「…っゲホッ…ゴホッ」

既に相模へ引き返してきたは木々を飛び移りながら胸を押さえて咳き込んだ。

息を吸い込むとまだ肋骨が軋んで鈍い痛みが走る。


(…突かれたのが柄でなければ殺られていた)


あの時幸村が槍を逆さにして突いたからこの程度で済んだのだ。

主とも決着がつかない男に一矢報いることが出来るとは初めから思っていなかったが、

「女は斬らない」という言葉通り殺す気のない攻撃を受けたことは屈辱だった。



……あの人は苦手だ。



ちっ、と舌打ちをして黒い襟を鼻まで上げ、森を抜けて見えてきた小田原城の屋根に着地する。


「……静かすぎる…」


周囲に人の気配がない。


(北条が落ちた…?いや、早すぎる)


嫌な予感がしては即座に屋根を蹴った。








神雷が猫を打つ-4-









「残念だったね独眼竜。北条は既に落ちたよ。小田原城は我ら豊臣軍が占拠した」


紫色の外套を翻し、男はそう言って笑いながら政宗に近づいた。

豊臣軍・軍師、竹中半兵衛。

策士として名高いこの男は伊達軍にとって最も憎むべき男の一人だった。


「…どうしてテメェがここにいる」


政宗はすぐにでも斬りかかりたいのを抑えて低い声を絞り出す。


「こんな小城は秀吉の手を煩わせるまでもないからね。

 僕が出向いて潰したまでだよ」


半兵衛はそう言って政宗の前に一本の鹿刀槍を投げ捨てた。

政宗も小十郎もその武器には見覚えがある。

二人は綻びた武器を一瞥して再び半兵衛を睨みつけた。

同じように、巨大門の上に降り立ったも門前を見下ろして目を見開いている。


(…竹中……っ)


蒼い騎馬隊と対峙している銀髪の男。

冷たい風に翻る白と紫の衣は半年前まで毎日目にしていた雇い主の背中だ。

は奥歯を食いしばり、気配と呼吸を殺して懐から毒針を抜く。


(この距離なら…殺れる…!)


