国境を越えた途端に空気が変わる。




その変化に気付いたのは長月に入ったあたりからだ。

風の流れが、空気の圧力が、まるで国境の線引きをしているかのように帰来を身体へ報せる。

いつもより城へ戻るのが足早になるのもそのせいだ。

駆け出すと首の後ろではためく蒼い布が頬に触れることさえ敏感になる。

鼻まで布に埋めても耳をひりひりと冷やす外気は変わらず、櫓の屋根の上で立ち止まると今度は僅かに出た太腿がじんじんしてきた。

思わず布の中で鼻をすすって身震いをする。


(……冬が近い)


ようやく見えてきた城の屋根を遠くに見つめながら吐いた息は、奥州の晩秋の風に靡いて溶けた。










神雷が猫を打つ











音もなく城の屋根に着地した忍は一番奥にある主の部屋へ目を向ける。

丑の刻を過ぎた今は当然灯りは消えており、恐らく今この領地で動いているのは自分と厩舎の馬ぐらいなものだろう。

部屋の前に立ったが報告は夜が開けてからにしようと再び屋根に足をかけたのだが



「起きてんぞ」

「っ」


寝ていたと思っていた主の部屋から政宗の声。

「ご苦労だったな。入れ」

「は、はい」

は廊下に片膝を着き、一礼して静かに障子を開ける。

部屋は暗く蝋燭は燃え尽きていたが、政宗は敷いた布団の横に胡坐を掻いて勢力図と睨みあっているところだった。

西側の格子から差し込む月明かりが僅かにその姿を照らしている。


「…まだお休みになっておられなかったのですか」

「ああ。次の戦でちと考えがあってな」


冷たい外気が中に入ってはと思い部屋に入って障子を閉める。

主は紙の上で碁石を転がしていたが、の姿を確認すると顔を上げた。


「…?顔色悪ィな、一服盛られたか?」

「い、いえ……外が冷えてきたので…」


冗談交じりの言葉には慌てて首を振る。

それを聞いた政宗は右手ですぐ傍の格子戸を僅かに開けた。


「確かに冷えるな。今夜は霜が降りそうだ」


そう言って笑うと暗い部屋に白い息が舞う。


「それで西国の様子はどうだった?」

「は。武田・上杉に動きはありません。前田は変わらず、徳川は先日の長曾我部との戦で

 本多忠勝の疲弊が大きいらしく当面出陣はないと思われます」

「…やはりな。動くなら今だ」


立てた膝の上で頬杖をつき、横目で畳に広げた勢力図を見下ろす。

主が動かした碁石がどの位置にあるのかからは見えなかったが、

暗闇に見える政宗の横顔は楽しそうにも見えた。


「昼の軍議でだいたいのことは決まった。予定通り、三日後小田原へ向かう」

「…三日後…でございますか?」


は僅かに目を細めた。

今の言いぶりからして明日にでも出陣だと言いそうだったのに。


「お前に別の仕事を任せる。あと三日はその準備に回れ」

「私に…?」


が更に首をかしげると政宗は身を乗り出し、辺りをきょろきょろと見渡した。


「…小十郎の部屋はどうなってた?」

「灯りは消えておりましたので…恐らくお休みになられているかと…」


が答えると政宗は「そうか」と言って再び腰を下ろし、

に向かってちょいちょいと手招きをする。

主がこうして人目を忍んで自分に話をする時は大抵、右目である従者に聞かれると不都合なことがある時だ。

だがそれが何なのかさっぱり予想ができないは、立ちあがって政宗に近づき再び正座する。

政宗は広げていた勢力図を退かして代わりに別のものを畳に置き、再び身を乗り出して口を開いた。





「       」





主の口からそれを聞いたは目を見開く。

「っま、政宗様それは…!」

「自信がねぇか?」

の反応に気を良くしたのか政宗はにやりと笑った。

「し、しかし私ではあまりに…」

「小十郎には俺と一緒に本陣に居て貰わなきゃならねぇ。

 ここをスムーズに突破するにはそれが一番てっとり早い」

長い指が黒い碁石をとって置いた先は「甲斐」。

はまだ動揺した様子でその文字と主を交互に見つめる。


「三日やる。それまでに形にして見せろ」


傍らに置いていた扇子を右手に持って先端でを差した。

は全身を強張らせて口を噤んでいたが、主の強い視線を目を合わせると堅く頷く。


「…分かりました」

「YEAH、いい返事だ」


を差した扇子を片手で開いて自分を仰ぎながら上機嫌に笑った。

「もう休んでいいぞ。戦の手筈は追って教える」

「はい。お休みなさいませ」

正座したまま頭を下げて部屋を出ようとすると

 


