紅月は微笑う










しとしとと降り続く雨が瓦屋根を伝って落ちていく音は朝から止むことがない。

いつもは客で賑わっている花街の路地も今日はひっそりとしていて、

店に横付けされた黒いリムジンから降りてくる客の足音がやけにはっきり聞こえる。

降りてきた幕吏たちは遊女の傘に出迎えられ、楽しそうに店の中へと入っていった。

店の2階では1人の遊女が障子を開け放してその様子を眺めている。

雨だというのに障子の縁に腰をかけ、長い裾を左右に分けて片足を縁に乗せながら遊女とは思えぬ

格好でぼんやりと外の行灯を見つめていた。

今日は大きな宴会もない、予約客まではまだ時間がある。

忙しくなる前にゆっくり休んでおかなければ。そう思っていた矢先


「ご指名だよ、


本名でもある源氏名を呼ばれ、はゆっくりとその視線を障子に向けた。

「はい、すぐに」

返事をして両足を畳に着き、障子を閉める。

裾を直しながらすぐ傍の全身鏡を一瞥して、紅が崩れていないことを確認するとすぐに部屋を出た。

廊下を進んだ突き当りの上等な客室。

既にその入り口には座敷持の遊女が出入りしていたが、

なぜか彼女は慌てた様子で空の桶を持って出てきた。

それは大勢の客が来て宴会をした際に出す米桶で、米が5合分は入るのだがそれがもう空だなんておかしい。


(------------まさか)


嫌な予感がよぎると自然に早足になる。

「…あっ、さん…!すみませんあのお客さんもう1人で10合も…!」

指名を受けたを見るや遊女は桶を抱えて走ってきた。

はそれを聞いて自分を指名した客がピンと頭に浮かんだ。

「後は私がやるから下がっていいよ。ご苦労様」

はそう言って下位の遊女に声をかける。

遊女は少し困ったように目を泳がせたが、の言葉を聞いて「はい」と頷き、

頭を下げると自分の持ち場へ戻っていった。

は僅かに障子が開いた部屋を睨み、いつもは客間の前で正座するのだが仁王立ちのまま障子を開けた。


「やあ」


だだっ広い広間の真ん中に若い男が1人。

それはまさにが予想していた人物だった。

真珠色の肌に紅梅色の髪

長い襟足を三つ編みに結わえた男は、米桶に顔を突っ込むような姿勢だったが

を見てにこにこと無邪気な笑みを浮かべた。

は後ろ手で障子を閉め、男の前に立つ。



「……何しに来た神威」



先ほど遊女に向けた口調や表情から一転、男に全身で嫌悪感をぶつける

「遊郭に来たらヤることは決まってるだろ。

 君を買いに来たんだよ」

「馬鹿言うな。あたしを買う気なんかないくせに」

桶を空にした神威はそう言って笑顔のままを見上げたがは即座にそれを畳み掛ける。

遊郭に来るのは遊女を買いにくるからでそれ以外に目的などないはずなのだが、

はこの男がそんな目的でわざわざ花街に来たのではないことぐらい分かっていた。

「やだな、もう金払ってきたから一応君を買ったことにはなってるよ。

 吉原にいた頃より高くなってるよねぇ、出世したってこと?」

ケラケラと笑いながらの前にドサリと札束を積み上げる。

どう見ても二十歳前後の青年が持っているにはあまりに不釣合いな額だ。


「-----帰れ。何度言われようとあたしはお前らと組むつもりはない」


はそんな札束に見向きもせず、踵を返して神威に背を向けた。

「そうカリカリしないでさ、払った分の酌ぐらいしてよ。

 俺1人のために人気落とすの賢くないと思うよ」

神威はそう言ってにっこりと笑うと、卓の横に置いてある徳利を持って横に振ってみせる。

は立ち止まり、僅かに視線を後ろへ向けた。

自分がこの部屋に来るまでこの男を接待していた座敷持の遊女は、恐らくこの男の正体など知らないだろう。

若いのに随分気前のいい客だと思ったに違いない。

だがはこの男の兎のような肌と髪のコントラストが忌々しくて仕方なかった。

「…………………」

はちっ、と舌打ちをして長い裾を翻し、卓の横へ正座する。

その仕草にたおやかな遊女の姿は消え失せていたが、

神威は満足したように「そうこなくちゃ」と笑う。

今まで手をつけなかったのか徳利の中はいっぱいで、

が猪口いっぱいに酒を酌んだが神威は最初の一口しか口をつけなかった。


「…吉原の一件から行方を眩ませたと思えば…まさか京まで流れてきてるとはね。

 探すの苦労したよ。ま、ここを突き止めたの俺じゃなく阿伏兎なんだけどさ」


神威と行動を共にする同族の男の名前を聞き、は顔を上げて男の横顔を見る。

向こうの風景が透けてしまいそうなほど白い肌は、

化粧を落とした自分の素顔とまったく同じ色だった。

「いくら血筋半分ったって君がこんな穴倉生活してるタマかい?

