いくさばバンビ-インフルエンザ編-
「…信じられない」
身も凍る真冬の寒空の下、肩をすくめてガタガタと震えながら校門前に立っていた。
毎朝教師たちは交代で校門前に立ち、生徒の登校を見守る日課がある。
校門の中までバイクで入ってきている生徒がいないか、
朝から釘バットを振り回して乱闘している生徒がいないか、
文字通り「見守る」という日課である。
今日当番のは8時過ぎからかれこれ2時間近くここに立っていた。
時刻は朝9時半過ぎ。
登校時間規則は8時45分。
もう1時間も過ぎているのに、自分が受け持つ3年Ω組の生徒がまだ一人も登校してきていないのだ。
「全員が遅刻ってどういうことなの…」
他のクラスではもうHRが終わって1時限目が始まっている頃だろう。
「…みんな風邪でも引いたかな…インフルエンザ、流行ってるし」
・・・・・・・・
「…いや、ないない」
独り言を漏らし、独りツッコミを入れる。
またサボってどこかで喧嘩しているのかもしれない。
職員室に連絡が来てるかもしれないと思い、ため息をついて校門を離れようとすると
「あれ、先生何してるの?」
振り返ると、一足早く春を感じさせる紅梅色の髪の毛が北風に揺れていた。
でも今は春も感じないし温かい気持ちにも穏やかな気持ちにもなれない。
ひたすらイラッとした。
「…君たちが登校してくんのを待ってたんだよ」
「なんで?授業始ってるよ?」
「生徒がいないのに授業が出来るかァァああああああああ!!!!!」
そんなこんなで。
「ふ、えっ…くしょい!!!」
昼休みの学食に盛大なくしゃみが響き渡る。
「…もうちょい可愛いげのあるくしゃみしたらどうだ?」
斜向かいに座っていた阿伏兎が怪訝な顔でこちらを見てくる。
はスーツのポケットから出したティッシュで鼻をかみながら彼を睨みつけた。
「咄嗟のくしゃみに可愛いげを求める方が間違ってる」
「風邪でも引いた?やだな、こっちに顔向けないでよ」
「…ひどい言われようなんだけど。っていうかクラス全員2時間の遅刻って何なの。
寒空の下待ってた私何なの」」
大丈夫?の一言もない。
強面の生徒たちが無心で昼食をとる学食で一緒に豆パンを貪る女教室はかなり浮いていたが、
生憎本人は数ヶ月前からこの生活に慣れてしまっている。
「そういや2年で学級閉鎖あったらしいじゃねーか」
「インフルエンザでね。大丈夫だよ、君たちはインフルエンザどころかバイオハザードが蔓延したってかからないから」
鼻をかんだティッシュを丸めて手近なゴミ箱に捨て、家から持参したペットボトルのお茶で喉を潤す。
なんだか最近喉がよく乾くなぁ。
「バカは風邪ひかないはずなのにね」
「そうそう…ってそれ私に言ってる?」
さぁ、と笑う教え子は豆パンを貪る担任を差し置いて大盛りカツカレーをかっ込んでいる。
それをじと目で見ることにももう慣れた。
(毎日豆パンじゃー風邪も引くよなァ…)
昨日1日の自分の食事を思い返してみた。
朝、買い置きしていたカロリーメイトを牛乳で流し込み
昼、今日と同じく購買で買った豆パンをセルフサービスの水で流し込み
夜、帰ってきたらもう疲れて家事なんてしたくなくて、カップラーメンを流し込んでそのまま寝た。
(一人暮らしの男子大学生かよ…)
いや、今時は男子大学生の方がいい食生活を送っているかもしれない。
教師という職業が多忙を極めることは覚悟していたが、
まさかここまで自分の食生活が堕落してしまうとは思っていなかった。
「明日は早起きしてお弁当作ろうかな…」
翌朝
「………………」
宣言通り早起きして弁当を作ろうと思ったのだが、
ベッドに座ったまま5分ほど体温計を睨みつけている。
目が覚めた瞬間に体に感じたあの違和感
体の関節を縛られてるみたいなギシギシと鈍い痛み
息を吸いこもうと思ったら両鼻の奥が塞がっていて苦しい。
寝ている間鼻呼吸ができなかったせいで頭に酸素がいかなかったのか、ひどい頭痛がした。
布団にすっぽり入っていた手足はなぜか冷たく、反対に首から上が燃えるように熱い。
まさか、と思い慌てて脇に体温計を差して待つこと5分。
「…7度5分」
高熱とも微熱とも言えない微妙な体温。
だが放っておけば確実に高熱になるだろうなという危ない体温。
「…勘弁してよ…」
水銀の温度計をぶんぶんと振って温度を下げながら頭を押さえた。
インフルエンザ…ではないと思う。
先日なけなしの貯金を下ろして予防接種したし。
「…薬飲んでいこう」
もぞもぞとベッドを出て市販の風邪薬に手を伸ばす。
