朔夜のまたたき-36-






校舎を出ると外は雨がパラついていた。

ずぶ濡れになる程の量ではないが差さずに歩くには少し勇気のいる微妙な雨量。

は昇降口の屋根から滴り落ちる雨滴を見上げ、少し考えてから折り畳み傘を取り出す。

傘を取り出し広げる作業さえ億劫で、一瞬このまま濡れて帰ろうかと思ったが思いとどまった。

かすがはいつものように謙信の手伝いをして帰ると言っていたので「先に帰ってるね」と教室を出てきた。

正直、今はかすがともどんな顔をして話をすればいいのか分からない。


(…かすがは鋭いし頭がいいから…分かってるのかもなぁ…)


浅くため息をつく。

どうして雨というのは、こうもため息を促し陰鬱な気分を増長させるのだろう。

取り出した折り畳み傘を広げて昇降口を出ると


「あーッ待って待って!入れてくんない!?」


後ろから賑やかな声で呼びとめられる。

驚いて振り返ると、スニーカーをつっかけたまま慶次が追いかけてきた。

「…慶次…」

「まつ姉ちゃんに今朝持ってけって言われたの忘れて出てきちゃってさぁー

 濡れて帰ると「だから言ったでしょう!」って怒られるんだよね」

慶次はそう言ってへらっと笑いながらの傘を指差す。

既に髪や肩が少し濡れていたのでは慌てて慶次の頭上まで傘を持っていった。

「いいけど…折り畳みだから小さいよ?」

「いーのいーの。俺傘持ってきてる時でも濡れて帰るもん」

慶次は「俺が持つね」と言って傘の柄を受け取る。

確かに身長差がかなりある慶次と並んで歩くにはが傘を持っても意味がない。

は素直に柄を離して歩き始めた。


「昨日の花火楽しかったなー」


校門を出てすぐに、慶次が言う。

「…うん。東京であんな大きい花火見るの初めてだから、楽しかった」

ワンテンポ遅れても相槌を打つ。

正直花火の記憶は全くない。

みんなの横顔が照らされると同時に心臓に響く轟音がして

それを携帯やカメラに収めようとする人たちの声や、シャッター音や、祭囃子が


早く


終わって欲しいと



「ほんとに?」



頭上から声が降ってきて、はぱっと顔を上げる。

慶次は珍しく真顔だった。

「本当だよ、何言ってるの?」と言いたかったけれど



「……ううん」



嘘がつける気がしなくて、ゆっくり首を振る。



「全然、楽しくなかった」



一刻も早く、あの場所から離れたかった。

駆け出して、誰もいないところに行って、大声で泣き叫びたかった。


「幸村と何があったんだ?」


しばらく黙った後は一瞬口を開きかけて顔を上げたが、

再び顔を伏せて黙りこんでしまった。

慶次はそんなを横目で見てふ、と柔らかく笑う。


ちゃんて、今まで好きな人いたことある?」


突然の質問には思わずぱっと顔を上げた。

再び顔を伏せ、首を捻って少し考える。

「……ない…かも」

「マジで!?でもほら、告白されたこととかはあるでしょ!?」

「…告白っていうのか分からないけど…前の学校で、そういうこと言われたことならあるよ」

慶次は思った。

幸村も相当だとは思っていたが


(この子も相当幸村寄りじゃねぇの…)


「…でも私は、」

が続いて口を開く。


「誰かが私に「好き」って言う感覚が…よく、分からない」

「?分からないって?好きだ!って思ったから好きだって言うんじゃないの?」

「私はかすがみたいに可愛くてスタイルいいわけでもないし…

 慶次みたいに誰とでも仲良く出来るわけじゃないし。

 話したこともない人は、私のどこを見て好きになってくれるのか分からない」


「でも幸村とは」と言いそうになってやめた。


「…私は自分のことがあまり好きじゃないから…

 そんな自分を好きだって言われることが少し、怖い」


自分のことを一番知っているのは自分のはずなのに

自分が嫌いな自分を「好き」だと言う人は



(…私以上に私を知っているんだろうか)



