よすが







雲行きの怪しい西の空を気に掛けながら慶次は馬を走らせていた。

陽が沈む前に山を越えなければ山中で雨に見舞われてしまうかもしれない。

元より焦っていた気持ちを更に焦らて手綱を下ろし馬の速度を更に上げる。


「落ちるなよ、夢吉」


懐からひょっこりと顔を出した夢吉に笑顔を向けるが、顔を上げた瞬間表情は引き締まる。

改めて手綱をしっかりと握り直し、前傾姿勢になって鐙に体重をかけた瞬間

「、」

山道の左右に並ぶ杉林から飛び出してきた細い影が慶次の前方に降り立って行く手を塞いだ。

慶次は手綱を引いて馬を停め、目を細めて前方の影を見つめた。


「…やっぱり来たか」






道の真ん中に立つ黒く細い影。

時折冷たい秋風に靡く黒髪も相まって本当に全身が漆黒だ。

城に仕える忍の名前を口にした慶次は緩やかに微笑んだつもりだったが苦笑いになってしまった。


「…城へお戻り下さい。慶次様」


道を塞ぐ忍は表情険しく口を開く。

慶次は馬を降りてに近づいた。

「利に頼まれたのか?それともまつ姉ちゃんに?」

「御両人で御座います。利家様は未だ武器を持つこと叶わぬ御身…

 尾山城はいつ攻め入られるか分かりません。どうかお戻りを」

口調は冷静だったがその額には汗が滲んでいる。

僅かだが肩も上下していて、忍の彼女がそうなるのはよほどの速度で自分を追いかけて来たからなのだろう。

慶次は苦笑して頭を掻きながらの前に立つ。

「…ずるいなぁ、利もまつ姉ちゃんも。俺がにそう言われたら弱いの知ってるんだ」

だが長い指を髪から離した瞬間にその表情は真剣になった。


「でも退けない。俺は秀吉に会いに行く」


真剣な眼差しと向き合うの表情は最初から真剣だったが、

白い眉間に僅かな皺が刻まれてその目が細められる。

それが諦めにも似た表情に変わるとは浅く溜息とついた。

「…聞き入れて頂けない場合は力尽くでもと仰せつかっております」

腰に添えた両手が苦無を抜き取り、ぎらりと光る鈍色の先端が慶次に向けられる。

だが慶次は背中の大刀に手をかけず、直立不動のままを見た。

「…仕舞ってくれ。俺はあんたと戦いたくない」

「ならば城へお戻り下さい。私も貴方に怪我をさせたくはありません」

毅然とした態度で武器を構えたままは言った。

主の命とあれば例えそれが身内であろうと言葉の通りやってみせることを、慶次はよく知っている。

また、彼女が体格も力も上回る慶次との戦い方を熟知していることも昔から知っている。


「なぁ


更に一歩、に近づいて慶次は口を開いた。



「俺あんたに、「忍なんかやめちまえよ」って何回言ったかな」



突然何の話だとは眉をひそめたが、苦無を下ろすことなく律儀にその答えを考え始める。

「…三百と八十七回程です」

「はは、そんなに言った?」

険しい表情が一転、朗らかに綻ぶ。

「それは今も変わってないよ。に綺麗な着物を着せて一緒に町で茶が飲みたい。

 京の祭に行って、そこでに似合う簪を選んでやりたい。そうだな…きっと藤の花が似合うよ。

 淡い紫の、あんまり派手じゃないやつ。絶対似合う」

穏やかな笑顔が向けられるがの表情は変わらない。

少し呆れたように

「…貴方は昔から、絵空事が達者でらっしゃる」

「今はそうかもしれない。でもこの世が平和になれば絵空事じゃない」

再び笑顔が消えて真剣な眼差しが向けられるが、は浅く息を吐いて小さく首を振った。



「泰平の世に忍は必要ありませぬ」


「私は利家様から受けた命を遂行せねばなりません。どうか、ご決断を」



少し色素の薄い髪が秋風に揺れ、少し遅れて慶次の鼻に香の匂いが届く。

懐から僅かに顔を出した夢吉が二人の顔を交互に見つめて心配そうに鳴き声をあげた。


「…城には戻らない。俺は大阪に行く」


はっきりと聞こえた答えには目を瞑り、すぐに開いて先刻より鋭い目つきで慶次を見据える。


「残念です」


口を開くと同時に構えた両手を振り上げ、指に挟んでいた計八本の苦無を勢いよく投げつけた。

慶次は背中の大刀を鞘ごと抜いて自分の目の前に突き刺し盾にする。

