猫足が喚ぶ-4-







「思ったより早かったな。先に大阪へ向かっていても良かったんだぜ」


目の前に膝を着く忍を見下ろし、政宗は手綱から手を離して腕を組む。

「一刻も早く本陣に合流せねばと思いまして…」

「まぁいい。ご苦労だった。甲斐の現状は分かったか?」

「…申し訳ございません。途中甲斐の忍の邪魔が入りました」

忍はそう言って少しだけ顔を上げ、左頬に残る切り傷を主に見せた。

それを見た政宗はハ、と鼻で笑う。

「さすがにこの状況で易易と領地を跨がせてはくれねぇか。副将が使えねぇんなら、

 子守役がしっかりせにゃならんだろうよ」

政宗はそう言って後ろを振り返った。

「馬を休ませろ。ここから大阪までいっきに攻める。お前らも休める時に休んどけ」

足軽たちは返事をして馬から降り、それぞれの馬を木に繋いだ。

「お前もだ。深手じゃねぇとはいえしっかり処置しとけよ」

「はい」

馬を降り背を向ける政宗を確認して立ち上がった忍は、

口端に伝ってきた頬の血をぺろりと舐めた。







同時刻

自分の姿を装った松永の遣いが主に近づいていることなど知る由もない奥州の忍は


「……………」


左耳が上半分ちぎれた状態で敵の目の前に立っていた。

(…聴力に問題はない…と思う)