 白粉なんかいらない肌にわざわざ色つけてさ、確かに傘はいらないけどこんな生活つまらないよ」

「……お前には関係ない。いい加減部下を扱き使って動く癖をやめろ」

徳利を乱暴に盆へ戻し、ため息をついて神威を睨んだ。

だがそんな睨みも暖簾に腕押し。

神威は腰の横に両手をついて少し姿勢を後ろへ倒す。

「相変わらず強情だなぁ、そんなに自分の血が嫌いかい」



「そんなに憎いかい、母親を殺した父親が」



伏し目がちに畳を見ていたは目を見開いて神威を見る。


は夜兎族と地球人の間に生まれた子供だ。

純血の夜兎族である父と、ごくごく普通の地球人である母。

母はが10になる前に死に、父もまた時を同じくして死んだ。


「でもそんな父親を殺したのは君だろ?」


神威は瞳に動揺の色を見せるに追い討ちをかける。

「……黙れ」

「恥じることも気負うこともないよ。それが俺たちの血なんだし。

 従って生きればいい」

言葉を紡いだ神威の喉に鋭く尖れた爪がピタ、と突きつけられた。

は鋭い目つきで男と睨むが、神威は笑顔を全く崩さずケラケラと笑う。


「-----純血の俺と混血の君の間に子供が出来たらさ、

 夜兎の血ってどうなるんだろうね?」


無邪気な笑みを浮かべ、突然とんでもないことを言い出す神威を見ては眉をひそめた。


「…何を言っている…?」

「純血とまでいかなくても相当強いかも。

 ちょっとそれ興味あるなぁ、女の夜兎は少ないからねぇ」


この男が言うと全く冗談に聞こえない。

全身の神経を尖らせ、いつでも懐から脇差を抜けるように警戒していたつもりだったのだが




「試してみる?」




気配なく頭の後ろから自分と同じ真珠色の腕が伸びてきて、

綺麗に髪をまとめ上げた項を乱暴に引き寄せた。

近づいてきた唇が噛み付くように紅を覆い、吐息を漏らす暇のなかったは息を呑む。

これまで仕事柄幾度となく交わしてきたその行為は、

その瞬間だけ大きく胸を打ってとてつもない悪寒を誘った。

自分の紅が擦れる感覚にカッと逆上したは本能的に覆われた唇に歯を立てる。

相手の唇を噛むぐにゃりと柔らかい感触の後

「ッ」

遅れて自分の口内にも鋭い痛みが走る。

は咄嗟に両手を押し出して神威を突き飛ばした。

だが華奢な男の体は僅かに後ろへ動いただけで、突き飛ばしたの方がよろけてしまった。

下を向いた瞬間口からパタリと畳に垂れた血。


「…あぁ、噛んだの唇の裏だから。

 大事な商売道具に傷はつけてないよ?」


神威はそう言って笑い左の口端から滲む血を手で拭う。

が口元を拭いながら舌で唇の裏を探ると、

確かに血は唇の裏側から滲み出てきていた。


「-----潤ったかい、久々の人の血で」


畳に手をつき、身を乗り出して再びの顔を覗き込む。

「君のいるべき場所はここじゃない。

 そんな外装剥ぎ捨ててさ、血まみれになって生きるのがお似合いだよ」


「お似合いっていうかさ、そういう宿命なんだって。

 どうするの、そんなナリで。
 
 自分の親と同じように地球人と子供でも作って忌々しい血筋を途絶えさせるつもりかい?」


相変わらずにこにこと笑みを浮かべたままだが、

その右手はの髪をぐいと強く引き寄せた。




「身の程を知りな」




こめかみに爪が立てられる。


「それとも総てに抗った結果俺に喰われるのが望みかな?」


細められていた目が開き、碧眼がを射抜いた。

口元は笑っているが恐ろしい程綺麗なその碧眼からは殺気しか感じられない。

はこめかみに脂汗を滲ませながらその細腕を掴む。



「……っ喰われるものか……」



長く整えられた爪に力をいれると切っ先が肌に食い込んでいく感触が不気味なほど直に伝わってきた。


「あたしはお前にも夜兎の血にも喰われたりしない…!」


