京の花街は今宵も賑わう。
幕府の手の届かないこの街は吉原に比べどこか落ち着いていて、
それでいて街を照らす行燈の華やかさは全く引けを取らない。
あちらこちらで聞こえる京弁がその華やかさを際立させているのもあるが、
客の多くが侍りのいい天人ということもあり、どの店もひっきりなしに客が連れて出入りしていた。
そんな花街の一角、歴史を感じさせる大きな木造の店にその遊女はいた。
透き通るような白い肌をわざと肌色の粉で隠し、鮮やかな着物に身を包んで座敷に座っている。
目の前に座る大柄な天人の客を前に1人しゃんと背筋を伸ばして正座し、猪口へゆっくりと酒を注いだ。
「なぁ」
酒をぐいと飲み干し、天人が口を開く。
幕府と繋がりがあると思われる大柄な天人が1人、新規なのに自分を指名してきたことに最初から違和感を感じていた。
はそんな違和感を隠して顔を上げ、首をかしげる。
「アンタ、夜兎だろう?」
卓にカツン、と音を立てて猪口を置き、を見てにやりと笑う。
だがは表情を崩すことなく柔和な笑みを浮かべたまま反対側に首をかしげた。
「夜兎って、あの戦闘民族の?嫌やわぁ、あんな野蛮なのと一緒にされちゃあ敵いませんえ」
肌が白いからでしょう、と笑った瞬間、天人が手首をつかんできた。
動きを制止させると反対の手での顔に掴みかかる。
「誤魔化そうったってそうはいかねぇ。御苦労なこったなァ?
わざわざ肌の色を隠して」
天人はそう言って親指でぐいとの頬を強く擦った。
獣の褐色の指に肌色の粉が付着して、その下の白い肌が曝け出される。
「傘ァどこだ?どっかに隠してんのか?それとも使えなくなったからこんなトコにいんのか?」
の顔を掴んだまま天人は辺りを見渡す。
それでもまだの顔から笑顔は消えていなかった。
天人は再び顔を近づけ、息のかかる距離でにやりと笑う。
「俺ァ文字通りアンタを買うぜ。夜兎でしかも遊女なんてプレミアもんだ!
うまく飼い慣しゃ俺もこの先…、、」
獣臭に一瞬眉をひそめた刹那、その吐息は途切れて嗚咽に変わる。
「…ぉ…、ァ……ッ」
金魚のようにぱくぱくと口を開閉させる天人の背中から細く白いものが突き出て、
その先からツーッと赤い液体が滴ると新しい畳に落ちて弾けた。
自分の胸を貫いたものが目の前の遊女の右腕だったなどと気付くはずもなく、天人はそのまま息絶えたようだ。
腕を引き抜くと大量の血が噴き出し綺麗な肌と着物を汚したが、は一瞬目を細めただけで微動だにしない。
どさりと後ろに倒れた天人よりも汚れた自分の右腕を気にして、反対の着物の袖でごしごしと擦ったがきれいになるはずもない。
数秒遅れて倒れている天人に目を向けると、少し悲しそうに肩を落とした。
「……ごめんなさい」
掠れた声で呟くと素早く着物の帯を解いてその場に脱ぎ捨てた。
"どんな人生であれ"
"最後は笑顔で送ってすこやかに死なせてやらないとね"
「………無理だよ」
ヴェロニカの血肉-前編-
外に出ると冷たい秋風が化粧を落とした素肌を冷やした。
重たい着物を脱いで店を出るのは久しぶりで、その身軽さに少し違和感を感じながら右手に携えていた傘を開く。
紺色の傘が頭上を覆うと背後から遠く聞こえる喧騒も少し和らいだような気がした。
そんな表通りから離れて裏路地を歩いていると、突き当たりから高い影がのっそりと顔を出す。
は立ち止り全身を強張らせてその影を睨みつけた。
「よォ」
傾いた傘の向こうから聞き慣れた声。
そして見慣れた顔。
「…阿伏兎」
その顔を見た瞬間の険しい表情が緩む。
「しばらく会わねぇ間にまた女上げたな。
売れっ子遊女がそんなナリでこんな所を歩いてるってこたァ…
どうやら足洗ってきたらしいな」
の井出達を見て阿伏兎は僅かに目を細めた。
が着ているのは綺麗な着物ではなく藍色のチャイナ服。
化粧っ気はなく、いつも簪で飾っている長い髪は肩のあたりで1つに結わえられている。
は暗い表情で阿伏兎に近づき、2人は自然と並んで路地を歩き始めた。
「…お客1人殺しちゃった」
阿伏兎はそれを聞いて目を丸くする。
・ ・
普通ならば全く驚くことのないことだ。
夜兎に殺した理由を聞くこと自体が愚問だからだ。
腹が立ったから殺す
邪魔だから殺す
目についたから殺す
欲しいから殺す
殺したいから殺す
だが彼女はどのケースとも違う。
