朔夜のまたたき-26-








「…上田……?」



ぽつりと、呟くように繰り返したのはだ。

幸村は勘助の前に立ったままぼんやりとしていた。

不思議と頭はすっきりしていたが体は酷く重たい。

少しでも体の重心を崩したらふらついて後ろに倒れてしまいそうだ。


「…だから、姫様はああも上田に固執なさっておられたのですね…」


勘助が納得するように頷きながらそう言った。


…結局、

あのお方を上田に出向かせてしまったのは俺だ。

無責任な口約束のせいで

俺が、



「行こうよ、上田」



背後から聞こえた声。

幸村は勘助の方を向いたまま呆けていたが、

そう言ったのがだと気付くと慌てて振り返る。

はじっとソファーに座ったまま真っ直ぐ幸村を見上げていた。

「それが450年前に幸村と姫様がするべきことだったんでしょ?」

「い、いや…これ以上俺の我儘に付き合わせては…」

「我儘だと思ってたらこんなところまで一緒に来てもらったりしないよ」

そう続けるの表情は真剣だった。

しかし幸村は動揺を隠せない。

彼女が過去を知る前までは、彼女が全てを知ることになっても昔の自分の思いを

押し付けることだけは止めようと思っていた。

これはあくまで450年前の自分が成せなかったことであって、

彼女をそれに巻き込んでしまうのはあまりに身勝手すぎる。

第一、

「…俺には今更約束を果たす資格など…っ」

「資格とか、そういうのは私には関係ない。今の私が約束したことじゃないんだし。

 約束とかそういうのを抜きにして、単純に私が上田に行ってみたいって理由じゃだめなの?」

う、と言葉に詰まる。

そういう言い方をされると嫌だとは言いにくい。

男は女の言う「だめ?」に弱いというが、自分も漏れなくその内の一人のようだ。



「連れて行ってやってくれぬか、幸村」



客間と隣接している部屋の襖が開き、信玄が口を開く。

「し、しかしお館様…」

「ワシはぬしらの交わした約束については何も知らぬ。

 だが、これまでずっとお前がそのことを気にかけていたことは知っておる」

再び言葉に詰まる。

今も昔も、幸村は信玄に隠し事をしたことがなかった。

その中で唯一言えずにいたことが、戦の直前交わした姫との約束。

彼女に前世のことを黙っているつもりでいた信玄には、どうしても言えなかった。

まるで今でも果たしたいと、言っているようで。

「幸村殿」

すぐ傍で勘助が口を開く。

「私はあれ以来、上田を訪れたことはありません。

 昔とは随分変わってしまったでしょうが…是非、姫様にお顔を見せに行ってあげて下さい」

「……、」

…そうだ。

自分が何も知らず生まれ育った故郷は、姫の眠る場所でもあるのか。

それを聞いてしまっては首を横に振ることなどできない。

幸村はもう一度横目でを見る。

「……分かりました」



謝らなければならない。

気苦労をかけてしまったこと

約束を守れず、先に死んでしまったこと

一国の姫君を武人のように死なせてしまったこと

これまでずっと、果たせなかった約束を忘れてしまっていたこと

あまりに無知な自分であったこと



「なんか変な形で里帰りになっちゃったね。旦那」

夕飯を済ませて離れに戻ってきた佐助は、和室に布団を敷きながら他人事のようにそう言った。

「…そうだな」

風呂上がりの幸村は頭にタオルを乗せたまま布団の上に座って浮かない表情をしている。

「まぁちょっと気楽に考えて行って来たらいいじゃない。あの子に上田案内してあげたら?」

「、お前は来ぬのか?」

「え。行かないよ?俺が行ってどうすんの」

さっきからあまりに他人事のように言っているからおかしいと思った。

怪訝な顔で振り返る幸村を見て佐助は苦笑しながら肩をすくめる。

「し、しかし…」

「自分の生まれ故郷なんだから道に迷うってことはないだろ。

 俺ほら、残ってる課題持ってきたし。片づけないと」

「……………」

そう言われると無理に「来い」とは言えない。

ようやく頭に乗せたタオルで髪を拭き、敷布団をじっと見詰めたまま黙り込む。

「今更、二人きりだと気まずいってこともないでしょ」

「…それはそうだが…」

思えば、なんやかんやで彼女とは二人きりで話す機会が多かった気がする。

初めて話をした時も、祭りの時も、海へ行った時も。

逆により付き合いの長いかすがと二人きりで話をしろと言われても、

今はそちらの方が難しいかもしれない。

「…なんか行きたくなさそうだね?」

「そ、そんなことはない…!ただ…まだ気持ちの整理がついていないだけで…」

「だからそんな固く考えんなって。あの子だって行きたいって言ったんだし、

 観光ぐらいの気持ちで行ってきなよ」

苦笑する佐助の横で幸村はの言っていたことを思い出す。


『小さい頃から天文に興味があって』


かすがにも話したことがないと言っていた。

立派な志なのだから隠す必要なんて、と思ったが、彼女は彼女なりに家柄の後ろめたさもあるのだろう。



(…上田の星空を)



昔の彼女ではなく、今の「」に見せたらどんな顔をするだろう?

