戦場において

死にたくないと、

もっと生きていたいと思うことは死を招くというが

ならば確かに俺はあの時自分で死を招き

生きたいと願ったが故に自分で死に飛び込んで行ったのかもしれない


眼前に迫る敵の槍が胸に届く寸前、

「死にたくない」と思った

「生きて帰りたい」と思った


『次の戦の後、その場所にご案内したく存じます』


いつ死しても構わないという覚悟で臨む戦の前

どうして俺はあのお方にあんなことを言ったのか

…あのお方は、どんな思いで「お供致します」と仰ったのか


俺は心身の弱さが故に死に、

最期の最期まで

あのお方の何も解ることが出来なかったのだ






朔夜のまたたき-28-







あれからどれほど夜空を眺めていただろう。

気付くと街の明かりも少なくなり、生ぬるかった夜風は少し冷たくなってきた。

は少し身震いして幸村が貸した腕時計を見る。

「…甲府に帰る電車、何時だっけ」

時刻はいつの間にか夜の8時を過ぎていた。

幸村は携帯で時刻表を開く。

画面をスクロールしていく親指が途中でぴたりと止まった。

「………あ」

「…どうしたの?」

「………電車がない」

松本から甲府を経由して新宿までいく電車は8時最終となっている。

何度見直しても8時以降の時間は見つけられなかった。





「……で?櫓に不法侵入して星眺めてたら最終逃したって?

 どこのバカップルだよしっかりしてくれよ」

電話を受けた佐助は呆れ顔で携帯に向かって溜息をつく。

8時を過ぎても帰ってこないからさすがに心配になって電話しようと思っていたら、

逆に幸村から電話がかかってきて今に至る。

訊けばは携帯の充電が切れて信玄に連絡も入れられない状態で、

先ほどようやく長野行きの電車に乗ったところらしい。

(まぁこの季節に星が見える時間まで上田にいりゃそうなるだろうけど)

「とりあえず松本まで出てきてくれよ。高速使って迎えに行くから。

 …うん、勘助さんが車出してくれるって。帰ってきたら一発殴られる覚悟はしときなよね」

デッキで通話しているからか、本気で落ち込んでいるからか「分かっている」と答える幸村の声色は暗い。

じゃあ後で、と言って通話を切ると客間に戻り、座っている信玄を見た。

「とりあえず松本までは来れるみたいです」

「左様か。ワシは家に残る。後は頼んだぞ」

ソファーに座ったまま腕を組んでそう答える信玄はいつもと変わらぬように見えたが、

幸村が帰ってきたら冗談じゃなく一発殴られるのは必至だろう。

佐助は返事をして勘助と共に客間を出ると松本に向かう準備を始めた。




通話を終えて座席に戻ると、窓側に座っているは窓枠に寄りかかって静かに眠っていた。

慣れない土地で歩き回ったせいで疲れていたのだろう。

甲府に戻って信玄に怒られることを考えると憂鬱になってきたが、

そんなことお構いなしに眠っているを見ると表情が綻んでしまう。


『連れてきてくれてありがとう』


あんなこと、言われるとは思っていなかった。

上田に行こうと言ってくれたのは自分が行きたいからと言っていても、

やはり「約束」のことを気にかけてくれていたからだと思っていた。


「……ありがとう」


上田で言えなかったことを、穏やかな寝顔に向かって呟いた。






松本で勘助の運転する車に拾われ、高速を通って再び甲府へ戻ってきたのは日付が変わってからだった。

穏やかな気分になったのも束の間、やはり目の前の元主君の表情を見ると緊張が走る。

和室の畳にと並んで正座し、こちらに背を向けて立っている信玄を見てただただ背筋を強張らせるしか出来ない。

大きな頼もしい背中から滲み出る怒りのオーラは450年前から何も変わっていなかった。

「…大変遅くなり…申し訳ごさいませんでした…!」

畳に両手を着き、勢いよく頭を下げる。

「…ワシは、お前とならばを遠方で出しても良いだろうと思うて許可したのだがな…」

信玄は相変わらずこちらに背を向けたまま重い口を開いた。

畳に額をつけたまま背中がびくりと強張る。

張りつめた空気の中で唾を飲み込むと、横に座っていたの方が先に口を開いた。

「父様、遅くなってごめんなさい。途中で雨が降って、でもどうしても上田城で星が見たかったから…

 長居させちゃったのは私なの」

「…っ何を言う!上田に不慣れなそなたを先導出来なかった俺の責任だ!」

「そういう問題じゃなくて…私にも責任があるんだから幸村ばっかり怒られなくてもいいように…」←小声

「罪を軽くして貰おうなどと稚拙なことは思っておらぬ!罰は真っ向から受ける所存!!」←大声

「だからそれを少しでも軽くしてあげようと…!」←小声

「お館様ァァァああああ!!!某を殴って下…ッうぶし!!