インフルエンザなら休まなくてはならないが、ただの風邪で休んでなどいられない。
今日は現国の小テストがあるし。(どうせ全員白紙だろうけど)
もし今日も全員遅刻してきたら私も帰って来よう。
病院はそれからだ。
体がだるいと全ての動作がスローになる。
早く起きたつもりが結局いつもと変わらぬ時間になってしまい、
弁当を作る暇などなくまたカロリーメイトを牛乳で流し込んで足早に家を出た。
(………で)
「…こういう日に限ってみんなちゃんと来るっていう」
教室に入ると今日はちゃんと生徒がいる。
それが当り前なのだが、生憎この学校に赴任してから教育の「当り前」は通用した試しがない。
「じゃあテスト配ります。時間は30分。カンニングは当然禁止。
携帯電話の使用も禁止。終わっても勝手に立ち歩かない。以上」
テストを配り、始業のチャイムを待つ。
「始め」
チャイムと同時に一斉に紙を裏返す音がする。
よしこの30分はのんびり出来るぞ、と思い教卓に座った10秒後
「先生」
正面の一番後ろの席で神威が手を挙げた。
「何?」
「終わったよ」
「……名前しか書いてないでしょ」
「うん。だから終わった」
「ちょっとは問題読むフリとかしようよ!一応私が一生懸命考えた問題なんだけどな!?」
「先生」
「今度は何!」
今度はその横で阿伏兎が手を挙げる。
「自分の名前が書けないんだけど」
・・・・・・・・・
「……待って今黒板に書くから」
(アタマ痛い……)
このクラスが学校で一番問題クラスなのも知っている。
8浪している生徒がいるのも知っている。
でもちょっとこれは酷過ぎやしませんか。
黒板に大きく「阿伏兎」と書いている途中でチョークを持つ手が止まってしまった。
焦点が合わなくなってきた。
「兎」という漢字にゲシュタルト崩壊を起こしそうになる。
兎ってこういう字だっけ?っていうかなんでこういう形なんだっけ?
昔の人は人や動物の姿形を漢字にしたなんて言われてるけど、兎って全然うさぎっぽくない漢字だよね。
兎うさぎウサギUSAGI…
ゴン!!
つまらなそうにテスト用紙を眺めていた生徒の視線が一斉に黒板に向けられる。
は前のめりになって黒板に頭突きをかまし…
そのままスライドして床にぶっ倒れた。
兎が一匹…兎が二匹…兎が三匹…
「…生」
「先生」
うすらハゲの兎が…
「…ごひき…」
「…寝ぼけてんのか?相当熱あるな…」
眉をひそめるうすらハゲの頭が、斜め上に見えた。
ばちっと目が覚めて勢いよく起き上がる。
「ここどこですか…」
「保健室に決まってんだろ」
「テストは…!?」
「とっくに終わったよ。今昼休みだ」
未だぼんやりしている頭が何とか働き始めて状況が整理出来てきた。
見慣れないこの部屋は赴任からまだ一度も来たことのない保健室。
つまり自分が寝てるのは保健室のベッドで、
自分はテストの途中でぶっ倒れて、かれこれ3時間以上眠っていたということだ。
「…やっちまった……」
両手で顔を覆ってひたすら後悔する。
まさか生徒の前でぶっ倒れるなんて。
「アンタ今日はもう帰れ。風邪流行ってるしな」
「…すいません…ご迷惑おかけしました…」
「生徒にも礼言っとけ。アンタをここまで運んできたの、Ω組の生徒だからな」
・・・・・・・
「うそだぁ!!!!」
「嘘じゃねーよアンタどんだけ生徒のこと信用してねーんだ」
信用出来るかあんな生徒。
「じゃあ俺は仕事戻るから。気をつけて帰れよ」
星海坊主はそう言って保健室を出て行った。
「……………」
もぞもぞとベッドを出て帰り仕度を始める。
どうやら星海坊主が職員室から荷物を持ってきてくれていたらしく、
コートやバッグがベットの横に置いてあった。
コートに袖を通すと皮膚が粟立つ感覚がある。
やはり相当熱が上がっているらしい。
職員用玄関を出て通勤に使っている自転車を取りに行こうと駐輪場に向かうと
「大丈夫?先生」
駐輪場のフェンスの上から声が降ってきた。
気だるく見上げるとこちらもなぜか帰り仕度を整えている神威がフェンスの上に座っている。
「…あんまり大丈夫じゃない…」
「はは、だろうね。あんなに派手にぶっ倒れれば」
神威はそう言ってフェンスの上から降りてきた。
元はと言えばお前らのせいだろ。
そう言って怒鳴りつけたくなったが生憎そんな体力が残っていない。
「さ、帰ろ」
「え、ちょ、帰るって何で!帰るの私だけでしょ!!君は学校残りなよ!!」
神威はの自転車を我が物顔で移動させて先を歩いて行った。
は慌ててその後を追う。
「俺も帰るよ。学校いてもつまんないし、先生いないと学食食べれないし」