真白の腕に5本の赤い線が浮き出てきて、

それは力を込めるとミシリと音を立てて皮膚の内側から血が流れてくる。


「…殺りたきゃいつでも殺りにくればいい。あたしだってお前を喰う準備ぐらい出来てる」


はそう言って懐から脇差を抜いた。

瞳孔が完全に開き、蒼い眼を剥く表情から遊女の姿は消え失せている。

彼女は今この瞬間自分が夜兎の顔をしていることなど気づいていないのだろう。



(--------似合わない)



彼女にこんな、彼女の全てを否定するような着物は。



「…喉が渇いたらおいで。いつでも歓迎するよ。

 再就職先なんかいくらでもあるからね」



反対の手での細い手首を掴んで引き離し、腕に流れる5本の血をぺろりと舐めた。

「金払ったしどっから出てってもいいよね。

 遊女に見送られるのって嫌いなんだ。なんか下品じゃない?」

そう言って立ち上がると壁側の障子を開けて片足を縁にかける。

…卓に詰まれた札束の方がよっぽど下品というものだ。



「じゃあね。あ、紅は早く直した方がいいよ」



振り返って右手を上げ、最後までにこにこと笑顔を貼り付けたまま2階から外へ飛び降りていった。

「……っ神…!」

思わず腹から声が出たが、言いかけた名前の主は既にその気配を雨にけぶらせている。

自分と相手の血の味が混じる口内で奥歯をかみ締め、

未だ肉の感触が消えない右の爪で畳を引っ掻いた。






擦れた紅も、乱れた髪も




どうでもよくなっていた。







「…どうだった?じゃじゃ馬の説得は」


止む気配のない雨の中、店を出てほどない路地に上司を待つ阿伏兎の姿があった。

晴天の日なら目立ってしょうがないその傘は、今はこの街並みに同化している。

「てんで駄目。相変わらず強情だったよ。

 前に会った時と全く変わってない」

「勿体ない」と肩をすくめて笑う神威と並んで歩きながら、阿伏兎も少し前に会ったの顔を思い返した。

常に笑顔を絶やさない神威とは対照的に普段全く笑った顔を見せない

神威とは昔からの幼馴染だと聞いたが、2人が一緒にいて会話がうまく進んだ試しはない。

「何だって京まできてまた遊女なんかに落ち着いてんだか。

 確かに吉原がああなる前は日傘いらなくて楽だったけどよ。

 女の考えることはよく分からんね」

阿伏兎はそう言って顎を掻き、欠伸をした。

そうとう長い間ここで上司を待っていたのだろう。

「さぁ…昔から何考えてんだから分からない奴だからなー

 そもそも俺人を説得するのって苦手なんだよ。

 力ずくで黙らせるのは得意なのに」

それを言うならアンタだって何を考えているのか分からない。

勿論阿伏兎はそれを口にしなかった。

おっかないねぇ、と苦笑しながら横目で神威を見ると

色素の薄い唇の左端に血が滲んでいるのが見えた。

大した傷ではないようで既に治りかけているようだが、唇には血とは違う人工的な赤も混じっている。


(…結局力ずくで黙らせてきたんじゃねーか)


隣に聞こえないように浅くため息をついた。

彼女のブチ切れている姿が想像できる。


「----あ。高い金払ってきたんだから一発ヤってくりゃよかったなー」


「…勘弁してくれ」

にこにこと笑いながらとんでもないことを吐く上司の横で

阿伏兎はため息をつきながら額を押さえた。






2色の紅に濡れた唇が、三日月型に釣り上がる







初神威。神威夢を書こうと思ったとき、18禁どころじゃなく20禁くらいに
しないといけないんじゃないかと焦ったんですが冷静になったらどうにか形になりました。
(兄ちゃんを何だと思ってるんだ)

最近ぱったり出番のない高杉に代わって徐々に熱が来てます神威。
アブが書けて満足です。次は阿伏兎夢書きたいなー