誰より自分の中に半分流れる夜兎の血を嫌い、誰よりその血が自分を動かすことを嫌う。
「…なんでまた」
だから問いかけてしまった。
「…あたしが夜兎だって気付いて、文字通りあたしを買うとか言いだしたから」
だから…と言っては黙り込んでしまった。
「店は?」
「…多分、今頃大騒ぎだと思う。
迷惑かからないうちに…出てきた」
さっきから表通りが騒がしいのはそのせいか。
阿伏兎は納得した。
見下ろすの表情は弱々しく、客を殺したことを後悔しているように見える。
…これが彼女の本来の姿だ。
あの男と話す時だけがあのような態度をとる。
「何故」と聞いたら「アイツに飲まれるのが嫌だから」と言っていた。
阿伏兎も彼女との付き合いが長いわけではないが、同胞に敵視されるよりはこうして気を許してくれた方が楽だ。
「…アンタは何でここにいるの?アイツの命令で来たんなら帰って」
が再び口を開く。
「命令とはちょっと違うな。別件で近くを通ったから寄ってみただけだ。
団長が説得に失敗したっつーからよ」
「……あんなの説得じゃないよ」
先日のことを思い出したのかの眉間に濃い皺が刻まれていく。
阿伏兎はそんな彼女を横目に見ながら浅い溜息をついた。
どんなやりとりがあったのかは知らないが、とりあえず穏便な話し合いでなかったことは確かだ。
はしばらく黙りこんでから右隣を歩く阿伏兎の肩をチラリと見た。
「……腕どうしたの」
並んで歩いて既に5分が経過。
はようやく阿伏兎の左腕の異変に気付いた。
だらんと垂れさがったチャイナ服の袖。
その中に逞しい腕は存在しない。
阿伏兎は自分の左肩を一瞥してはぁーっと深いため息をついた。
「吉原でちょっとな。ったく、団長と一緒にいるとロクなことがねぇ」
そう言って傘の柄を脇に挟みながらひらひらと揺れる袖を撫でる。
はそれ以上のことを聞くことはしなかったが、
この男が片腕を失くすのだからよほどのことがあったに違いない。
…そして原因の9割があの男にあることも予想がついていた。
「つーか、お前吉原でよく鳳仙に見つからなかったな。
同胞が地球人に混ざって遊女なんかしてたらすぐ始末されんぞ」
「…簡単な話だよ。鳳仙の相手をするのはある程度位を持った遊女だからね。
適度に悪態ついて位を上げなきゃいいってだけの話」
はさらりと言って退けた。
阿伏兎は目を丸くしてしばらくぽかんと口を半開きにする。
…その位を上げることに遊女がどれだけ苦労していることか。
だが彼女にとってそれは容易なことなのだろう。
(…仕事をしているところを見たことはねぇが…それなりなんだろうな)
今こうして化粧気のない姿をしていてもそれなりに見えるのだから、
化粧をして綺麗な着物を身にまとえばかなり客がとれる遊女になるだろう。
「お前ならいつでも地上に戻ってこれただろう。自警団なんざ皆殺しにしてよ」
「あたしは地球人は殺さない」
阿伏兎の言葉をきっぱりと否定する。
「遊女も殺さない」
それは自分も半分地球人で遊女だったからか?と問いかけようとしたが、やめた。
妙なポリシーを持っているあたりが上司を彷彿とさせる。
「…これからどうすんだ?もう花街にゃ戻れねぇだろ。
行く充てなんかあるのかよ」
そして話題を本題へと移す。
「…どうにかするよ。これまでだってどうにかなってた」
は阿伏兎の予想通りの答えを返してきた。
神威から聞いた話では、彼女は神威から少し遅れて星を出ると親に売られたフリをして吉原に紛れこんだのだという。
あの鳳仙といえど毎日何十人と売られてくる女を1人1人把握しているわけではないだろうから、
これまで彼と接触することなく吉原で過ごしてきたのだ。
吉原を選んだ理由は簡単。
「傘が要らなくて楽だから」。
混血といえど太陽の日差しに弱い体質故に納得は出来るのだが、
そのために自由を捨てて身体を売って生きていく生き方を選ぶとは何とも奇特な話だ。
「上はお前を欲しがってる」
阿伏兎は思い切って直球をぶつけた。
は一瞬歩く速度を緩め、睨むように阿伏兎を見上げる。
「混血でも?節操ないんだね春雨ってのは」
「混血だろうが何だろうが、奴らは夜兎を従えてるっつー肩書きが欲しいのさ」
こつこつと響く靴の音の中に阿伏兎の呆れたような声が交った。
「あたしは誰にも従わないし、誰ともつるまない。
