思い出せない。

郷にいた頃だったかもしれないし、もっと前だったかもしれない。

乾いた白い頬が酷く久しぶりに塩辛い水分で湿って、は慌てて頬を拭おうとする。

だが顔を上げる前に、目の前に立っていた主の右手が下りてきての頭の上に乗った。

ゆっくりと顔を上げると、長い指から伸びた逞しい腕の向こうに主の穏やかな顔が窺える。





い い 子 だ
「Good girl、





"今でも欲しいか"





"俺の、命が"






……最初から、このお方の手はあたたかかった。






下唇が震え、歯を立てて強く噛み締めたが一度緩んだ涙腺は繋がってくれない。

何重にも巻かれた包帯を越えて手の熱が伝わってくると歯ががちがちと震えて喉の奥が熱くなった。

嗚咽が止められず、髪に乗せられたままの大きな手はその続きを促してくれているような気さえした。

ついに声が漏れて小さな泣き声が部屋に響いたが、主はただ黙って長い指を黒髪に滑らせるだけだった。





To be continued