白雨と書いてミルクシャワーと読む。








「…よく聞け。こんなどんよりとした空気、どんよりとした空、どんよりとした俺の声で

 更に悲しい話を聞かせられるのかと鬱になるかもしれんがまずは聞け。聞いておいた方が身のためだ…

 いや、この声は生まれつきだ。何年か前に声変わりを終えてからずっと俺はこの声で人と会話しているわけだから

 自分でどんよりとしたと表現するのは聊か心苦しいわけだが俺の声帯などこれからする悲しい話に比べれば取るに足らない…」


シカゴの某埠頭

6月に入ってから続く猛暑にいつもの廃工場は蒸すような暑さだ。

ただでさえ鬱屈としたこの空間を更にどんよりとさせる声が集まっている一同をうんざりさせる。


「ここは酷く暑い…暑いならば外に出て涼めばいいのだろうが外は更に暑い…

 おまけにもうすぐひと雨来そうな空じゃないか…ここはイチかバチかの賭けに出て

 太陽の日差しに耐えつつ恵みの雨に当たるため外に出てみるという手はどうだろう…?

 運よくそこで雨が降ったら俺の勝ち!いや天の勝ちか?天気とギャンブルなんて神気分になれてお得じゃないか!

 すげえ、さっきまで暇だ暇だと項垂れていたのにここで一銭も遣わずギャンブル出来る方法を思いつく俺すげえ」

「そうですね、この暑さでそんな下らないことに頭が回るグラハムさん凄いです」

「よし褒めろ、もっと褒めろ。……褒めたのか?今」


ドラム缶の上に座って頭上でぐるぐるとレンチを回すグラハムを前に

シャフトは真顔で冷静な切り返しをした。

レンチを回して起こる微風で一人涼んでいたが、工場自体がむわっとした熱気に包まれているので

巻き起る風も徐々に生温くなってただ熱風を掻き回しているだけだ。


「確かに、ひと雨来そうな空ですね」


シャフトは割れた窓から外を見る。

日差しはあったが雲は鉛色で分厚く、合間から吹きこんでくる風は湿っている。

「…っていうか…もう降ってきました」

仲間の一人が入り口から外を覗きこんで呟いた。

低い男の声の他に物音がしなかった工場に、雨が屋根を打つ音が聞こえてくる。

最初はぽつ、ぽつ、と弱い雨脚だったが、十秒と経たずに激しく屋根を打つ轟音に変わった。

「…なんてことだ…ギャンブルを始める前に俺が負けてしまうとは…

 人間が逆らうことのできない天道とギャンブルしようなんて考えた俺への見せしめか…?

 つまりこの雨は俺のせい…!今この瞬間!この街のどこかで!突然の通り雨に見舞われて

 体を濡らしている人がいたら俺はその全ての人々に謝らねばならない!

 この通り雨は俺が神に喧嘩を売った罰だと…!!」

「そうっすね、みんなも外れた天気予報を恨むよりはグラハムさんを恨んだ方が心は晴れるでしょうし」

「そうか…俺にシカゴ市民の恨みをに受けとめるだけの気概があるだろうか…
 
 いや、受け止めてみせると今ここに断言し、」



「…あっ、よかった。いたいた」



突如男のグラハムの声を遮った女の声。

一同はいっせいに工場の入り口を振り返る。

グラハムも振り回していたレンチをぴたりと止め、聞き慣れた声がした方向を見た。

さん!ずぶ濡れじゃないすか!大丈夫ですか!?」

ドラム缶に座っていたグラハムより先に口を開いたのはシャフトの方だ。

入り口には廃工場には不釣り合いの小奇麗な女が立っている。

全身ずぶ濡れで胸の前でバッグを抱え、困ったように苦笑した。

「帰り道突然降られちゃって…家までそんな距離ないんだけど、雨脚強くなってきたから

 雨宿りさせてもらおうと思って」

はそう言って濡れた髪を手櫛で直しながら歩いてくる。

茶色のパンプスの足跡が濡れてくっきりと地面に残った。

白い半袖ブラウスに紺色のワンピースを重ねていたが、

袖部分のブラウスが透けて肌色が見えるほど濡れているようだった。

暑さにうんざりしていた一同から見れば涼しそうにも見えたが、今はそれどころではない。

「すいませんここタオルとか気の利いたものがなくて…寒くないですか?」

「いいよ、幸い鞄の中までは濡れてないからハンカチがあるし。

 ちょっと寒いけど平気」

廃工場に綺麗なタオルなどあるわけもない。

シャフトが申し訳なさそうに謝ると、は濡れた革製のバッグから乾いたハンカチを取り出した。

大事に抱えて走ってきたため中身は濡れなかったようだ。


「…悲しい、悲しい話をしよう」


ハンカチで腕や顔を拭くの前でようやくグラハムが口を開く。

シャフトとは面倒くさそうにそちらを振り返った。

が雨に濡れ、助けを求めてここへ飛び込んできたというのに

 俺はその冷えた体を温めるタオルも暖房器具も持ち合わせていないとは…!

