神雷が猫を打つ-7-








「…どういうことだ」


政宗の低い声が静かにに問いかける。

は僅かに目を泳がせたが、再び静かに深呼吸して四隅の蝋燭に目をやった。


「…灯りを、消して頂けますか」

「…?ああ」


政宗は眉をひそめたが手近な蝋燭の火を吹き消した。

後ろにいた小十郎も立ち上がって部屋の手前にある二つの蝋燭を消し、

は残った一つを台ごと持ってきて自分と政宗の間に立てる。

いっきに部屋が暗くなったが、一つだけ灯された蝋燭はと政宗の顔をしっかりと照らしていた。




「お目汚しのご無礼をお許し下さい」




は予め主に詫びると両手を黒装束の襟にかけて金具を外し、いっきに腰まで下ろした。

上下が繋がった黒装束の下に纏っているのは細い体の輪郭を首まで隠した黒い長袖の下着。

手を止めることなく左右の脇を留めている紐を解き、ゆっくりと黒い下着を全開にした。

政宗と小十郎は彼女がしようとしていることが全く予測できずただそれを見守っていたのだが、

黒装束が暴かれてようやく白い裸体が露わになると思わず息を飲んだ。




蝋燭の火に灯された女の上半身を見て、政宗は左目を見開く。





控えめな2つの膨らみの谷間、

その白い肌を斜めに横断している大きな切り傷。




明らかに刀傷と見えるその傷は他の部分と違い土色に変色していて、

左胸の上から谷間を通って臍のあたりまで伸びている。

細い上半身のほとんどがこの傷によって制圧されているようだった。

そして左の脇腹にもう一つ同じ色の傷が見える。

華奢な体に切り傷がある、というよりは大きな切り傷をようやく華奢な体に納めたという具合だった。




「………何だ…それは」




政宗はようやく口を開く。

額にじわりと汗が滲んだ。

戦場で幾度となく人身の惨たらしい姿を見てきたが、これが女のものであるせいか酷く嫌な感じがする。


「…三年前の、織田による松永攻めを覚えておいでですか」

「…あぁ。魔王は松永を討たなかった。てっきりそのまま支配下に置くのかとばかり思っていたが…

 魔王は松永久秀を生かした」

「はい。私もその場に居りました」


魔王・織田信長がなぜあの時松永久秀を生かしたのか、政宗は勿論も未だ分からないままだ。

戦国の梟雄と呼ばれながら天下に全く興味を示さない男であったことは側近を務めていたもよく知っている。





「松永軍三百に対し、織田軍およそ五千。力の差は明らかでした」






三年前 京・東大寺

は戦場にいた。

襟巻と頭巾は鈍い金色に靡き、燃え盛る炎に燻ってところどころが焦げ付いている。

熱風に肉の焼ける悪臭が乗って香ってきたが、は襟巻を鼻まで上げて門前に着地した。


「久秀様!どこですか!久秀様!!」


既に自軍は虫の息で、折り重なるように倒れて燃えている死体はどれも鈍い金色の軍旗と一緒だった。

は辺りを見渡し必死に主を探していたが炎の中ではなかなか見つけられない。

大声を出すために息を吸い込むと煙が入ってきて喉が熱くなった。

「、久秀様!!」

立ち込める黒煙の中、業火に包まれた大仏の前に主の後姿を確認する。

「久秀様!織田の本陣が迫ってきております!支度を…」

「…仏も、劫火の中では無力な鉄塊に過ぎんな」

慌てて駆け寄るをよそに久秀は轟々と燃える大仏を見つめて悠長に言葉を吐いた。

大きな大仏は顔の上半分が炎に包まれ、こちらに向かって広げられた手も黒ずんで今にも倒れてきそうだ。


「いや、元より仏など無力なものだ」


久秀は静かに首を振りながら「そう思うだろう?」とを振り返る。

同時にの少し後ろで倒れていた織田軍の武将がゆっくりと起き上がり、よろめきながらの背後に迫った。

気配に気づいたは振り返って腰の多節棍を抜く。