多分。

顔の左半分が猛烈な痛みで熱くなっているように感じるが、

痛いということは大事な器官を傷つけてはいないということだ。

我ながら適当な自己判断をして痛みから意識を背ける。

相手も片腕の骨を折っている。五分五分…よりは少し分が悪いだろう。

は多節棍を握り直し、相手もほぼ同時に地面を蹴って間合いを詰めてきた。

その瞬間

「!」

二人の間を大きな鳥が横切り、視界を遮った。

黒い羽を散らしながら西の空へ飛んでいく鳥には、見覚えがある。


「…なんか匂うと思って寄り道してみれば…成程、素通りすりゃよかったかね」

「佐助…!」


が立つ枝より少し高い位置からこちらを見下ろす迷彩柄の装束。

「邪魔も加勢も柄じゃないしそんな暇もないけど、どっちかっつったら里の後輩に加勢した方が後々返ってくるモンがあって得かな?」

佐助はそう言って風魔の後ろに降りる。

風魔は正面のに体を向けたまま僅かに首を捻り後ろの佐助を見た。

佐助に気を取られて風魔への注意が一瞬疎かになったも再び多節棍を構える。

「……………」

風魔は鳥の飛んでいった西の空を見上げると、ふっとその場からいなくなってしまった。

それを見た佐助は安堵したようにため息をつき、頭を掻く。

「今正直あいつの相手してる余裕ないし、助かったな」

そう言って地面に降りる佐助に続き、も少しよろめきながら木を降りた。

「で、耳半分ないけどちゃんと聞こえてんの?」

「そんなことは後でいい…早く政宗様の所へ戻らないと…!」

「後でいいってお前中イカれてたら歩けないだろ。途中でくたばんのは自由だが、

 逆に本陣のお荷物になるんじゃねーの」

は言い返せなかった。

五感を削られては主を助けに向かうどころではない。

忍として動くどころか軍の人間でいられなくなる可能性もある。

黙っているを見た佐助は浅くため息をつき、の左耳の真横で勢いよく手を叩いた。

音と衝撃で反射的に瞬きしてしまったを見て佐助は「うん」と頷く。

「聴力は問題ないな。瞳孔も揺れてない」

「…何で来たの。総大将が伏せてる時にこんなところで油売ってる暇ないでしょ」

「助けてやったのに随分だな。まぁいいけど。生憎、俺如きが外してる程度で潰されるような国じゃないんでね。

 どっかの誰かが前みたいな粗暴働かなきゃ、甲斐にいる連中だけで何とでもなるさ」

「…あんたらが手を組んでる輩の方がずっと粗暴な気もするけど」

襟巻きの端を裂いて耳に巻きつけながらは静かに反論した。

佐助は肩をすくめながら鼻で笑う。

「俺の決めたことじゃないし知らないよ。それを諭してやるのも俺の仕事じゃないし。

 まぁお前が個人的に気に入らないのは分からんでもないけどね」

「、」

そう言った佐助はの右脚を見ていた。

縫い傷の残る右太腿。

貫いた刃の先にあった憎悪に満ちた表情を、あれから一時も忘れたことはない。

は言い返したいのを我慢して耳の後ろで布を結び、横目で佐助を見た。

「…その為の鬼島津か。納得がいった」

「どこから聞いた?」

「本人。ここへ来る前に会って少し話をした。政宗様も甲斐の様子を気にしておられたからな」

特に隠す必要もないだろうと思い、は道中で真田幸村と会ったことを佐助に伝えた。

本人も堂々とに行き先を教えてくれたのだし。

「…ふーん。くれぐれもこっちには来るなって伝えておいてよ。面倒くさいし暇じゃないから」

「それはこっちの台詞。あんたと戦り合うのは面倒くさい」

が襟巻きを結び直すと佐助は木の上に飛び乗った。




「俺たちが面倒くさがってもぶつかっちゃうんだよね、あの人たちは」





駿河国境付近


「…風が強くなってきたな」


月が頭の真上から少し傾きかけた頃、岩の上に腰を下ろしていた政宗は外していた兜を持ち立ち上がった。

「支度をしろ。夜明けには大阪だ」

兵に指示をして兜を被り、忍緒を顎で結ぶ。

横にいた小十郎も繋いでいた馬を放して蔵を整えた。


「…さて、と」

 
政宗はくるりと振り返り、小十郎の斜め後ろに膝をついていた忍に近づく。



「は」

政宗は忍の頬にかかる髪に手を伸ばし、その下に隠れた耳に触れる。

忍は戸惑って首をかしげたが、主の手はそのままこめかみを鷲掴みにすると小さな頭を勢いよく地面に叩きつけた。

その場にいた全員が慌てて駆け寄る。

「ひ、筆頭…!何を…!!」

政宗は立ちあがって忍を跨ぐと胸倉を掴み寄せた。

「……、ま、政宗さま…」

「Shut up、テメーに政宗様と呼ばれる筋合いはねぇ」

そう言って掴んだ忍装束を力任せに引っ張る。

留め具が弾け飛び、後ろにいた足軽たちは思わず手で顔を覆った。

だが忍装束の下に覗く裸体はとても不自然だった。

滑らかすぎる人工的な肌と二つの膨らみ。

「あの日」政宗と小十郎が見た大きな傷はどこにもない、綺麗な「女」の体だ。


「…残念だったな。あいつに化けんなら肉襦袢はいらねぇ。こんなに肉ついてねぇし胸も半分以下だ」


引っ張っていた忍装束からぱっと手を放すと細い体は再び地面に叩きつけられる。

「『甲斐の忍の邪魔が入った』…にしちゃあ随分軽傷じゃねーか。

 同郷の仲だとは聞いたが、あいつが避けきれねぇほどの邪魔建てなら耳の一つでも吹っ飛んでんだろ」

傍に立つ小十郎も初めから気づいていたようで表情を全く変えず、冷めた視線で忍を見下ろしていた。

「ツラはよく似せてあるが…睫毛は俺に化けた時に切った。最近髪も伸びてきたしな。

 まぁ女が化けるより男が化けた方が似るってのは当たりだが…」

そう言って立ち上がった政宗は右足を軽く上げ、忍の喉元を容赦なく踏みつけた。

「ォッ……エッ…!」

親指と人差し指の間で傾らかな喉仏を挟み、ぐっ、と体重をかける。

「アっ、が…!」


「ウチの忍の顔のまま汚ぇ面で死なれんのは腹立つからよ。

 顔の皮剥ぐか俺に見えねーところで勝手に死ね」


泡を吐き出して顔を紫に変色させる忍を見下ろし、言い放つ。

「…政宗様。この者…」

「ああ。こんな悪趣味なこと考える奴他にいねーだろ。手の込んだことしやがる」

失神した忍を放ってチ、と舌打ちした政宗は西の空を見上げる。

冷たい風が強くなってきた。

「如何なさいますか。は…」

「あいつにも夜明けには大阪に入ることを伝えてある。このまま予定通り行くぞ」

「は」




一方、尾張の国境を越えたも再び大阪へと進路をとっていた。

初めは間者の手が伸びたであろう本陣の加勢に引き返すつもりだったのだが


(…頭が冷えた)


佐助と話をしたお陰だとは思わないことにする。

(片倉様もいらっしゃる。…政宗様なら大�vだ)

枝の上で足を止め、ぐるりと周囲を見渡した。

立ち止まると耳の痛みが顔全体の神経に広がっていく。

耳鳴りなのか神経の悲鳴なのか自分の鼓動なのか、

どれとも言い難い色々な音がちぎれた左耳に集中していた。

西北の空に見慣れた鷹を見つけ、鷹が旋回している川原に出る。

左耳を塞いで右耳を澄ませると馬の駆ける音が近づいてきた。


「…政宗様!」


木から飛び降りながら本陣の前に着地する。

先頭を走る政宗は馬を停め、左目を少し見開いてを見下ろした。

「ご無事ですか!?」

「どう見たってお前の方が無事じゃねェだろ。…どうした、その耳」

「それより本陣は…」

「見ての通り何事もなくここまで来てる。小十郎、手当てを手伝ってやれ」

「は」

政宗の声で小十郎は馬を降り、新しいさらしを持ってに近づく。

「酷いな…半分千切れてるじゃねぇか」

が自分で撒いた襟巻きの切れ端をゆっくりとほどきながら、小十郎は顔をしかめる。

切れ端が水音を立てるほど血が滲んでいてほとんど止血の役割を果たしていない。

新しいさらしで表面の地を拭ってやると裂けた軟骨が少し飛び出していた。

「聴力に問題はありません。それより本陣は本当に…」

「予定通りだと政宗様も仰っただろう。政宗様の仰ることが信じられねぇのか」

「…いえ…」

はそのまま黙り込み、大人しく手当てを受けている。

その様子を見た小十郎はそこまで隠す必要もないだろうと思ったが、政宗の意向なので従うことにした。


「…政宗様」


手当てを終えたは政宗に近づき、膝を着く。

「道中で真田幸村に会いました」

「…何だと?」

政宗の顔色が変わる。

「甲斐の状況は聞けませんでしたが…真田隊は薩摩へ向かったようです」

「………」

の言葉を聞いて暫く何かを考えるように黙り込んでいた政宗だが、

暫くすると納得したように頷いて顔を上げた。

「成程な。ようやく動いたか」

何故薩摩に向かったのか訊かないところを見ると、政宗はその理由が分かっているようだ。

「…政宗様?」

馬に跨り、横に並んだ小十郎は横目で政宗の表情を伺う。

もその場に膝を着いたまま返答を待った。


「なら俺たちもさっさと大阪片付けて南へ向かわねーとな?」


ぱっと顔を上げると、いつものように笑う政宗と目線が合う。

小十郎も肩で息を吐いたように見えたが表情は穏やかだ。


「はい!」

「Yeah.いい返事だ」


大阪の国境に差し掛かる頃、背にした東の空が白んできた。