"幸村様"



細く柔らかい手は少し冷たく




"ゆきむらさま"




自分を呼ぶ声はいつも温かく穏やかで


それが、自分の中の『彼女』の最期の記憶だ






「幸村様」







「--------------ッ!!」



重ねられた冷たい手にぬるりとした感触と生温かさを感じ、勢いよくその手を掴んだ。

……つもりだった。

飛び起きながら伸ばした右手は宙を切り、違和感を感じた左手には嫌な汗が滲んでいる。

汗が滲んでいるのは額も同じでいつもに増して寝起きの悪い朝だった。


「………………」


汗ではりつく前髪を掻き上げ、その手ですぐ横のカーテンを引く。

窓は外側が水滴で濡れていて寝起きでぼんやりしていた耳に雨音が聞こえてきた。

分厚い曇天が夏の空を覆い、湿度が更に気温を上げてじめじめと鬱陶しい。

窓に反射する冴えない顔色の自分を見てぶるぶると首を振り、急いでベッドを出た。






朔夜のまたたき-5-






都内某所・武田邸


「…成程、独眼竜がな」


都心の一等地に構える立派な日本家屋。

昨夜から降り続く雨が打ちつける窓を見つめながら、信玄は携帯に向かって低い声を発した。

同居している一人娘は数分前に家を出たため広い屋敷内には信玄一人だ。

『すいません、もうちょっと気をつけていればよかったんですけど…』

「仕方あるまい。ワシも予想外じゃった」

通話相手の男子生徒が謝ると浅く溜息をついて顎鬚を撫でる。

『まぁ独眼竜はいいとして前田慶次あたりがちょっと…見張ってないといつ口滑らすか分かんないんすよねぇ…』

「用心しろ。幸村の様子はどうだじゃ」

『相変わらずです。少しはマシになってきましたけど』

「…そうか」

窓に背を向け、書斎の机に置いている写真立てに目を向けた。

まだ幼いを自分が肩車している写真と、中学の卒業式に校門前で撮った写真。

400年前も全く同じように彼女の成長過程を見守ってきたが、

彼女がその乱世を生きたという証は自分たちの記憶の中にしかない。

のことは上杉の忍に任せておる。お主は幸村を頼むぞ」

『了解』

通話が切れると携帯を閉じ、机に開いていた書類に手を乗せた。



「…済まぬな、幸村」




制服のシャツが冷たく濡れて素肌に貼り着く感覚が気持ち悪い。

寮から校舎まで程ない距離、傘をさして歩いてきたにも関わらず肩や背中は雨に濡れた。

佐助は少し遅れて行くと言っていたので先に登校してきたが、

それでもいつもより少し遅くなってしまったらしく登校してくる生徒数はみな足早に教室へ向かって行く。

昇降口で上履きを履き、幸村はそのまま自分の下駄箱と睨み合っていた。


(…何をしているんだ俺は)


己でも口に出したように信玄からはクラスメイトとして接してやって欲しいと言われていたが、

未だそれを満足に果たせずにいる。

慶次なら昨日の言葉通りすぐにでも彼女に話しかけて一方的に仲良くなるに違いない。

この時ばかりは彼の順応の早さを羨んだが、元より彼女に対して馴れ馴れしい態度をとるつもりもなかった。

(受け入れなければならないと言ったのは俺だ。

このままではお館様に申し訳が立たぬ…!)


「ねぇ」



"お前が覚えてねぇことを記憶が無いあちらさんが覚えてるわけねーだろ"



(元親殿の言う通りだ…今俺がすべきは姫様との約束を思い出すことではなく、一刻も早く彼女と接することに慣れ……)