勢いよく飛んできた苦無の五本は鞘に刺さったが、残りの三本は動かぬ慶次の真横を通過して頬と足を切った。

驚いた夢吉が懐に潜り込み、突き刺した大刀を振り上げると素早く距離を詰めていた忍の足が顔面に迫る。

叩き込まれた足を右手で受け止め、大刀から両手を離して長い右手をの首元に伸ばした。

黒装束の襟ぐりを強く引っ張って細い体を引き寄せる。

まずい、と感じたは腰の小太刀に手をかけたが、

手をかけた時には既に刀を抜けない程距離を詰められていた。


「…ごめんな」


声が耳に届いた時には既に遅かった。

口を塞がれたと同時に突き飛ばそうとしたが分厚い胸板とがっちり押さえたれた首元はビクともしない。

ならば唇を噛み切ってやろうとしたが、次の瞬間口内に舌以外の異物が侵入してきた。

「………!」

それが飲み込んではいけないものだということ位、忍でなくとも分かる。

喉を通らないように何とか舌で押さえつけていたが、唾液でじわりと溶けてくると体の力が抜けてきた。

この手の薬には常人より耐性があるつもりだったのに。

何とか吐き出さなければ、と慶次の胸板を押すがやはりビクともしない。

頭がぼんやりとしてきたのは薬のせいなのか、快楽のせいなのか

そんな判断もつかなくなる程思考は鈍っていた。

胸板を押す指先にも力が入らなくなっていく。

薬を押さえていた舌を絡めとられて顎を持ち上げられると、薬は遂に喉を通っていってしまった。

「…………っ」

はがく、と膝から崩れる。

ようやく唇と長い腕から解放されたが、体に力が入らず視界もぼやけてきた。


「…貴方が…ッこのようなものに頼るなど…!」

「…真っ向から行ったら俺はには勝てないからさ。

 卑怯だって言われても、何としてでも大阪に行かなきゃならないんだ」


慶次はそう言って懐から出てきた夢吉を抱き上げ、の傍へ下ろす。

そして自分の馬に繋いでいた竹筒をの手元に置いた。

「強力だけど効果は短いから、なら水飲んで吐き出せばすぐ歩けるようになる。

 夢吉、を頼んだぞ」

「待…っ慶次、様…!」

手元に落ちている苦無を握ることもできない。



「…ごめんな。生きて帰ってこれたら、ブン殴ってくれよ」



立ち上がってそう言いながら苦笑した慶次の表情も、ほとんど見えていなかった。

慶次は馬に跨り、京へと続く街道を走っていった。



『痺れ薬?』



数日前・越後

かすがは怪訝そうに眉をひそめて慶次を見た。

『ああ、持ってたら分けて欲しいんだ』

『…何に使う気だ?お前がそんなものに頼るなど…良からぬことを企てているわけではあるまいな?』

元々主ほどこの男を信頼していないかすがはそう言って慶次を睨みつける。

慶次は「違うよ」と苦笑したが、次の瞬間には真顔になっていた。

『…俺が大阪に行くにあたって絶対、戦らなきゃならない奴がいるんだ。

 長い付き合いだからお互い戦い方も熟知してるし、多分その手の薬にも耐性がある。

 でもその分俺がこんなの使うなんて思ってないだろうから、確実に足止めは出来ると思うんだ』

『足止め…?前田の夫妻か?』

『ううん、もっと厄介なやつ』

慶次はそう言って苦笑する。

そのの言葉から相手が自分と同業者だと察したかすがは少し考えてから席を立ち、奥の部屋から懐紙に包まれた薬を持ってきた。

『対忍用だ。即効性はあるが効果は短い。その場数刻を凌ぐ程度にしかならん。

 どうやって与えるのか知らぬが…いくらお前の身体といえど、口内で溶けてしまえば動きは鈍るぞ』

『ん、大丈夫。丈夫なのだけが取り柄だし』

ありがとね、と言って受け取った薬を懐へ仕舞う。



「…参ったな」



手綱を片手に持ち替え、右手で目を擦る。

「大阪に着くまでに、抜けてくれればいいけど」

今ここで馬を停めて休んでいる時間はない。

目を擦った手で自分の頬を叩いて気合を入れ、その指で唇に触れた。


「…の張り手、まつ姉ちゃんのより痛ぇんだよな…」







慶次単体は初でした。
書きやすそうに見えて実は性根が一番面倒くさいのって慶次なのかなって思ったり。