「…お前、奥州での越冬は初めてだったな」




障子を開けたところでは振り返った。

政宗は少し開けた格子戸から外の景色を眺めている。

「はい」

は今年初めて、雪国・奥州で冬を越える。

ここへ来る前にも任務で何度か冬の奥州へ足を運んだことがあるが、

寒さと雪の多さにはさすがに参って早く帰りたいといつも感じていたような覚えがあった。


「積雪しちまえば武将も百姓も雪かきで大忙しだからな。

 お前も瓦に積もった雪ですっ転ぶなよ」

「こ、転びません…!」


からかうように笑う主の言葉には慌てて首を振った。

そんな忍、間抜け以外のなにものでもない。

政宗はそんなを見てクツクツと笑い扇子を閉じる。


「三日後、楽しみにしてるぜ」

「------------は」


は廊下に再び膝をついて頭を下げ、静かに障子を閉めた。

立ち上がって屋根に飛び乗ると、吐いた白い息だけがその場に名残を残してすぐに消える。




が伊達軍に仕える忍になって半年が経つ。




半年前まで豊臣軍の傭兵だったは、竹中半兵衛に伊達政宗の暗殺を命じられた。

だが奥州筆頭・独眼竜政宗の名は甘くなく寝込みを襲うつもりが逆に捕まってしまい、

政宗はに自害ではなく一つの大きな命令を下した。



「俺の忍になれ」



自分の寝首を掻きにきた忍に向かって、自分に仕えろと言ったのだ。

もとより豊臣軍には金で雇われていた身。

忠義など毛頭なく失敗したらそのまま身を眩ますつもりでいたし、捕まったその時は潔く舌を切って死のうと思っていた。

だが政宗はそれを許さない。

右目である小十郎や伊達軍の猛反対を受けながらも自分を迎え入れた理由は何だったのか、

は一度主に問いかけてみたことがあったが「お前の目が気に入ったからだ」と笑って言うばかりだった。


伊達軍に仕えてから、はこれまで他軍でしてきた忍の仕事をほとんどこなしていない。


「暗殺はするな」

「密偵もするな」


政宗はことごとく忍の任務をに与えない。

「殺す必要がある奴は俺が殺すし、密偵なんざコソコソした真似してまで得た情報なんかいらねぇ」

まるで忍の存在そのものを全否定するようだった。

…実際、これまで忍を仕えさせたことのない軍だからそれも当然なのだろうが。


(……準備をしなければ)


寒さに肩をすくめたはそのまま屋根裏へと潜り込んだ。








信濃・上田


「…………寒っ」


と同じような動作で音もなく城の屋根に降り立った迷彩柄の装束を来た忍。

鼻まで上げた黒い襟を下げると漏れた吐息さえ凍りそうな寒さに思わず身震いした。

早いところ中に入ろうと最上階の廊下に着地すると、突き当たりにある城主の部屋の前に人影を確認する。

こんな時間に、と訝しげに目を細めたがその人影が細い後ろ髪を靡かせていたので

「なんだ」と思い直して足早に影へ近づいた。


「まだ起きてたのか、旦那」


城主は忍の姿を見ると白い息を吐きながら「ああ」と頷く。

「今宵は冷えるな…」

そうは言っているが着流し一枚で寒さに肩をすくめる仕草もしない。

眠れないのかどこかぼんやりと遠くを見つめるように城下を見下ろす。

「霜でも降りそうだよね。やだなー寒いの」

「…北国ではもう初雪が降っただろうか」

そう言って北の方角を見つめる横顔はどこか嬉しそうにも見えた。

忍は「さてね」と笑って同じように北の夜空を見上げる。


(…奥州か…そういやアイツ寒いの苦手だったけど奥州でちゃんと越冬できんのか…?)


主が奥州筆頭のことを考えるように、忍はその従者の忍のことを考えていた。







二日後


城下の田畑には霜が降りた。

子供たちは白い息を弾ませながら楽しそうに草鞋で霜を踏んで歩く。

百姓はそれを見守りながら秋のうちに収穫した野菜や米の保存処理に追われていた。

大根は縦に連ねて縛って外に干し、脱穀の終えた米をせっせと俵に詰めて行く。

つい先月まで里へ下りてきて木の実を食んでいた動物たちの姿もなく、枯れて痩せた木々が北風でカサカサと音を立てた。


(…今年は昨年に比べ米の収穫が伸びなかったな…)


畑を一通り見て回った一人の武将は城へ戻りながら顎に手を当てて唸り声を上げる。

政宗が誰よりも信頼し竜の右目と称されるその武将は、同時に農業をこよなく愛する男でもあった。


(冷夏のせいもあったろうが…土に混ぜる馬糞の量を変えてみるか…)


小十郎はそんなことを考えながら作業中の百姓に声をかけ、城門をくぐる。

すると


「………ん…?」


小十郎の目の前によく見慣れた背中が現れた。

真っ青な陣羽織はいつも身につけているものではなく、地につくほど長い裾が揺れる予備のもの。

袖を捲くり、黒い具足を身に付けたその後姿は主に間違いない。


「ま、政宗様!武装などしてどこへ…!!」


小十郎は慌てて青い背中に駆け寄った。

蒼い背中はぴたりと立ち止まったが、振り返ることはしない。


「……政宗様は自室にいらっしゃいます」


小十郎はその声を聞いてぎょっとする。

聞こえてきたのは主ではなく凛と透き通った中性的な声。

肩につくかつかないか微妙な長さの黒髪や佇まいは主そのものなのに。

蒼い背中は再び歩き出し城内へと入っていった。

呆気にとられた小十郎はしばらくその背中を見つめていたが、

冷静になって考えてみるとその背中が主より華奢であることに気付く。

背も幾分低いし、袖から覗く腕も白く細かった。



(…まさか)



