猫足が喚ぶ-2-






三河の風はやはり暖かだった。

冬の訪れを告げる北風は少し肌寒かったが奥州に比べれば肩をすくめるほどではない。

神無月の終わり、城下町では冬仕度に追われる農民たちが忙しそうに働いている。

木の上から眺める三河の国は、奥州と変わらず穏やかで力強い。


「遠路遥遥済まなかったな、奥州の忍よ」


徳川家康に文を手渡したのは田畑の畦道だった。

城内のどこにも姿を確認できず城下町を覗いてみれば、農民を手伝って国主自ら米俵を担いでいた。

民や兵士たちからも人望の厚い気さくな人物だとは聞いていたがこれほどとは。

は少し呆れながら、家康の背後に立つ木に身を隠す。

「いい返事が貰えて良かった。独眼竜の協力無くして東軍勝利は有り得ん」

家康は正面を向いたままそう言って懐に文を仕舞う。

「そなたは以前、豊臣軍の傭兵だったそうだな」

「…はい」

「働きぶりは聞いている。独眼竜は心強い仲間を持ったな」


(…仲間)


その言い方に違和感を感じ思わず顔をしかめたが、互いに背中合わせだから相手には気づかれなかった。

その働きぶりというのも自分が嘗て仕えていた主君に聞いたのではないのかと思うと、背中を合わせる男に恐怖すら感じる。

「…では私はこれで」

が地面を蹴り、木に飛び乗ってその場を去ると家康は振り返って僅かに揺れた枝を見上げた。

苦手だと思うのは


(…忍を武将と一括りにされることに慣れていないせいだろうか)


三河の国を出たところで足を止め、口笛を吹いて一羽の鷹を呼ぶ。

腕に留まった鷹の脚に細く折りたたんだ懐紙を括りつけ、背中をぽんと叩いてやった。

「お行き」

舞い上がった鷹は東の空へ向かって真っ直ぐ飛んで行く。


(…甲斐…に行くか、上田に行くか)


鷹が飛んでいった方角を見つめ、進路に悩む。

主が知りたいのは甲斐の虎・武田信玄の病状なのか、

その信玄が病に倒れたことにより完全に士気を落としている真田幸村の現状なのか。

…恐らくそのどちらもなのだろうが。

進路を上田にとって森の中に入る。

本当は甲斐に赴いて武田信玄本人に話を聞ければそれが一番早いのだが、

病人のところへ上がり込む気もないし何より


(…武田が石田軍と同盟を結べば、近々大きな戦になる)


「……ん?」


枝を蹴って木に飛び移ると、少し離れたところから馬が近づいてくる音が耳に入った。

しかも一頭ではない。

(四…いや、五騎…?)

音に近づこうと林を抜けた瞬間、街道を走り抜ける騎馬隊を鉢合わせた。

「ッ」

「…!そなたは…!」

先頭を走っていた武将は慌てて手綱を引き馬を停める。

紅い鎧を外套に隠し、背中に二槍を背負った若武者。

今まさに会いに出向こうとしていた相手。


「…真田幸村…」


は少し眉をひそめ、馬に跨る幸村を見上げた。

この街道は甲斐に続くものではなく、京へ向かって南下する道だ。

なぜこのような道を騎馬戦を率いて走っているのだろう。

「貴様伊達の…!」

「どこで嗅ぎつけてきた!」

幸村の後ろを走っていた武将たちが馬から降りてきて刀を抜こうとする。

「収めてくれ。この者とは戦わない」

幸村がそう言って振り返ると武将たちは刀を収め、一歩下がった。

幸村は改めてを見下ろし、馬から降りる。

「お久しゅうござる殿。西へは何用で」

「…物見ついでです。真田殿こそどちらへ?」

相手が馬から降りてくれたのでは片膝を着く。

騎馬隊をつれて南へ向かう街道を走っているということはやはり石田の所へ向かうのだろうか。


「某はこれから薩摩へ下りまする」

「薩摩…?鬼島津ですか?」


は思わず目を丸くした。

なぜ主君が病に伏せる今薩摩に?

同盟を結ぶため大阪へ向かうのではなく?

幸村は「左様」と頷く。

「お館様のお認めになる各地方の武将たちに助力の願い出へ向かうところにござる」

「…助力、でございますか」

それでその信玄公の容態は、とは聞けなくなってしまった。

そこまで教えてくれるほどこの男も馬鹿ではないだろう。

「それを私に教えて良いのですか?」

「?何か不都合が?」

「先回りをして貴方の進路を塞ぐやもしれませんよ」

がそう言うと今度は幸村は目を丸くした。

彼の後ろに立つ武将たちが一瞬ぴりりと殺気を放ったのが分かる。

だが幸村はそれ以上表情を変えない。


「そなたは、三河への遣いの帰りでござろう」

「、」

「先日家康殿が政宗殿に同盟を結ぶための文を送ったと聞いた。政宗殿が同盟を拒む理由もない。

 三河の国境にいるのは家康殿へ文の返事を届けたからではござらぬか?」


この人は

本当に真田幸村だろうか?