「好きっていうのは」

今度は慶次の方から口を開く。


「「もっと貴女を知ってもいいですか」と同義だよ」


「知ることを許して欲しい。君の引いてる線を跨ぐことを許して欲しい。

 できるなら、その世界に入り込んでこれからを一緒に生きたい。

 俺にとってはそういうことかな」


慶次はそう言ってにかっと笑う。



『懇意でありたいと思っている』



幸村がそんなことまで考えて「何か」を言いかけたのかは分からないけれど。

きっと


(姫様には、そう言うつもりでいたんだろうなぁ…)


しばらく無言で歩いた後、はゆっくりと口を開いた。


「…一人だけ、憧れてた人ならいるよ。もう10年以上前のことだけど」


慶次は横目でを見下ろす。

「まだ母様が入院してた頃、お見舞いにきてくれて一度だけ、会った人」

「一度だけ?」

「うん。小さかったから、もう顔も名前も覚えてないけど。

 多分、父様の知り合いか何かだったと思う」

はそう言って苦笑した。

記憶は朧気だったが、あの時のことは今も少しだけ覚えている。



『遠路遥々すまなんだな。忙しかろう』

『お館様には敵いませぬ。年末ほとんど働き詰めでしたので、この機に有休を』



母の病室の前で父と話をするスーツ姿の中年男性。

中年と言ってもピンと伸びた背筋や短く切りそろえられた髪は実年齢より若く見える。

ハキハキとした話し方だが落ち着いた低い声で、聞いていると心地が良い。


『左様か。倅は元気か?』

『ええ、元気が過ぎるというか何というか…

 少しはこちらのご令嬢を見習って落ち着きを持って貰いたいのですが』

それを聞いた父は豪快に笑う。

『良い事じゃ。男児たるもの、年端の行かぬうちから落ち着いていてはならぬ』

父はそこで病室から廊下を覗いていたに気づき、名前を呼んで手招きする。


『ワシの古い友人じゃ』


父の後ろに隠れるようにして立っていると、男はしゃがんでと目線を合わせた。

『こんにちは』

『…こんにちは…』

少し遅れてが返事すると柔らかく笑う。

『学校は、楽しゅうございますか?』

『…はい』

『それはよかった』

そう言って頭を撫でる手はどこまでも優しく、温かく、大きい。

少し父の手と似ていた。

小さな頭から手を放すと同時に男は立ち上がる。

『慌ただしくて申し訳ありませんがそろそろ失礼致します。奥様によろしくお伝え下さい』

『ああ。気をつけてな』

『お館様も、どうかご自愛下さいませ』

父に頭を下げ、には軽く手を振って去って行った。



よく思い出せないけれど


父にも、幸村にも、似ていたような気がする。




「…ちょっと待って。虎のおっさんの知り合いってことは相当年上じゃね!?」

「?うん、そうだよ?私と同じくらいの子供いるって言ってたし」

重度のファザコンだとは思っていたがそこまでだったとは。

慶次は頭を抱えかけたが、思い出話をしたはどこか嬉しそうだった。

「多分それが初恋。今会ってもきっと分からないけど」

もう10年経ってるしね。と笑う。


「あ…慶次の家ってどっちだっけ」

「あぁここでいいよ!コンビニで傘買って帰る」


話をしている間にの家の近くのコンビニまで来た。

慶次はに傘を渡し、コンビニの屋根に入る。

「入れてくれてありがと」

「ううん。私こそ…話聞いてくれてありがとう」

「俺は、人が恋してんのを見るのが好きだからアレだけどさ」



「誰も、君を傷つけるために「好きだ」なんて言わないんだよ」



慶次はそう言って苦笑した。

は少し目を見開く。


…聞いてあげればよかった?


でもきっと最後まで聞いていたら



私は彼に、もっと酷いことを言っていたような気がする



「じゃ、また明日な!」

慶次はそう言って手を振り、コンビニの中に入って行った。

も少し遅れて手を振り返し、家に向かってゆっくりと歩き出す。


私が答えを出すのが誰のためになるのか分からない。


私のため?

彼のため?



『俺は、姫様に上田の星空を見せると約束したんだ』



誰が幸せになれるの



私は何度


顔も知らぬ「姫様」に謝ればいいの





To be continued