…何が

何が起こっているんだ。


は無我夢中で山林を駆け抜けた。

足場のいい木を選んで着地することもせず、足元や体に跳ね返ってくる枝を乱暴に振り払って、

ただただ木々の上を飛び移り駆けた。

空は明るく雨雲などないのに細かい雨粒が視界を遮って鬱陶しい。そして酷く不気味だ。

国境が迫るにつれて烏の鳴き声が煩くなる。異臭がする。

逸る鼓動と背中に滲む嫌な汗は体の疲弊からくるものではなかった。



「……政宗様……!」





黒猫、天泣に吼える





山林を抜け、小田原城を一望出来る荒野に出た。

は目を見開く。

荒野を埋めつくす水色の軍旗と死体。

着地した足が血と雨を吸ってぬかるんだ土をを踏んで少し滑った。

(…北条軍……)

既に事切れて時間が経った死体の傍に膝を着き、周囲を見渡して息のある者を探したが、

時間が惜しくなってすぐに再び駆け出した。

木に飛び乗って城門前へいっきに飛び降りようと枝を蹴った瞬間、

見慣れた陣羽織が地面に倒れていくのが目に入る。

「…、ま」




「政宗様ッ!!!」




の声に振り返ったのは主君ではなく、主君の目の前に立つ見知らぬ武将だった。

どこかの血管が音を立てて千切れるような感覚が全身を走り、

頭が指令を出すより速く右手が腰の多節棍を掴んで着地と同時に振りきっていた。

雨粒が飛び、相手の刀身で阻まれたのだと解ってから我に返る。

ぎらりと光る刀身は瞳孔の開いた自分の姿を映していたが、その向こうに見える男の表情は相反していた。


「…貴様の顔には覚えがある」


息がかかるほどの距離から低い声が聞こえる。

は右手に意識を集中させたまま眉をひそめた、

…見覚えのない男だった。


「半兵衛様に雇われた身でありながら秀吉様を裏切った飼い猫…」


ぎり、と歯を食いしばる音が聞こえて体が強張る。

忘れかけていた箱の中身をひっくり返して必死に記憶の端を手繰り寄せると、

嘗ての雇用主の傍にいた若い武将を思い出した。

「私は」

左手でもう片方の多節棍を掴んだ瞬間視界が反転する。

雨粒を湛える空にすぐ手が届きそうだった。


「貴様を許さない」


宙に投げ出された自分の体と一緒に飛び散った赤い液体は、自分のものなのだろうか。

それは遅れてやってきた下腹部の痛みで確信を持った。

重力に逆らって傷口から溢れだした血が自分の体より高い所まで舞い上がって、

背中に衝撃が走ると時間差で腹の上にボタボタと落ちてくる。

叩きつけられた冷たい地面と腰の間に滑り込んできてじっとりと生温い。

いつの間にか左手の多節棍を放してしまったようだったが、右手の多節棍は辛うじて握ったままだった。

すぐ横に倒れている主を見て飛び起きようとしたが阻まれる。

「ッぁ…!」

右の太腿を刃が貫通し、再び地面に引き戻された。

下唇を噛みしめ、懐から苦無を抜いてうつ伏せのまま目の前の男に投げつける。

腹の皮膚がぱっくりと開いてぐぷりと血が溢れてきたが傷を押さえる労力すら惜しかった。

男が腿に刺さった刀を引き抜いて苦無を弾くと同時に飛びあがって体勢を整え、相手の顎下に滑り込む。

振り切った多節棍が相手の耳をかすって鎖が空回り、時間差で左の肩口に刃が減り込んできた。

鎖骨でゴギリと嫌な音がして込められた力の分だけ後ろへ吹っ飛んだ。

二度目に背中がぶつかったのは地面の堅さではなく甲冑の硬さ。

焦点が合わなくなってきた相貌をなんとか開いて顔を傾けると、血が降ってきて頬に落ちた。


「……まさむね、さま……」


主は隻眼で男を睨みながらの腕を押さえつけ、それを支えにするようにしてゆっくりと立ち上がる。

自分も続こうと足に力を入れるが動いてくれない。