刀を構え、覚束ない足取りで詰め寄ってくる武将を前にも戦闘体勢をとると、

後ろから伸びてきた長い腕が金色の頭巾の根元を掴んだ。












を制止させたのは強く掴まれた首元か、柔らかい声か

意識が一瞬背後の主へ逸れた直後、眼前に迫ってきた武将の刃がの身体を斜めに斬りつけた。

左肩から胸元を横断し臍を通って、黒装束の上に赤い液体がバッと吹き上がる。

自分の体に何が起こったのか理解するのに数秒かかったが、

次の瞬間追いうちをかけるように新たな刃がの体を貫いた。


腰から鋭い異物が侵入してきて脇腹を貫き、

長い十束剣の刃は目の前に迫った織田軍の心臓へ容易に届いた。

背中の主の手に握られた刀は目の前の敵を的確に捕らえていたが、はその中間で串刺しになっている。

の視界に胸から血を吹きだして倒れる武将が映ると主は刀を引き抜き、

脇腹から異物が取り除かれると途端に大量の血が吹き出してきた。



「………っ、」



振り返る力もなくは膝を着き、武将と同じように倒れた。

うつ伏せの状態、腹の下で大量に溜まっていく血が服に浸透してきて生温い。

手足が痺れ、指先がビクンと痙攣してきた。


「……で、……さま」


呼吸が乱れ喉の奥が鳴る。

目の前に主の草鞋が映ると、久秀はその場でしゃがんでの髪に右手を乗せた。


「…言っただろう?私は卿を誰よりも信頼していると」







「いい子だ。









灰のかかった黒髪を長い指が撫でる。


「今ならば仏も卿に深い慈愛の念を手向けてくれるだろう」


手が離れると同時に視界から足が消えて足音が遠ざかって行く。


「……久秀さま…」


地面に叩きつけられた指先を動かすが主を追うことは敵わない。

煙を吸って掠れた声は自分にさえ聞こえるか危うかった。





「…ひさひでさま……」






熱風が容赦なく体に吹き付けると意識が遠のいていく。

焼けるように熱いのに、体内から必要以上の血液が流れ出て行くと四肢の末端はどんどん冷たくなっていった。



…どちらの傷の方が致命傷なんだろうか



はこんな時でも自分は冷静だと思った。

敵から胸に受けた傷

主から腹に受けた傷

胸の傷は広範囲だが浅いと思う。

腹の傷はもしかしたら大事な臓器を傷つけているかもしれない。

きっとそうだこちらの方が致命傷だ。

そう思うと痛みの中で僅かな喜びを見出す。

そんなことを思う時点で冷静ではないというのに。




 

「…部下を…っ盾にしたというのか…!」


佐助の説明を聞いた幸村は血相を変えて震えた声を出す。

佐助はそんな主を横目で見ながら腕を組み直して浅く息を吐いた。

「…珍しいことじゃないよ。部下っつったって忍なんだし、そういう使い方もあるって話さ」

「俺はお前を盾にしようと思ったことなどない!!」

頭に血が上ったのか幸村は大声で怒鳴る。

佐助はそんな主の勢いを受け流すように苦笑した。

「皆が皆、旦那みたいな考えをしてるわけじゃないってことだよ。

 あいつもそれは覚悟してただろうし、松永も最初からそのつもりだったのかもしれない」

「…っ何と酷薄な…誰より信頼し忠義を寄せる主から受けた惨苦は計り知れぬ…!」

歯を食いしばり、まるで自分が受けた仕打ちのように怒りを露わにする幸村。

「…俺はその時丁度大将からその戦の物見を命じられててね。

 頃合い見計らって京まで見に行ったんだよ」




佐助が京に出向いた時既に東大寺を燃え尽くした炎は鎮火しており、

焦げて無惨に顔の半分がなくなった大仏と原型のない柱が剥き出しになっていた。

瓦礫の下敷きになった焼死体が放つ異臭に顔をしかめ、襟を鼻まで上げて辺りを見渡す。

生存者は保護せよと主から命を受けていたがこれでは難しいかもしれない。


(…あいつは…松永と一緒に逃げたか…?)