額に滲んだ汗が頬を伝って流れる。

毒針の切っ先が紫の背中に向けられた瞬間




   やめろ
「Know it off、





「ッ」


に気付いていた政宗は門に向かって半兵衛にも聞こえるように声をかけた。

それを聞いたが動きをビタリと止めると半兵衛も振り返って門を見上げる。

仮面から覗く相貌と目が合うと再び体が強張って動かなくなった。

半兵衛は門の上に忍の姿を確認すると不敵な笑みを浮かべる。



「--------久しぶりだね」



かつての部下に向かって落ち着いた様子で声をかける。


「伊達軍にくノ一がついたというのは聞いていたけど噂は本当だったわけか。

 戻りが遅いから返り討ちにあったものだと思っていたけれど…まさか竜に首輪を外されていたとはね」


は門から飛び降り、政宗の後ろに着地した。

目の前の男に向かって投げるつもりでいた毒針を篭手の中に仕舞い、腰の多節棍に手を添えていつでも抜けるように身構える。


「今更君を咎めるつもりはない。秀吉に忠義のない者は豊臣軍には必要ないからね。

 金で繋がっていただけの傭兵の裏切りなど予想の範疇だよ。君は上杉のくノ一とは違うようだし」

「……………………」


は額に冷や汗を滲ませて奥歯を食いしばる。

事実、自分は金で雇われた身でありながら豊臣軍を裏切り伊達軍についた。

だがそれはあのまま独眼竜に殺されることを恐れたからではない。

は一瞬自分の前に立つ主の横顔を見たが、すぐに逸らして顔を伏せた。


「でもあまりいい拾い物だとは思わないな政宗君。

 見たところ忍としての仕事をさせているわけではないようだし…

 くノ一としての本質をとうに失った彼女をどう扱っているのか知らないけど、

 久秀公の二の舞にはさせないことだね」

「…何……?」


聞き覚えのある名前に政宗は左目を細めた。

横目でを振り返ると額に冷や汗を滲ませて唇を堅く噤んでいる。

その様子を見た半兵衛は軽く首をかしげてを見た。


「何も告げていないのかい?まぁ、当然といえば当然か…」


くすりと笑う半兵衛の言葉にの肩がびくっと跳ねる。

これまで彼女がこんなに動揺している姿を見たことがない政宗と小十郎は険しい顔を見合わせた。







同時刻・上田

が上田を離れてからわずか四半刻後、佐助は入れ替わりに上田へ戻ってきた。


「旦那!」


城門前に赤い鎧を見つけ、屋根から飛び降りて主の前に着地する。

「戻ったか。ご苦労であった」

「旦那、その顔…」

何食わぬ顔で部下の帰りを迎えた幸村だったが、佐助はその右頬にまだ新しい切り傷を見つけて目を細めた。

幸村は指でその傷を擦りながら城下を振り返る。



「奥州の忍が来た」



やっぱり、と佐助は頭を掻いた。

「政宗殿の影武者として俺を上田に留めておくのが任務だったらしい」

「影武者!?あいつが!?」

そこは予想外だった。

「うむ、背丈以外は一見見分けがつかなかった。

 以前俺に化けた忍と同等の腕を持っている…」

見事なものだな、と真剣な顔で敵を称賛する幸村だが、佐助は遠い目をして乾き笑いを浮かべる。

「まぁ、目鼻立ちは似てなくもないからあいつなら上手く化けるだろうけど…うわ、見たかったなー」

主従は並んで城門をくぐったが、幸村の速度が若干遅い。

数歩歩いたところで主より先に出てしまった佐助は頭の後ろで手を組みながら幸村を振り返った。



「……佐助」

「ん?」




「あのくノ一は…本当に傭兵だったのか?」




顔を上げて真っすぐ佐助を見る幸村の目は真剣だ。

佐助は一瞬身構えたがすぐに苦笑して首をかしげる。


「どういう意味?」


「…金で雇われた傭兵とは明らかに動きが違う…

 あれは主の背中を守りながら戦ってきた者の動きだ。

 政宗殿に仕えたからではない。もっと昔…体に擦り込まれた戦術に見えた」


これまでにさまざまな人間と戦ってきた。


主に堅い忠誠心を持って戦う武将

心酔にも似た想いで主の為に死力を尽くす忍

金と己の力量を引き換えに無心で戦う傭兵


幸村はと戦い、そのどれにも属さない妙な違和感を覚えていた。

逆にいえばそのどれにも属しているような、恐ろしく強くも不安定な戦い方。


「…別にいいじゃない。忍の経歴なんざアンタが知ってどうにかなるもんじゃないよ」


佐助はそれで幸村に諦めてもらうつもりで言った。

だが


「あのくノ一は伊達軍に仕える忍、俺には知る権利がある」


幸村は強い眼差しを佐助に向けて言い放つ。

…こればっかりは彼が正論だ。

敵方の情報は全て耳に入れておかなければならない。

極力同職の知人の話は避けたかったが、今回ばかりは幸村も退きそうになかった。

佐助は浅く溜息をつき諦めたように頭を掻く。


「…確かに傭兵だったよ。豊臣軍ではね」

「…どういう意味だ?」


佐助の言葉を聞いた幸村の表情が曇る。






「元松永軍忍隊長、松永久秀が側近」







半兵衛は涼しい笑みを貼りつかせたままを見た。


「それが彼女元来の姿だよ」


政宗と小十郎は目を見開き、振り返ってを見る。

は顔を伏せたまま主を見ようとしなかった。


「松永…」

「松永だって…!?」


後ろで待機していた足軽たちもざわめき出す。


松永久秀


その名を聞いただけでも腸が煮えくり返る者は少なくない。

政宗の持つ六爪を狙って伊達軍の足軽を捕虜に捕った男の顔は記憶に新しい。

それにより政宗は重傷を負い、軍も随分兵力を削がれることになった。



「まぁあの時既に彼女は豊臣軍にいたから、久秀公が君の愛刀を狙った一件と彼女は無関係だけれどね」



半兵衛はそう言って補足を入れた。

政宗はすぐに前を向いて再び半兵衛を睨みつけるが、小十郎はを見て眉に濃い皺を刻む。


「…本当なのか」


絞り出すような声で問いかけるとは無言で頷いた。

そんな様子を見ると足軽たちは顔を見合わせて再びざわめき出す。


「とても優秀な忍だった。それは僕も認めているよ。…でも」


半兵衛はそう言って鞘から関節剣を抜く。



「君は豊臣の機密を知り過ぎた。裏切りを咎めるつもりはない。

 …だからここで死んでくれ」


接合部がジャラリと音を立てて弛んだ瞬間、鋭利なその切っ先が勢いよくに向かって飛んできた。

政宗の横を通り過ぎ、身構えたの急所を的確に狙ったかに見えたが、

剣はの体に到達する前に途中でビン、と突っ張って動かなくなった。


「………っ」


自分の横を通り過ぎた刃を、政宗が素手でがっしりと掴んでいる。

方向が狂って跳ね上がった切っ先が蒼い肩を掠り、刃を掴んだ指からも血が滲み出ていた。


「…ッ政宗様…!」

「…こっち無視して話進めてんじゃねーよ。さっきから黙って聞いてりゃベラベラと…

 こいつが前にどこで誰に仕えてようが興味はねぇ。

 テメーもそのつもりでこいつを雇ったんじゃねぇのかよ?」


掴んでいた刃を乱暴に振り切り、政宗はそう言って更に険しい表情で半兵衛を睨みつける。


「…驚いたね…たかが飼い猫の盾になろうとは…

 奥州国主の品格もいよいよ危ぶまれるところだ」

「相変わらずいちいち癪に障る野郎だ…部下を何だと思っていやがる」


何とか冷静を保っていた表情にそこで初めて怒りが露わになった。

半兵衛は鼻で笑いながら刀を鞘に戻し、後ろに停めていた馬の手綱を引っ張る。




「まぁいい。猫の首が獲れずとも…竜の首が獲れるなんて願ってもないからね」




ひらりと馬に跨る半兵衛の言葉に政宗は目を細めた。

次の瞬間、細めた左目の視界がぐにゃりと歪んで脳が揺さぶられたような感覚が体に走った。


「………っ!?」


膝の力が抜け、政宗は思わずその場に崩れ込む。


「「政宗様!!」」


小十郎とが同時に駆け寄り、は崩れた込んだ政宗の体を支えて小十郎が抜刀しながらその前に出た。

「テメェ何をした…!」

「対忍用の空木毒さ。猫一匹始末できればそれで十分だったのだけど…秀吉にいい報告が出来そうだよ」

そう言った半兵衛は軽く手綱を下ろして馬を反転させ、城の方から戻ってきた兵士たちと騎馬隊を組む。



「天下を獲るのは秀吉だ。牙の折れた竜は巣に帰るがいい」



紫の外套が翻り、は咄嗟にそれを追おうと構えたが小十郎が既に刀を納めていたので思い留まった。

本当はすぐにでも追いかけたいのだろうが、今は主の身を案じることが先決だと判断したのだろう。

は奥歯を食いしばり、右手で支えた広い肩ごしを強く掴む。



「政宗様…!」







To be continued