そう思ってしまうほど、目の前の男に違和感を感じた。

「…石田三成の入れ知恵ですか」

「?いや、佐助だ」

同郷の忍の名前を聞いてようやく安堵する。

「…私は参ります。貴方も道中お気をつけて」

相変わらず会話するのも疲れる人だとため息をつき、浅く頭を下げる。


「----…殿、」


少し慌てた様子で呼び止められたのでも思いがけず急停止になった。

振り返ると、幸村は少し顔を伏せて目を泳がせている。

どう話を切り出すべきか、またそれを口にしていいものか迷っているように見えた。

「…何か」

は落ち着いた様子で続きを促す。

幸村はきゅっと唇を結ぶ仕草をして決心したように顔を上げた。


「…先日、尾張で松永久秀にお会い申した」

「!」


は相貌を見開く。

久しく聞くことがなかったが決して忘れることもなかった元主の名。

自分が脱軍してからしばらくは身を潜めていたが、豊臣に傭兵として雇われていた頃再びその名を聞いた。

伊達軍の足軽を捕虜にその命と総大将・独眼竜政宗の愛刀の交換を持ちかけた、と。

その際政宗は重傷を負い、副将である小十郎が捕虜奪還のため東大寺へ乗り込んだと聞いた。

最期は自ら火薬を使い自害したようだと半兵衛から聞かされていたし、小十郎もそう言っていた。

だが彼のことだ、どこかで生き延びているのではないかと思っていたがまさかそれを人伝に知る日が来ようとは。


「…何故、尾張に…」

「某も詳しくは分からぬが…恐らく、織田信長の亡骸を…」


続きを言われずとも、にはあの男が何をしようとしたのか分かった。

あの男にとっては亡骸も「物」だ。

それは第六天魔王の亡骸であれば尚更、あの人にとっては価値のあるものだろう。

「…それを私に教えようと思ったのは、猿飛殿から昔のことを聞いたからですか?」

「………あ」

しまった、と思った。

松永のことを彼女に伝えなくてはとそれだけを考えていたが、

その前に彼女が元松永軍忍隊長だったことを佐助に訊いたという説明をしなければならなかった。

しかも佐助は言うのを渋ったのに自分が無理やり聞いた形だ。

「も、申し訳ござらん…!某が佐助に無理を言って聞いたが故!佐助を責めないでやって下され!」

「…謝りになる必要などありませぬ。密事にするほど大それたことではございませぬ故。

 貴方も武田軍総大将として、敵のことをよく知っておかねばならぬ立場でございましょう」

が冷静にそう言うと「それはそうだが…」と言葉を濁す。

元松永軍だということを聞いたとすれば、が軍を抜けざるを得なかった理由も聞いたということだろう。

その話をこの男がどう受け止めたのかは知らないが、

様子からするに知ってしまって申し訳ないという思いでいるのだろう。



(…つくづく、甘い人だ)



は浅くため息をつく。

これがこの人本来の姿だな、とも思った。

「松永は新たに腕のたつ傭兵を雇ったと聞きまする。その手が再び政宗殿に及ばぬとも限らぬ故…」

「ご忠告感謝致します。ですが、今松永に攻め入られ窮地に立たされるのは武田も同じことでございましょう」

「、」

そこで初めて幸村は強い目つきでを見た。

「信玄公が床に伏せる今、甲斐と信濃は貴方の背中に託されたも同然。

 まだ政宗様に遠く及ばぬ貴方に総大将が…」

「某は!」

案の定、というべきか。

大きな声で言葉を遮られる。


「…お館様と、甲斐の民と、武田の武将たちと約束した。

 お館様に代わりこの真田幸村が総大将として指揮をとる。

 いつまでも虎の若子ではない、甲斐の虎を継ぐ者として民や武将の命を預かる覚悟は出来ている!」


『いつまでも小虎のままじゃいられねぇだろう』


ああ、いい報告が出来るなと思ったら少しだけ口元が緩んだ。

「…政宗様もきっとお喜びになります」

では、と浅く頭を下げて近くの木に飛び乗る。

幸村は僅かに揺れた木の葉を暫く見つめ、後ろの武将たちに「行くぞ」と言って再び馬に跨った。

酷く乾燥した砂煙を撒き散らす南西の風は

色素の薄い後ろ髪と馬の尾をいつもより高く舞い上がらせる。