の姿を探しながら瓦礫の中を歩いていると、大仏の前に倒れている人影を見つけた。

「、おい!」

見覚えのある黒装束と金色の頭巾

佐助は慌てて駆け寄りうつ伏せに倒れている人物を起こす。

!」

案の定、倒れているのは昔馴染みの忍。

迷彩の装束に血が纏わりつき、起こすとその細い体が占める傷の大きさに驚愕した。

首筋に指を当てるとまだ幽かに脈がある。

だがほとんど虫の息だ。


!おい!!しっかりしろ!!」


抱えた体はぐったりと重力に従い、血に汚れた薄い唇からは微かな咳が聞こえる。

「…ちっ…勘弁してくれよ…!」

佐助はが首に巻いていた布を解いて裂き、腹をきつく縛って応急処置の止血を施した。

だがそれはもうほとんど意味がないように見える。

どんどん冷たくなっていく体を抱え上げ、周囲に目もくれず荒んだ寺を後にした。




『お前は優秀だよ。それは俺も認めてる』




『けど、今のお前を羨ましいとは思えねぇな』






……ばかじゃないの







あんたが言ったんじゃないか。








「--------------……」

目を覚ますと共に全身の痛みがはっきりとしてきた。

痛みで目が覚めたのかもしれない。

数回瞬きをすると此処が室内であることに気付き、見慣れない綺麗な天井の木目が頭上に広がっている。

僅かに頭を傾けると右側にこの空間では酷く目立つ迷彩柄の装束が目に入った。



「……佐助…?」



掠れた声を出すと、何か作業をしていた佐助は顔を上げて身を乗り出す。

「気がついたか」

「………此処は…?」

「甲斐の隠れ里。覚えてるか?大仏殿の南大門前でぶっ倒れてた。

 それ以上動くなよ、一回死んだも同然なんだから。運いいよお前」

佐助はそう言って締め切った障子を僅かに開け、外の様子を見る。

陽が沈んでどれほど経ったのか、辺りは静まり返り秋虫の鳴き声も聞こえなかった。

は再び天井を見上げて自分の置かれている状況を整理し始める。

激しく痛む胸の傷と静かに疼く腹の傷

布団の中で腕を動かし、傷に障らない程度に指で腹をなぞった。


「…どうして助けたの」

「大将から物見の命令でね。息がある奴は保護しろって。

 ま、ぶっ倒れてたのが里の後輩じゃなきゃ見捨ててたかもしれないけどさ」


佐助はそう言って笑い、短くなった蝋燭から新しい蝋燭に火を移した。

短い蝋燭の火を消して煙を手で扇ぎ、新しい蝋燭を台に刺す。



「…あのまま死んでた方がよかったとか言うなよ。忍のくせに」



笑みが消え、冷たい視線が布団のに投げつけられる。

彼を下から照らす火が顎の輪郭をくっきりと映し出して、鉢金の合間から覗く赤毛を更に紅く照らした。

その言葉に微動だにしないを見て浅く溜息をつき、その赤毛をがしがしと掻く。


「…何があった?お前がそんな深手負うなんざ…やっぱり織田の本陣が動いたのか?」


途中にしていた薬の調合を再開し、佐助はに問いかける。

はしばらくぼんやりと天井を見上げていたがゆっくりと首を振った。






「…久秀様は私を盾になさった」






無表情に言い放ったを見て佐助は目を見開く。

その事実にではない。

彼女があまりに淡々とその事実を口にしたからだ。


「………私は、見限られたんだな」


少し顎を上げ、ぼんやりと宙を仰いでつぶやく。

「…お前……」

佐助が口を開きかけるとは胸を押さえてゆっくりと起き上がった。

素肌に大量の包帯が巻かれ、上半身は腕以外ほとんど白い布に覆われている状態だ。


「っおいどこ行く気だよ」

「…甲斐にはいられない」


枕元にまとめられていた自分の服に袖を通し、痛みを堪えて立ち上がる。

「行く充てなんかあるのか!?」

佐助も慌てて立ち上がり、部屋を出ていこうとするを追った。



「忍は飛び道具」

「…私にそう教えたのはあんただ」



振り返ったはまだ血色が悪く、声もしゃがれている。


「私は投げてそれっきりだった。ただそれだけ」


「忍は死に方を選んではいけない。武士とは違う、腹を切って死のうなんて考えてはいけない。

 例えそれがどんな最期であろうと、受け入れなければいけない。

 忍が主を選ぶなんてことはあり得ない。主の成すことは忍の成すことなのだから。

 全部あんたに教わったことだ」


任務に失敗し、男に弄られ無惨に身体を斬り刻まれたくノ一を知っている。

敵の手に落ち、五感を一つ一つ潰されながら拷問に耐えて死んでいった忍を知っている。

…自分のように、主の盾となって死んだ忍も、何人も見てきた。


「…私は死に損ねた。ただそれだけ」


ただ一つ、焦げ付いた金色の襟巻だけは身に着けなかった。



「助けてくれたこと、礼を言う。

 生きていたらどこかで必ず借りを返す」



腰に多節棍を挿し、佐助に向かって僅かに頭を下げる。

次の瞬間には廊下を蹴って中庭の木々に飛び移り、その気配を甲斐の夜風に乗せて消えた。

廊下に残された佐助はざわめく木を見つめ、はーっと長い溜息をついて頭を掻く。




「…何でこういう時ばっか素直に言ってくれちゃうかね」







To be continued