 何てことだ暑いというなら以前シャフトに施したようにこのレンチが役に立つものを!!」

「あれさんにもやるつもりだったんですか!?」

彼の上の平で上下しているレンチを見てシャフトの顔が青ざめる。

自分だったからよかったようなものの、あれと同じことを彼女にしたら

いくら相手が彼でも警察に通報していたかもしれない。

は他の仲間に「あれってなに?」と聞くが、仲間たちは「知らない方がいいです」と首を振る。

「まさかこの暑さの中「寒い」と訴える者がいるとは誰も思わないだろ…?

 これが固定概念というやつだ…くそ!俺がもっと柔軟な発想を持っていれば

 誰も予想しなかった通り雨に運悪く当たってしまったがもしかしたら俺に助けを求めて

 この工場に駆けこんでくるかもしれないという予想を立てて乾いたタオルを用意することなど造作もないことなのに!!」

「いやそこまで予想されても気持ち悪いんだけどさ…」

息継ぎもせずいっきに言い放ったグラハムを前には目を細めて怪訝そうな顔をする。

するとグラハムはドラム缶から下りてきての前に立ち、真顔で濡れた肩を掴んだ。

「今のに俺が出来ることはなんだ…?レンチしかない俺がお前に何をしてやれる?

 @レンチをの前で高速回転させて風を起こして服を乾かしてやる。

 A大昔の火起こしの要領でレンチを縦に高速回転させて火を起こす。

 B着ているものを全部脱いでお前に着せる。さぁ選べ!!」

「とりあえずBはやめて!!!!」

「…っていうかグラハムさん、ここ一応元工場っすから燃料ならその辺にありますよ…

 わざわざ火起こしから始めなくても…」

「気持ちの問題だ」

要はレンチ回すか脱ぐかの二択だろ。

どこからともなく溜息が洩れる。


「濡れて気持ち悪いけど通り雨だからすぐ晴れて暑くなるし、

 家まですぐだから大丈夫。レンチは回さなくていいし服も脱がなくていい」


はハンカチで拭いた額をそのまま押さえて首を振った。

するとシャフトが自分の上着を脱いで差しだしてきた。

「とりあえずさん、俺のどうぞ」

「えっ、いいよ濡れちゃうから!」

「そんな上物じゃないんで気にしないで下さい。俺らは暑いぐらいだし」

シャフトがそう言って笑うので、は礼を言ってジャケットを受け取った。

強がってみたがやはり少し寒かったので、ジャケットを肩にかけるとかなり暖がとれる。


「…シャフト」

「はい?」


まずいことをしただろうかとシャフトは肩を強張らせてグラハムを見る。

「…なぜ俺は上下繋がった作業着を着ているんだろうな?」

「知りませんよそんなの…好きで着てるのグラハムさんでしょ…」

レンチに次ぐ彼のトレードマークである真っ青な作業着。

それを本人が疑問に思ってしまったらもうそれは誰にも分からない。

「作業着は動きやすいし洗濯が少なくて済むというのが利点だと思ってずっと着てきたが…

 今日ほど作業着という服を恨んだことはない…!どうして俺の作業着は上下繋がっているんだ!?

 ここを切り離せばいいのか!?切り離せば俺はその瞬間に「レンチと女に貸せる上着を持っている男」になれるというのか!?」

「ちょっ、ナイフ持つのはやめて下さい!あんたただでさえレンチ持ってて危ないんですから!!」

その辺に転がっている錆びたナイフを掴んで翳すグラハムを慌ててシャフトが止める。

は手近な積荷の上に座って呆れ顔でそれを眺めていた。

ふいに割れた窓の外へ目を向けると



「…あ、晴れた」



いつの間にか屋根を激しく打っていた雨は止み、分厚い雲の合間から日差しが漏れている。

今のうちだ、とは立ち上がって肩にかけていた上着を脱いだ。

「シャフトありがと。晴れてるうちに帰るね」

「え、大丈夫ですか?」

「うん。じゃあ」

は鞄を抱え、足早に廃工場を出て行く。

ナイフを片手に自分の作業着を切ろうとしていたグラハムは、

ナイフをその場に投げ捨ててレンチを持ち直しその後を追った。

が工場を出ると既に雨雲は遠くに流れて目を細めたくなるような日差しが降り注いでいる。


「…悲しい話だ…」

「…別に送ってくれなくてもいいのに」


少し遅れて後ろをついてきたグラハムを振り返っては困ったような顔をする。

グラハムはそれを無視して話を進めた。

「ああ悲しい…!どうして寄りにも寄ってが帰宅途中に通り雨に降られなければならない…?