太股から流れ出る血と一緒に力も流れ出ているようだった。

がくっ、と膝を着いて意識を手放す直前、再び主が倒れるのを見た。




…何が


何が起こっているんだ。





目が覚めたのは城のどこかの部屋だった。

奥州に住まって1年近く経つが、部屋の内装ですぐに現在地が分からないのは

普段部屋の中にいるより部屋の上にいることの方が多いせいだ。

部屋はシンと静まり返っているが耳を澄ますと城内は聊か騒がしい。

肩と右脚は既に処置が施され、起き上がると激しく痛む脇腹にも包帯の感触がある。

起き上がったところでようやく自分が浴衣姿だと気付き、枕元に畳まれた忍装束が目に入った。

忍装束に着替えて部屋を出ると、細かい雨粒が中庭の景色をけぶらせていた。

主の部屋には向かわずそのまま中庭に出て屋根の上へ飛び乗ろうとした時


「どこへ行く」


廊下の突き当たりから声をかけてきたのは主ではなく、自分と同じようにあちこち治療の痕が見える副将だった。

「…西の物見です」

「物見にしちゃ随分厳重装備だな」

小十郎はの腰や腕回りの装備を見逃さない。

腰に多節棍が二本、加えていつもは使わない小太刀が一本収まっている。

篭手から覗く毒針や苦無は普段より多く備えられていた。

「まだ政宗様から命令が出てねぇ。大人しくしてろ。

 お前そんな足じゃ歩くこともままならねぇだろう」

小十郎はの右脚に目をやった。

何重にも巻いた包帯は既に赤が滲んでいる。


「…走ることの出来ない忍など雑兵以下です」


がそう答えて踵を返した瞬間、同じように包帯の巻かれた左腕が伸びてきて胸倉を掴んだ。

物凄い音がして体が柱に叩きつけられる。

周りの足軽たちが「片倉様…!」とざわめいた。


「…テメェが男なら顎が砕けるぐらい殴ってたところだ」


絞り出すような低い声が少し震えている。

同時に胸倉を掴んだままでいる左腕の包帯にじわりと血が滲んできた。

ならば殴ってくれた方がいいとぼんやり思いながらもは抵抗しない。

今更男だの女だの、下らない。

「政宗様はこの軍の誰一人として雑兵なんて思っちゃいねぇ。

 テメェはこれまで政宗様の何を見てきた」

「………………」

襟巻と装束を一緒に掴む手に力が込められる。

自分の腹の傷が開くことより、小十郎の手にどんどん血が滲んでいくことの方が気がかりだった。

「…私は」

が口を開くが左手は力を緩めない。

「私はこれまで主の背中を見てきたことはありません。

 金で雇われていた身、相応の働きさえしていれば主の思想など傭兵にはどうでも良いのです」

今になって腹の傷が痛みを訴え始めた。

「…でも政宗様は」

服の上から右手で腹をなぞる。

まだ新しい傷の方ではない。もう何年も前の、古い二つの切り傷。


「政宗様は、命を預けろと仰った」

「同じ戦場で死ぬことこそ忠義だと……仰った」


頬が冷たくなった。

顎から垂れた液体が胸倉を掴む左手を濡らして、小十郎が僅かに顔をしかめたところでようやく気付く。

自分が泣いていることに。

悔しいのだろうか。

傷が痛むのだろうか。

あの時頭に乗せられた主の手の熱を、思い出したのだろうか。



非力で痩せた黒い猫は竜に拾われ、蒼い竜は猫に家を与えた。



「…政宗様はこうも仰ったはずだ。誰一人、無駄死にさせるわけにはいかないと」

左手が緩み、柱に押し付けられていた腕から解放される。

「泣いてる暇があったら苦無を磨け。きっと政宗様も同じことを仰る」

小十郎はそう言っての前を離れ、踵を返した。

は下唇を噛んで襟巻で涙を拭う。


!」


背中の方から複数の足音と声が聞こえ、は振り返る。

良直と左馬助が廊下を走って近づいてきた。

