シアン








ちゃぷり


緩やかな波が耳の半分を覆おうと鼓膜が音を立てて冷たい海水が耳の穴に侵入してきた。

白い襦袢は肌に張り付いたままだが、紅梅色の着物は裾や袖口を海水が通ってふわふわと体の回りに広がっている。

は静かに波打つ海面に身を委ね、ぼんやりと夜空を見上げながら待ち合わせした相手を待っていた。

耳元でちゃぷちゃぷと囁く波音以外は何も聞こえない静寂の海辺

とうに陽が落ちて辺りは真っ暗だったが、そのお陰で夜空の星々がよく見える。


「うぉっ」


そんな静寂の中に突如割って入ってきた男の声。

「…脅かすなよお前…死体浮いてると思ったじゃねーか」

待ち合わせ相手は柄にもなく驚いた様子で岩場の陰から歩いてきた。

「だって遅いんだもん。暑くて暇だったから飛び込んじゃったよ」

「どんな暇の潰し方だよ…」

元親は呆れた顔で浜辺の岩に腰を下ろす。

もっとも、は海面と平行に浮かんでいるのでその姿は見えないのだが。

「そろそろ上がって来いよ。いくら夏っつったって夜の海は冷えるんだ、風邪ひくぞ」

「うーん……もうちょっと…」

生返事をしたは立ち上がる様子もなく夜空を見上げたまま。

元親はそんなの姿を見て眉間にシワを寄せがしがしと頭を掻いた。


「あのな、遅れたのは謝るから拗ねんのはやめ…」

「星、きれいだよ」


元親の言葉を遮り、はまったく関係のないことを言い出した。

元親は更に怪訝な顔をしたがとりあえず言われるまま夜空を見上げる。

夜の海の濃紺に上塗りをしたような漆黒

そこに光る無数の星はまるで浜辺の砂を散りばめたようで、確かに「きれい」の一言に尽きる。

今日は一日中晴天だったから余計綺麗に見えるのだろう。



「…戦なんか起きそうにない空だよね」



がぽつりと呟いた。

元親は目を見開いて視線を海面へ映す。

「……オイ」

明らかに普段と違うの様子を察した元親は岩場から降りてた。

だがはそれ以上何も言おうとしない。

痺れを切らした元親はそのまま海に入ってに近づいた。

それでも立ち上がろうとしないの手を引き、背中を海中から押して無理やり立ち上がらせる。

濡れた髪からぽたぽたと海水を滴らせて顔を伏せているを前に元親が口を開こうとすると



「……遅れたのは、軍議があったからでしょ?」



顔を伏せたまま掠れた声でそう言った。

元親は驚いて目を見開く。

…確かに、恋人との待ち合わせに遅れたのはつい先ほどまで城で軍議が行われていたからだ。


「…聞いたのか、二日後の戦のこと」


は黙ってこくんと頷く。

軍議で決定した二日後の中国・松山城への出陣。

だが元親もに黙っていようと思ったわけではなく、これから順を追って話そうと思っていた。

おそらく気の早い足軽が町で振れ回ったのだろう。

の様子がおかしいのはそのせいだ。

「いつものことだろ?また少し城を開けるだけだ」

「っだって…!」

そこで初めては顔を上げる。

長いこと海水に浸かっていたせいかその顔面は蒼白だ。


「…大きい戦になるかもしれないって……聞いた…」


はそう言って再び顔を伏せてしまう。

普段は飄々として天の邪鬼な性格のは、元親の前でも滅多に素直な感情を表さない。

いつも海へ出ると言って城を離れる時は「カジキ釣ってきて」とか「中国土産買ってきて」とか言って

戦へ出る恋人の安否を全く心配しないのだ。

それだけ信用しているということかもしれないが、「ちったァ心配しろ」と言った記憶が新しい。

「………………」

顔を伏せたまま押し黙るを前にどうしたものかと頭を掻き、その手で目の前の濡れた背中に触れる。

軽く引き寄せると薄い体は簡単に硬い胸板に収まった。

乾いていた紫色の羽織もの体から海水を吸って濡れていく。

触れ合った肌は体温を共有することなく海風に冷やされていった。


「…らしくねぇな」

「………だって」

「俺が大丈夫だっつって駄目だったことがあるか?」

「……………結構あるよ」

「…………………」


の背中を離して少しだけ距離をとり、顔をしかめてを見下ろす。

視線に気づいたも顔を上げて元親を見上げた。

「…お前そこは」

「嘘でも「ないよ」って言えって?無理だよあたし今結構落ちてるんだよ?」

「…………………」


…こいつは。


元親はがしがしと頭を掻いて深いため息をつく。

海水に浸かっていた左手をサブンと上げて今度は少し乱暴に濡れた肩を引き寄せた。

そして少し屈みながら、尖っていた唇を噛み付くように覆う。

乾いた唇が口の水滴を吸い取って粘膜の間で僅かな水の壁をつくった。

は数秒目を開いたままだったが、重なる時間が増すと自然に目を瞑る。

潮の味はほのかに甘い。

冷たい夜風が濡れた肌を冷やして、着物の襟で乾燥した潮が粉状になっていた。

すると突然、下に垂れ下がっていたの両手が元親の胸に押し当てられて

顔が弾くように離れると同時に元親の鍛えられた体を突き飛ばした。

「っ」

無理やり距離をとったは即座に後ろを向いて両手で口を押さえる。



「………ッくしゅん!!!」



そして盛大なくしゃみ。

突き飛ばされて少しよろけた元親は呆れ顔でを見た。

自分を待っている間ずっと夜の海水に浸かっていたのだから当然だ。

「…だーから言っただろうが風邪ひくってよぉ…」

はーっとため息をつきながら紫の羽織を脱いでの肩にかける。

こちらも湿っているのであまり意味はないが、ないよりはマシだろう。

「さっさとあがんぞオラ」

そう言っての手を引き、浜へ向かって歩き出す。

さすがのもくしゃみが出るほど体が冷えていては大人しく聞き入れるしかなかった。



「……大丈夫だ」



大股で潮に逆らいながら元親は言った。

は引かれた手と反対の手で鼻を押さえながら大きな背中を見上げる。

「ちゃんとまた帰ってくるからよ。カジキも釣って来てやるし、お宝もたくさん獲ってきてやる。

 中国土産も…っつーか中国領土が土産でいいだろ」

「…そんなのいらない」



「無事に帰ってきてくれれば…それでいい」



そう言ったは繋いだ手に僅かに力を込めた。

冷えた手はその一瞬だけ少し熱を持ってすぐにまた冷たくなっていく。

元親はそんなの顔を横目で見ながら薄く笑って砂浜に足を着いた。




「……っ、ふえ…っくし!!!」




そして次の瞬間豪快なくしゃみ。

繋いだ手とは反対の手で鼻を押さえて身震いする。

それを見たは初めて表情を綻ばせた。


「いくら夏って言ったって夜の海は冷えるんだよ?」

「…ちょ、上着返せ」

「やだ寒い」

「出陣させねぇ気か!?」









シアンブルーは満天の星空の鏡になる










アニキの書きやすさは神。
他の武将と違ってヒロインが畏まらないからだと思います。
というかアニキを格好よく決めさせてくれないヒロイン(笑)
アニキは民百姓にもフレンドリーだといい。
海の情景を引っ張ってくるのに違和感のない人なのですごくありがたいです。