「…神威君ほんと何のために学校来てるの…」
「暇つぶしとご飯食べるため」
「…………」
教師ってなんだっけ。
ふいにそんな原点に帰りたくなるようなことを考えた。
「…いいよ…自転車、自分で押せるから」
「そうじゃなくて、これ借りるから」
「借りるって…」
「阿伏兎たちとゲーセンで待ち合わせしてるんだ。これの方が速いし」
そう言って断りもなしにサドルに跨る。
ふらふらの自分を見かねて代わりに押してくれていたのかと思ったらとんだ見当違いだった。
つくづく期待を裏切るのが得意な男である。
「…ああそう…じゃあ明日にはちゃんと返してよ…」
「乗ってかないの?」
神威は首を捻って後ろを振り返る。
は思わず目を見開き、すぐに眉をひそめた。
「いいよ…何その風の吹き回し…」
「どうせこのまま病院行くんでしょ?明日も先生に来てもらわないと、日替わり定食食べられないし。
風邪なんかさっさと治してよ」
わぁ理不尽。
心配されないけど早く治せって急かされるのは切ないなぁ。
「いや、ちゃんと病院には行くから…教師と生徒が二人乗りなんて見つかったら問題に…」
「あのさぁ」
「俺こういう埒の明かない押し問答って嫌いなんだよね。
自転車と縄で繋いで引き摺り回されたくなかったらさっさと乗って欲しいんだけど」
何で良心を脅しに変えるのこの子!!!!!!
しかも満面の笑みで!!!!
「………………」
熱くてぼーっとしていた頭が一瞬で冴えた。
きょろきょろと周りを見渡し、周囲に人がいないことを確認する。
ただでさえ二人乗りは禁止なのに教師がそんなことしたら減給処分ものだ。
「……お、お邪魔します……」
自分の自転車なのになぜか断りを入れてキャリアを跨いで座った。
昔は友達とこうして二人乗りをした覚えがあったけど、
大人になってから自転車のこの部分に乗るのって貴重な体験だなぁ。
そんなことを考えていると、掴まる暇もなく自転車は急発進した。
立派な刺繍の入った長ランに掴まるのはさすがにやめようと思い、キャリアの僅かな隙間に掴まって何とかバランスを保つ。
…あ。風が気持ちいいかもしれない。
火照った頬や額を冷やす北風はいつもなら刺すように痛くて耐えられないのに今は丁度いい体感温度だ。
「…私を保健室に運んでくれたのって、神威君?」
「そうだよ。適当に担いで適当に保健室のベッドに放り投げただけだけど」
…放り投…
そういえば起きた瞬間に節々の痛さ以外にも腰やらお尻に痛みがあったような。
商店街に続く緩い坂道で冷たい向かい風が目の前の長い三つ編みを揺らした。
放物線を描く紅梅色はちょっと綺麗で、ちょっとだけ春を感じた。
「先生あんまり食べないのにそんなに軽くないんだね」
「女はちょっとふくよかな方がモテるんだよ」
「ふぅん、先生がモテてるようには見えないけど」
「・・・・・・」
青空と、目の前の紅梅色と、程よく火照った体温がなんだか春だと錯覚してるみたいで
とろんと眠気が襲ってきた。
駄目だ寝たら死ぬ。
今私の命綱は辛うじてキャリアに掴まってる自分の指だけなのだから。
もし寝こけてキャリアから転げ落ちてもこの運転手はそのまま放置して行っちゃうぞ。
「…明日の学食……何がいいか考えといて…」
ああだめだねむい
キャリアを掴む力が徐々に緩くなって重心が前に傾く。
堅い背中にぼふっと衝突して意識が途絶えた。
「うん、考えとく」
僅かに後ろを振り返ったように見えた横顔も、確認できなかった。
結局インフルエンザではなく、疲労で免疫力が落ちたことによるただの風邪だと言われた。
注射して半日寝てたらすっかり治ってしまった。
(一日くらいゆっくり寝てたかったなぁとは言うまい)
翌日
「なんだこれェェェェえええええええ!!!!」
「何って、先生の自転車」
徒歩で登校したら駐輪場に見慣れぬ自転車が一台。
ハンドルはカマキリのように高くなり、逆にサドルがかなり下がっている。
ママチャリ用のベルはホーンに取りかえられてカゴも無くなっていた。
ライトは3色に点灯し、ハンドルの中央にも大きなヘッドライトが取りつけられている。
完全なヤンキー仕様の自転車だ。
「遅いしダサかったから改造しちゃった」
「しちゃったじゃねェェェェえええええええ!!!!!」
夜兎は風邪とか引かない。と思ったら神楽ふつうに引いてたな・・・
ヒロインが不憫だというお声を頂いたのでちょっとスキンシップに挑戦したら
更に不憫な結果になりました。神威に自転車がクソ似合わない。
バイクも似合わない。何も似合わない(^q^)