上とやらにそう言っておいて」
「…俺に殺されろってのか?」
阿伏兎は立ち止って心底嫌そうな顔での背中を見た。
が立ち止まらないので再びその後を追うことにする。
「…平和に暮らしたがってるお前に言うのは酷だけどよ。
客1人殺して平然としてる時点でもう後戻りできねぇよ」
「お前も分かってんだろ?お前の中にある夜兎の血が、地球人の血を完全にかっ食らっちまってんのが」
阿伏兎がそう言うとの靴の音がこつ、と遅くなった。
「……それでもあたしは半分地球人だもん」
傘の下にすっぽり顔を隠して弱々しく呟く。
…地球人は素手で天人の胸を貫いたりしねぇだろ。
阿伏兎は再び思ったことを口に出すのを止めた。
「…アンタたちとは違うもん…」
ついに立ち止まって、傘の柄をぎゅっと強く握り締める。
阿伏兎も立ち止まっての傘を見下ろし、ふーっと溜息をつきながら傘の柄を肩にかけてその手で頭を掻いた。
彼女は気付いていないのだ。
客1人手にかけて、それでも平和に生きたいと願っている自分の矛盾がどれだけ狂気に満ちているか。
彼女は気付いていないのだ。
その狂気が、どれだけあの男を喜ばせているか。
「…団長はそうは思ってねぇはずだ」
阿伏兎としてはに春雨に来て貰った方が助かるというのが本音だ。
同胞とは敵対したくないし、彼女が来てくれれば団長も少し落ち着いてくれるかもしれない。(まず期待は出来ないだろうが)
「半分だろうと何だろうと、お前の中に流れる夜兎の血は消えねぇんだ。
お前の親みてーにどっかの蛮族と一緒になりゃ、そのうち薄れるかもしれねぇがな」
「…あいつと同じこと言うんだね」
は諦めにもにた表情で阿伏兎を一瞥すると再び歩き出した。
阿伏兎も少し遅れて歩き出す。
「……あいつが、純血と混血の間に子供が出来たらどうなるんだろうって」
ゴン
の話に気を取られた阿伏兎は正面に迫っていた電柱に勢いよく衝突した。
大して痛くはなかったが、僅かに赤くなった額を押さえてを見下ろす。
(…なんちゅーことを言うんだあの馬鹿は)
仮にも遊女相手に。
「…あいつがあたしを殺さないのだって、あたしが夜兎の血を引いた女だからだ」
半端に持った戦闘能力と、子を孕む雌という性別がこの命を長生きさせている。
はふいに顔を上げて阿伏兎を見上げた。
急なことだったので阿伏兎は思わず身構える。
「……阿伏兎あたしを殺してくれる?」
阿伏兎は一瞬目を見開いたが、それを聞いてすぐに脱力しながら首を横に振った。
「馬鹿言ってんじゃねーよ。言っただろうが、共食いは嫌いなんだ」
「混血でも共食いなの?」
「夜兎の血が一滴でも混じってりゃ共食いだ」
果たしてそうだろうかと自分でも思いながら阿伏兎は再び頭を掻く。
もはや口癖にもなってしまったそれは残り少ない同胞をこれ以上減らしたくないという思いから言ったつもりだったが、
の解釈は違ったようだ。
「だったらあいつの子供産むからそしたら殺して」
「、」
この言葉にはさすがにぎょっとして目を見開く。
だがは暗い表情のまま淡々と続けた。
「…その子供も殺して終わりにして」
「この世にどんな強い子供が生まれてきたって、
どうせみんなアイツに殺されちゃうよ」
綺麗なはずの碧眼は淀んでいる。
阿伏兎は眉をひそめてその顔を覗き込んだ。
「………お前頭大丈夫か?」
「…あまり大丈夫じゃない」
ごめん変なこと言った、と自己嫌悪に陥ったように頭を押さえる。
「…あいつ、昔はあんなんじゃなかった」
ぽつり、弱々しい声がここにはいない男のことを呟いた。
「昔はもっと下々の人間に優しかったってのかい?
そりゃーぜひとも昔に戻ってもらいたいもんだ」
はふるふると首を横に振って顔を伏せる。
「…昔は、もっとちゃんと…」
『』
遠い記憶の中に残っている笑顔は
今と大分違って見えていた気がする。
すると
「あぁーいたいた」
突如割って入ってきた第三者の気配と声。
それを聞いたはびくりと肩を強張らせて勢いよく振り返った。
阿伏兎も「やばい」と心の中で舌打ちをしながらゆっくりと振り返る。
細い路地に番傘が3つ。
夜風になびくくすんだ白いマントと紅梅色の三つ編み。
行燈の灯りに照らされて傘の下から覗いた純白の肌を見て、の表情が一瞬で険しくなった。
「…神威………っ」
To be continued
前編オール阿伏兎(笑)