顔を上げと口論していた幸村が立ち上がって再び正面を向くと、

振り返った信玄の右拳が本人の希望通り左頬に減り込んだ。

吹っ飛んだ幸村は中央のテーブルを飛び越えて奥のソファーと一緒に倒れる。

ドア付近にいた佐助と勘助は巻き添えを食らわないようにそれぞれ左右に避けた。

「と、父様…!」

は慌てて立ち上がる。

これまで17年間父に手を挙げられたことなどないし、父が誰かを厳しく叱っているところも見たことがなかった。

450年前は日常茶飯事だったこの掛け合いも彼女には壮絶な喧嘩のように見えるのだろう。



「…ワシが怒っているのは帰りが遅くなったことではない」



「十五で元服し一人前と見なされる乱世とは違う。ぬしらはまだ保護者の監視下にある子供じゃ。

 幸村よ、この平成に二槍は存在せぬ。剣術道具も持たず、万一悪漢にでも遭ったらどうしていたつもりだ?

 ばかりでない、お前の身も危険に晒されることになるのだぞ!!」

起き上った幸村を見下ろす信玄の表情は厳しかった。

「ワシは同様、お前のことも我が子のように思うておる。

 案じているのはの身だけではないということを忘れるでないぞ」

「…ッありがたきお言葉…!」

再び畳に膝をついて深く頭を下げる。

心配そうな顔をしていたも胸を撫で下ろした。




 
「…大丈夫…?左頬、すっごい赤いけど…」

信玄の部屋を出て廊下を歩きながら、は眉をひそめて幸村を見上げる。

「叱って下さるということは俺のこの先を考えて下さっているということ。

 お館様の熱き拳、喜んで然るべきだ!」

「そうじゃなくて……平気なら別にいいんだけど…」

「大丈夫だよ。昔っから殴り合いが好きな師弟だから」

気にしない気にしない、と佐助が言うとも「そう…」と納得する。

「じゃあ、おやすみ。今日はありがとう」

はそう言って自分の部屋に続く廊下の角を曲がっていった。

2人は玄関で靴を履き、離れに戻る。

「ま、とりあえず無事に目的果たせたみたいでよかったじゃん。

 櫓に勝手に入ったのはさすがにマズイと思うけど」

「……が」

和室の明かりをつけ、バッグを下ろして畳に腰を下ろす。


「"ここでなければ駄目だ"と、言っていた」


佐助はテレビを点けようと握ったリモコンを下ろし、幸村を見る。

「…それって、アンタが言うべきことじゃなく?」

「…そうだな」

苦笑いしてしまった。




「…行ってよかったと思っている。に、上田を見せられてよかった」




佐助は少し目を見開く。

「あの方」にではなくて、「彼女」にと言ったことに少し、驚いて。


「…そっか」



"大将は、昔のようになって欲しいって望んでるんですか?"



同じ質問をこの男にしたら、どんな顔をするだろうか?

怒る?

戸惑う?

驚く?



(…驚かれたら、逆にこっちが驚くわ)



ひょっとしたら、昔に固執してるのはこの人じゃなく俺の方なのかもしれない。

この人が「あの方」以外と恋をすることなんて考えたことがないから。

「あの方」以外の女を愛した真田幸村を知らないし、

「あの方」以外の女に愛された真田幸村も知らない。


「…ねぇ旦、」


顔を上げて横を見ると、いつの間にか幸村は布団に入って眠っていた。

布団に対して体が斜めになっているから、帰り仕度をしているうちにそのまま眠ってしまったのだろう。

こっちの気もしらないで、と少し呆れたが苦笑しながら部屋の明かりを消す。




もし

もし、そうなったら

この思いは何処へ行ってしまうんだろう

最初から無かったことにされて、

まるで「今」の二人の為に「過去」の二人があっただなんて

(…俺が、そう思いたくないだけだ)