「…あれ…筆頭じゃねーか?」

「武装だぞ…?え、そろそろ軍議だけど…武装って命令だったか?」


城内を武装で平然と歩く「伊達政宗」の姿を見て、足軽たちは顔を見合わせた。

伊達軍は城主の性格故か、軍議で武装しなければならないという規則はない。

城主自体が稽古用の胴着や着流しでみなを集めるから、足軽たちもその姿に慣れてしまっているのだ。

なのに突然武装だなんて。

次の戦に関してなにか急激な変化があってのではないかと不安を煽る。

「伊達政宗」の姿をした小柄な影はその城主の部屋の前で立ち止まり、蒼く長い裾を踏まないように気を遣いながら廊下に正座した。



「政宗様」



凛とした女の声が部屋の中にいるであろう城主を呼ぶ。


「入れ」


数秒して聞こえた主の声に「はい」と答えて両手を障子にかけた。

ゆっくりと障子を開けると部屋の真ん中に座っている主と視線がかち合う。

主は自分に扮した従者の姿を見ると僅かに目を見開いたが、すぐにその目を細めてにやりと笑った。



「Great!上出来だ、



政宗は傍らの扇子を手に持ってを指した。

は一礼してから部屋に入り、後ろ手で障子を閉める。


奥州筆頭、独眼竜伊達政宗。


日本全土にその名を知らしめる男の目の前には、全く同じ姿をした従者が恭しく正座していた。

背中に着くほど長かった襟足はようやく肩につく程度にバッサリと切られ、

目付きや顔の輪郭までほぼ完全なまでに似せられている。

薄い眉の上から墨で細くつり上がった眉を描き、

もともと切れ長だった瞳は化粧で更に鋭い目つきに変わっている。

色白の肌には健康的な肌色の粉を塗り、女特有の柔らかさがある顔の輪郭は

微妙に明度の違う白粉で陰影がつけられて男の輪郭に近づけられていた。


「見違えたぜ。俺の見込み違いじゃなかったようだ。

 まぁ、一つイチャモンつけるとしたら体が貧弱だっつーことだけだな」

「…晒を重ねるにも限度があります。この姿のまま戦えることが重要ですから」


白い胴着の上から胴鎧を当て、その上から裾の長い蒼の陣羽織を重ねる。

それだけで十分着増しできるがやはり体格だけは近づけられない。


「ですが政宗様…元来影武者というものは背格好を似せてこそ成り立つものでございます。

 いくら顔形を似せられてもこれでは…」

「いいんだよ。顔形が似てれば」


は正座を守ったまま主を見てそう言った。

影武者とは遠くから見ても一目でその人物だと分かるように身長、体格などが最もその人物に近い者が務めるものだ。

顔は化粧で似せられても、女のが主の影武者を務めるなど不可能なのに。


「背格好を確認するまでもなく、俺の陣羽織を見りゃ突っ込んでくる奴もいるだろ?」


そう言って笑う政宗の言葉にはハッとした。


「っまさか上田に…」


がそう言いかけると背中の障子が勢いよく開けられた。


「政宗様!」


いつもなら開ける前に必ず声をかける従者は血相を変えて主の名前を呼ぶ。

政宗は言われることを予想したのか、面倒くさそうな顔をして胡坐を掻き直した。

「どうした騒々しい」

小十郎はだだっ広い部屋の真ん中に座る二人の「伊達政宗」を見て目を見開き、額に冷や汗を滲ませる。

一人は着流し姿で勢力図と碁石を広げて胡坐を掻いている。

もう一人は装飾の違う予備の陣羽織に身を包み、正座して軽く上半身を後ろへ捻っていた。


「…これはどういうことで御座いますか。政宗様」


小十郎は言いたいことをぐっと堪え、「本物」の主の方を向いて声を絞り出す。

今にも怒鳴り声を上げそうなほど眉間の皺がぷるぷると震えていた。

政宗はハーッと溜息をついて長い前髪を掻き上げる。

「そう急くなよ小十郎。ちゃんとこれから軍議で説明しようと思ってたところだ」

「、ならばなぜまず先に私に…!」

「言ったら反対してたろ」

正座したまま腰を浮かせる小十郎の勢いを押さえ込み、政宗は「なぁ?」と言ってを見た。

共に言葉に詰まっている二人を見て政宗は再び笑い、立ちあがって着流しの上の羽織を脱ぐ。




「みなを集めろ。予定より早ェが軍議を始める」






To be continued
10話以下で終わると思います。