「…ねぇってば」



一人悶々と考え事をしていると、後ろから制服のシャツをぐいと引っ張られて不機嫌そうな声が聞こえてきた。

はっとして振り返り、ぎょっと目を見開いて息を飲む。

悩みの元凶でもある女子生徒が真後ろに立って怪訝そうにこちらを見上げていた。


「おはよう」

「…お……お早う…」

「そこに突っ立ってるとすごく邪魔だよ」


はそう言って幸村をかわすように下駄箱の前を通り過ぎていく。

幸村は慌てて端に寄ったが昇降口にいる生徒は既に疎らだった。

足早に教室へ向かって行くの後姿を見送りながら呆然とその場に立ち尽くしていると、

遅刻組のクラスメイトが慌てて昇降口に駆けこんでくる。

「遅刻遅刻…っと旦那、何してんの。アンタ先に出てったでしょ。遅刻するよ」

下駄箱から取り出した上履きを投げるように床に放った佐助がひょっこりと顔を覗きこんできた。

「……お館様に一発殴って貰えば少しは目が覚めるだろうか」

「は!?この蒸し暑い朝っぱらから更に暑苦しくなること言わないでくれる!?」




雨の匂いが、思考回路を鈍らせる




朝練を終えた生徒が続々と校舎に戻っていく中、校庭の一角に備えられた花壇の前に用務員の姿があった。

用務員というよりは体育教師でも通じるがっしりとした体つきで、

左頬の大きな刀傷と鋭い目付きは見るからに近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

だが花壇の花を見つめる表情は穏やかで、土の跳ねた葉の裏を拭いてやる所作も丁寧だ。


「こんな日まで草いじりたァ、ご苦労だな小十郎」


花壇に夢中で気づくのが遅れたが、背後に立った男子生徒の声ですぐに振り返った。

「政宗様。お早うございます」

「鬱陶しい雨だな…ま、最近暑かったから丁度いいか」

政宗はビニール傘を傾けて振りやまぬ雨に目を細める。


「話がある。いいか」


鞄を肩にかけ直し真剣な目を向ける政宗を前に小十郎も表情を引き締めた。





幸村と佐助が教室に着くと、案の定というべきかの席の傍には慶次の姿があった。

一方的に慶次が話しかけているように見えたが打ち解けているようにも見える。

…本当に羨ましい順応力だ。

2人に気付いた慶次は入口に向かって手を振ってくる。

「おはよ!」

「おはよ。楽しそうだね」

先に鞄を置いた佐助も彼女の席に近づいた。

「夏休みみんなで遊びに行こうって話してたんだ。海行きてぇなーって言ったら

 元親が「そろそろクラゲ出るから早い方がいい」って」

慶次はそう言って元親の席を指差す。

クラスでも一際目立つ銀髪は机に突っ伏せて寝ているようだった。

幸村は慶次の話の内容より元親の前が空席であることが気になって鞄を下ろしながら首をかしげる。

「政宗殿はまだ来ておられないのか…」

「……あー…なんか…さっきメール来て…一時間目は休むって」

寝ながら会話を聞いていたのか、元親はゆっくりと顔を上げて右手に持っていた携帯を開いた。

どうせ寝坊だろ、と言って元親は再び机に突っ伏せる。


「また組でなんかあったんじゃないの?」


慶次が何気なく口を開き、以外の全員が「あっ」と思う。

横に立っていたかすがが慶次の足の勢いよく踏みつける。

「、いって!!」

「組って?」

当然、は首をかしげて慶次を見上げた。

寝ていた元親も顔を上げて助けを求めるように近くにいた幸村と佐助を見る。


「あいつ、家が極道だからさ」


現在の生い立ちを話すだけなら問題ないだろうと判断した佐助が言葉を選びながら口を開いた。

はきょとんとした顔をして、元親の前の席にその視線を移す。

「そうなんだ?」

その反応が意外にもあっさりしていて今度は周囲の方がきょとんとしてしまった。

流石は武田信玄の娘というべきか。

「でも組の奴らは皆いい奴だよ!俺も昔から知ってるけ……」

再び口を開いた慶次の足の甲に、再びかすがが踵を振り下ろした。

「いって!!!か、かすがちゃん爪割れる…!」

「お前が余計なことを言うからだ…!」

かすがは小声で慶次を怒鳴りつけたが、は「ふぅん」とあまり興味なさそうに政宗の席を見つめるだけだ。

「言われれば納得かも。ヤクザの若頭とか、それっぽい」

は淡々とそう言って一時間目の授業の教科書を出し始めた。

まるでそれを見計らったかのように担任がドアを開けて教室に入ってくる。

幸村は政宗の空席を気にしながら自分の席に戻った。


『お前らと親しいって風にも見えなかったし、理事長の娘だって説明もねぇからおかしいと思ったんだよ』


(…お館様は同じ状況下にある教員には話をつけたと仰っていた…だとするなら恐らく片倉殿も…)