あの人の隣にいるのはあのお方だけだって、

ただ漠然と思っていたんだ





『幸村様』






『もう、大丈夫ですよ』







信玄に殴られた左頬にひんやりとした感触を感じて目が覚めた。

寝る直前まで熱を持って赤くなっていたはずだったのに、指で触れても痛みはない。

何かの夢を見たような気もするが忘れてしまった。

むくりと起き上がると隣の佐助はまだ眠っている。

携帯を手繰り寄せて時間を見ると6時半を少し過ぎていた。

昨日あれほど歩きまわったのに体の疲れはまったくなく、むしろすっきりした目覚めだ。

布団を出て顔を洗い、散歩でもしようと着替えて離れを出た。

「……ん?」

離れを出てすぐ、本家の庭に人の姿がある。

花壇の前にしゃがみこんでいるのはだった。

庭に近づいていくと足音に気付いたは顔を上げて立ち上がった。

「おはよう」

「おはよう。早いな」

「なんか目が覚めちゃって…暇だから庭の手入れ」

はそう言って土に汚れた手のひらを見せた。

白い手の平と形の綺麗な爪が汚れるのも気にせず草取りをしていたらしい。

「手伝っても良いか?」

「いいけど…手汚れるよ?」

「庭仕事とはそういうものだ」

幸村はそう言っての隣にしゃがみ、草取りを手伝い始めた。

「あ、それ違う、出たばっかりの芽だから抜かないで」

「え」

毟ろうとした小さな芽を慌てて離し、「雑草はそっち」と言われた草を黙々と毟る。

思えばこうして素手で土に触るのは随分久しぶりのことかもしれない。

「昨日は…すまなかった。俺のせいでお館様に叱られることになってしまって…」

は隣で草を毟りながら顔を上げる。

「それはもういいってば。っていうか…怒られたの私より幸村でしょ。

 …見たところ腫れてはいないみたいだけど」

はそう言って幸村の左頬を見た。

昨夜本当に殴られたのだろうかと思うほど頬はきれいだった。

昨日玄関で別れた時はあんなに赤かったのに。

「されど、お館様や本家の方々に心配をかけさせてしまったことは事実。

 何らかの形でお詫びをせねば…」

「大袈裟だよ。別に何か事件に巻き込まれたわけじゃないんだし、もう子供じゃないんだから」

毟った雑草を小さなバケツに放り込み、は土まみれの手をパンパンと叩き合わせる。

それはそうだが…と幸村が渋い顔をしていると、

はしばらく首を捻った後なにかを思いついたように幸村を見上げた。

「…別にそのお詫びを請求するわけじゃないんだけど、

 東京に戻ったら、付き合って欲しい所があるんだ」

「?俺に?」

幸村は首をかしげてを見る。

は「うん」と頷いた。

「俺が行ける場所ならばどこへでも付き合うが…」

付き合って欲しい所というのが全く見当もつかず、幸村は首を傾げたまま答える。

「じゃあ、後でメールする」

はそう言って再び花壇と向き合った。

再び黙々と草取りを始めてそれ以上のことは言ってこなかったので、

幸村も花壇と向きあって草取りを再開する。



(…頬が、冷たい)



左頬だけがやけに冷たいような気がした。

殴られた後ならば腫れて熱くなるのが普通なのだろうが、

いくら触ってみても痛みはないし腫れてもいないようだ。

冷たいのに、誰かが触れたような部分的なぬくもりと感触が残っている。


様、朝ご飯の支度が整いましたよ」


縁側に出てきた使用人がに向かって声をかけてきた。

「すぐ行く」

は返事をして立ち上がったので幸村もそれに続く。

「佐助を起こしてくる」

「うん、お願い」

「あ」

庭の端に設置された水道で手を洗い、家に戻ろうとしたの横顔を見て咄嗟に手を伸ばす。

「土が…」

左の頬骨のあたりに付着していた土を指摘しようとしたのだが、

思いのほかが大きく振り向いたので伸ばした手がそのまま白い頬に触れる形になってしまった。

目を丸くしてこちらを見上げると視線がかち合い、はっと我に返る。

「……!す、すまぬ!!!!」

シュバッと効果音が付きそうなほど素早く手を引っ込めて後ずさると、

花壇のレンガに踵がぶつかって少しよろけた。

「佐助を!!起こしてくる!!!」

よろけたまま踵を返して数秒前と同じ台詞を言い、逃げるように離れへ戻る。

「………………」

濡れた手で触れたので結果的に付着していた土は取れたのだが、

は自分でもう一度左頬に触れてしばらく庭に立ち尽くしていた。




庭が見下ろせる二階の自室でその様子を眺めていた信玄は静かに窓の傍を離れる。


『大将は、昔のようになって欲しいって望んでるんですか?』


「…莫迦なことを」


望んでいるのは今も昔も同じ。

たった一人の娘に、ただ幸せでいて欲しいということ。




To be continued