 がレストランを出て俺たちの所へやってくるわずか数分の間にどうして

 雨を降らす必要がある!?やはりこれは天気にギャンブルを持ちかけた俺への罰なのか!?

 罰とは言うが俺はこの通り全く雨に濡れていない!そうか、俺も雨に濡れればこれでギブアンドテイクというやつか…!

 もう一度来い雨雲!!身の程知らずだった俺に鉄槌を!!」

「アンタまで濡れる必要ないでしょ…それにこれ濡れてる間は涼しいけど

 晴れてくると蒸発させようとして蒸し暑いよ…」

言ってるそばからシャツの内側に熱が籠って暑くなってきた、

はワンピースの襟をぱたぱたと扇ぎながら溜息をつく。

「ニホンという国はもっと暑いと言っていたな」

「うん。夏に入る前に「梅雨」ってのがあって…何日も雨ばっかり降ってる時期がある」

「何日も雨…考えただけで悲しい話だ…」

以前少し話した郷のことを覚えていたのか、グラハムはレンチの先端を額に押し当てて首を振った。

そうかと思えば突然顔を上げ、の前に出てくる。

「…ちょっと待て。もし俺とお前が結婚して俺が婿養子になってお前の郷に行くようなことがあったら、

 俺はそのto youという悲しくて悲しくてどうしようもない現象に耐えることが出来るだろうか…!?」

「話飛躍しすぎだしto youじゃなくて梅雨だし…」

は目を細めて呆れた顔をする。

「つゆ」はちょっと発音しにくいか。

そんなことを考えていると、自分の前にいるグラハムの斜め後ろから迫る影が目について思わず「あ」と口を開く。

慌てて腕を引き寄せようと思ったが遅かった。

猛スピードで2人の間横を走り抜けた車が先ほどまでの激しい雨でできた水溜りを跳ね、

勢いよく飛び散った水はグラハムが思い切り背中からかぶってしまった。



「………………」

「………………」

「……だ、だいじょうぶ…?」



前頭部から額を伝って鼻頭から水が垂れてくる。

はバッグからハンカチを取り出した。

「…嬉しい…嬉しい話をしよう……」

「は?」

ハンカチを濡れた金髪に当てたところでは怪訝な顔をする。

「いつもの俺なら水溜りでスピードを落とさない車を追いかけて車を解体してやるところだが

 今はあの運転手に感謝しなければならない…どうやったらずぶ濡れになったと同じ思いに

 なれるだろうと悩んでいた俺に水をぶっかけてくれたわけだ!

 やはり追いかけてお礼が言いたい!ありがとう俺たちをペアルックにしてくれて!!」

「これペアルックなの!?」

お互い服が濡れているだけだが。

「とりあえず顔拭きなよ…」

ただでさえこの暑さでイライラしているのに、加えて車に水をかけられれば大抵の人が憤怒するだろう。

少なくともこうして両手を掲げて喜ぶ人間はいないはずだ。

ハンカチを差し出しても自分で拭きそうになかったので、鼻筋や頬に垂れてきた水だけでも拭いてやった。

「しかしあれだ。婿養子になったら俺は親父のそのまた親父のそのまた親父から受け継がれてきた

 スペクターという姓を捨ててグラハムと名乗ることになるのか?

 なんかコメディアンみたいな名前でワクワクしないか!?俺は異国でコメディアンになるのか!?

 やべえ夢が膨らむな!楽しいな!!!」

「日本は姓が最初に来るからグラハムなんじゃない?

 っていうかその話まだ続いてたの?」

本気にするつもりはなかったがも「もしも」のことを考えてみた。


…父さん、アメリカに行っても向こうで男は作るなよって言ってたっけ。


外国人に偏見があるとかいう以前に、この男の人柄はお堅い日本人にはウケが悪そうだ。

そこまで考えたところで馬鹿らしくなって首を振る。


「アパート着いたらタオル貸すから」

「成程!濡れた服を乾かすための家に上がりこみ、尚且つ良く冷えたミルクを飲んで涼むということだな!」

「…どさくさに紛れて飲み物要求したよこの人…」



とりあえずこの人のおかげで2回ずぶ濡れになることは免れたわけだし

冷えたミルクくらいは御馳走してやろう





めっさ久々グラハムさん。意外にもアンケートで読みたいとお声を多数頂き嬉しいです…!
原作もそうですけど、暑いならつなぎの上だけ脱げばいいのにね!
下に着てる黒いのがタンクトップなのか半袖なのか長袖なのか。
それとも季節によって変わるのかそれを考えるだけで楽しいです。大好き。