同時刻・1階用務員室


「ご報告が遅れ大変申し訳ありません。理事長より口止めをされておりまして…」

「No problem.甲斐の虎っつたってここじゃ最高権力者なんだ。用務員のお前が逆らうわけにもいかねぇだろ」


ソファーに鞄を下ろし、一緒に腰かけて小十郎が淹れたばかりの熱いお茶に口をつけた。

「いつ話をされた?」

「2日前です。彼女が学校見学に来た際に」

「お前も甲斐を素通りした時遠目で見ただけだろ?」

「はい。姫君との面識の有無に関わらず、我々と同じ状況下にある教員全員に話を通したものと思われます。

 校長と副校長と担任の島津は無論、松永、北条、前田…その他の教員も、彼女が理事長の娘であるということだけは把握しております」

小十郎もその向かいに腰を下ろし、頭に捲いていたタオルを解きながら話を進める。

「HA、相変わらず根回しが早ぇな。たかが娘一人の編入に随分大がかりなこった」

政宗は鼻で笑って足を組み、雨垂れが滴る窓を見つめた。

一時間目の授業が始まっている時間なので外の廊下はひっそりとしている。

「丸々記憶が抜けてるってのは面倒な話だが、そもそもあの2人以外は接触ないわけだしな。

 猿飛の言ってた通り理事長の意向に従ってりゃそう問題も起こらねぇだろ」

「記憶のこともご存知でしたか」

小十郎は意外そうに目を見開く。

「武田の2人に聞いた。真田の女だったらしいが…覚えてねぇもんはしょうがねぇ。

 城に籠りっきりで男の帰り待ってたヒメサマだ。暇過ぎて忘れちまったんじゃねぇの」

浅く溜息をついてあからさまな侮辱を言い放つが、表情は意外にも真剣で、

思いの他真面目にこの事実を受け止めているように見えた。

「…気の毒ではありますが我々にはどうしようも御座いません」

「……ああ。俺も慶次あたりが口滑らせねぇように見張っとく」



…雨は止む気配がない。

 


放課後、授業が終わり教室を出た幸村はまっすぐ昇降口へ向かっていた。

外にある部活場所の剣道場へ向かうためだ。

佐助は私用があるとすぐに教室を出て行ったし、カヌー部の元親は雨で活動がないからと足早に寮へ戻って行った。

下駄箱で靴を履き替え、傘を持って昇降口を出たところで屋根の下に立っている女子生徒に気付く。

壁に寄りかかって退屈そうに携帯を弄っている

幸村は何と声をかけていいか迷ったが、昨日彼女と一緒に帰っていたかすががまだ校舎にいたことを思い出した。


「…かすが殿を待っているのか?」


声をかけられたは顔を上げる。

「え?ううん、かすがは謙信先生のお仕事手伝うから少し残るって…そうじゃなくて、雨」

そう言って空を指差す。

止む気配のない雨脚は昇降口の階段にいくつも水溜りをつくっていた。

「朝は車で送ってもらったから傘持ってこなかったんだよね。出てきた時は小雨だったし…

 折り畳み傘持って歩く習慣もないし」

だから止むまで待ってようと思って。

そう言って退屈そうに肩を落とす。

そういえば朝ここで彼女に会った時、少し髪や肩が濡れていたかもしれない。

幸村は自分の手元を見下ろし、今まさに開こうとしていたビニール傘と彼女を交互に見る。

そして片手に持ち替えたその傘の柄をそのままへ差しだした。

顔を上げたは首をかしげて傘と幸村を交互に見る。

「帰るの?」

「あ…いや、俺はまだ部活が…」

「じゃあいいよ。今携帯で予報見たら夜から更に強くなるっていうし」

はそう言って開いたままの携帯を振ってみせた。

「寮はすぐ近くだから走ればさほど濡れずに済む。雨脚の弱い今のうちに帰った方がいい」

幸村が空を見上げて言うと、もつられるように雨雲を見上げる。

雨は強くなるばかりで止む気配はなさそうだ。

は差しだされた傘を見てしばらく悩んだ後、バッグの中から何かを取り出して代わりに差しだしてきた。


「じゃあ、交換」


差しだされたのはハンカチ。

よかった今日持ってて、と言って幸村の傘を受け取る。

「頭に乗せて走るだけでも違うかも」

幸村は戸惑ったが好意を無碍にも出来ないと、頷いてハンカチを受け取った。

「ありがと。明日返すね」

礼を言ってはいるがにこりともせず、受け取った傘を開いて屋根の下を出る。

大きな水溜りを避けながらローファーの爪先でゆっくりと歩く後姿を見送り、

幸村は借りたハンカチをじっと見つめた。



"幸村様"



口元に当てられた懐紙の香りを、思いだす




かさついた口元に滲む血を吸い取って、香の匂いがする懐紙が染まっていく。

同時に頬に触れた指先の柔らかさに意識を奪われていたが、

はっとして距離をおこうと一歩たじろいだ。

『ひ、姫様…!召し物が…』

戦から戻ったばかりで砂煙や帰り血を浴びた自分に触れては大切な着物が汚れてしまう。

慌てて離れようとしたが、は真剣な顔で首を振った。

『構いませぬ。着物などどうとでもなります』



彼女は



硝煙の臭いも血生臭さにも、

一度たりとも眉をひそめたことなどなかった





「……………」


握り締めたハンカチからは柔らかな石鹸の香りがする。










To be continued
アニキのカヌー部は流れで決まりました(笑)釣り部も掛け持ち(笑)