「筆頭が呼んでる」

は小十郎を振り返る。

小十郎は何も言わず少し頷いただけだった。

襟巻を直し、「分かった」と二人に告げて主の部屋へ向かう。



爪の研がれた猫は竜を愛し、猫は竜の前で再び爪を尖らせる



「政宗様、です」

部屋の前で膝をついて声をかけるとすぐに「入れ」と返事が聞こえた。

両手で襖を開けると、着流し姿で両手に刀を持つ主が立っていた。

部屋の両脇に立てられていた蝋燭は先端部分だけがきれいに無くなっており、

切られた先端が台座の下で凝固している。

「政宗様まだ動かれては……」

「お前、だんだん小十郎に似てきたな」

フン、と鼻で笑って刀を納めたのでは部屋に入って障子を閉めた。

「…妙な空だな。落ち着かねぇ」

少しだけ開いた格子戸から外を眺め、政宗が呟く。

外は明るいもののパラパラと細かい雨粒が戸に当たって内側に飛んでくる。

は両手を着き、同じように額が畳に着きそうな程頭を下げた。


「…申し訳御座いませんでした……ッ」


格子戸の前から離れた政宗は刀を置いてを一瞥する。

「私がもっと小田原の動きを注意していれば…!」

「言ってる意味が分からねぇな。頭を上げろ、甲斐の動きを見ておけとお前に言ったのは俺だ」

は一度顔を上げかけたが、着流しの合わせ目から覗く包帯から目を逸らす形で再び顔を伏せた。

これが自分が成せなかったことの結果だ。

主の体の傷は、自分の無力さを無言で訴えかけてくる。

「…ですが…っ豊臣の……」

言いかけたところですぐ目の前まで政宗が迫っていることに気付いた。


「頭上げろ」


二度目。

は奥歯を食いしばり、ゆっくりと顔を上げる。

同時にしゃがんだ政宗の右手が伸びてきて殴られることを覚悟した。

指先が頬に触れる。少し冷たい。

目元から縦になぞるように指が滑って、口端まで下りてくると突然頬を抓られた。

「、」

想像していた痛みとは全く別の、複雑な痛みだ。


「…ま、まひゃむねさま」


抓られたまま軽く引っ張られたので当然うまく発音出来ない。

主のしたいことが解らずただ目を丸くするばかりだ。

だが主は左手で頬杖をついたままにやりと笑う。

「お前はもうちょい笑った方がいい」

そう言われて更に目が丸くなった。

「武田の忍のようになれとは言わねぇ。だが奥州にいる時くらい気ィ抜いたってバチは当たらねぇだろ?」

抓っていた手を放して少し赤くなった頬を甲でぺちぺちと叩く。

そして再び立ち上がり、元の位置に戻って刀を持った。

「…ま、今は気ィ抜いてる場合じゃねぇがな」

振り返る政宗の表情から笑みが消える。



「明日出陣する。走れるか」



政宗はそう言っての右足を見る。

普段僅かに太股が出ている状態だが、右足は膝の上から付け根までほとんど包帯で覆われていた。

正座していると皮膚が突っ張って刀が貫通した傷が痛んだが、

痛むのは神経に異常がない証拠だと思えば走れる。


「はい」


は固く頷く。

もし膝の皿が砕けていたとしても、主に問われたのなら自分は走るのだろう。

「OK、いい返事だ」




「吼えてみろ、お前に猫撫で声は似合わねぇ」




頬の産毛がぴりりとする感覚

まるで自分が本当の猫になったような、竜の覇気に中てられたような。


竜もまた猫を愛し、竜に愛された猫は天泣の中吼える。





もはや筆頭ってこれしか書いてない猫シリーズ。
伊達軍は小十郎がいるし、忍っぽい忍は必要ないのでヒロインのポジション微妙です。
でもそこを書くのが楽しかったり。
三成あんな役回りですいませ…!実は3未プレイなんです…!
3コミックを参考にしました。三成にやられた後の筆頭こんな元気じゃないですよね…;