喜んでくれるだろうか?





翌日


「じゃあ行ってきます」

「行って参ります」

松本行きの始発列車に乗ることにした2人は朝早くに仕度を整えていた。

本家の使用人もようやく起き出す時間だったが、既に外では蝉が鳴いていて

日差しはじりじりと背中を照りつける晴天だ。

「気を付けてな」

玄関では信玄が見送りに出ている。

離れからは佐助が部屋着のまま出てきて眠そうに手を振った。

駅に向かう車を見送り、佐助は頭を掻きながら信玄に近づく。

「…大丈夫だったんですかね。二人で行かせて」

「なに、心配することはない。もう子供ではないのだからな」

信玄は笑いながら踵を返して玄関を開ける。

「まぁそうですけど…でもよく二人だけで行かせましたね。

 いくら旦那でも道中心配だと思って、てっきり俺も行かされるもんだと」

「無論、何か事があれば幸村には然るべき措置が必要じゃな」

「………親馬鹿」

聞こえないようにぼそりと呟いたが「何が言うたか?」と言われ慌てて首を振る。


「……大将は…昔のようになって欲しいって、望んでるんですか?」


佐助の問いに信玄は立ち止まる。

「…よくそんなことが訊けたのう、佐助?」

信玄が振り返らずにそう言ったので佐助は思わず身構えた。

やばい、聞かなきゃいいようなことまで聞いてしまった。

「ワシはもう何も望まぬ。が良いと思ったことの助力をするのみよ」

信玄はそう言って家の中へ入っていった。

佐助は再び頭を掻きながら溜息をつく。

…はぐらかされた感が否めない。


(…こればっかりは…どうしようもないよなぁ…)




『幸村様』




『おかえりなさい、幸村様』





「、」


ばちっ、と両目を見開くと、すぐ傍でがびっくりした顔をしている。

肩を叩こうとしていた右手が宙に浮いていた。

「…そろそろ着くから…起こそうと思ったんだけど」

がそう言ったので慌てて体を起こして左右を見渡す。

松本から長野で乗り換えたところまでは記憶にあった。

昨日あまり眠れなかったせいか途中で眠ってしまったようだ。

流れる車窓に目を向けると見慣れた街並みが見えてきた。

駅のホームが見えてくるとがバッグを持って立ち上がったので、幸村も慌てて後に続いた。

(…確かに、妙な形で里帰りしてしまったな…)

ホームに降り立った幸村はぼんやりとそんなことを思う。

佐助と一緒に上田へ帰ってきたことはあったが、女子が一緒なのは勿論初めてだ。


「きれいな街だね。城下町って感じ」


改札を抜けたがそう言って駅前の広場を見渡す。

お盆休みということもあって少し混雑しているようだったが、

東京に比べれば閑散としている方だろう。

「上田城って、ここからどれくらい?」

「歩いて15分ほどだ」

幸村は腕時計を見ながら答える。

そろそろ12時になろうとしていた。

「じゃあ先にご飯食べよ。信州そば食べてみたい」

はそう言って先に歩き出す。

だがその足取りはどこか軽やかで、少なくとも嫌々歩いているようには見えなかった。

幸村もその後を追いながらふいに空を見上げる。

甲府はあれほど晴れていたのに、頭上には今にも降り出しそうな曇天が広がっていた。




同時刻・越後


「どうして越後に里帰りしてまで貴様の声を聞かなければならないんだ!」


長閑な越後の山中にある謙信の別荘で、かすがは携帯に向かって声を荒げていた。

謙信はそんなかすがを微笑ましく見守りながら縁側で茶の湯を楽しんでいる。

『いやーまさかお前も里帰りしてるとは思ってなくてさーごめんごめん』

「貴様知っててわざと掛けてきただろう!」

『まさか。お前も知っときたいんじゃないかと思って電話しただけだって』

「…甲斐の姫のことが何か分かったのか?」

隣県にいる佐助の声にかすがは眉をひそめる。


『姫様は上田で討ち死にした。真田の旦那が大阪で死んだ後、すぐ』


かすがは言葉に詰まる。

中庭の蝉の鳴き声が耳触りだったが、それは恐らく甲斐も同じことだろう。

しばらく無言でいると、ようやく佐助が「もしもーし?」と言ってきた。

『あんま驚かないんだ?』

「驚いてはいる…だが少し、もしかしたらそうなのではないかと思っていた」

かすがは梁に寄りかかったまま、腕を組み直してそう答える。

すると電話の向こうで佐助が鼻で笑った。

『姫様に会ったこともないくせに?』

「会ったことがないから逆に何を思おうと私の自由だろう」

確かにそうだ、と佐助は苦笑する。

「…貴様こそ、本当はそう思っていたんじゃないのか?」

『まさか。俺は旦那に比べて姫様と交流ないし、そんなこと考えるなんて身の程知らずでしょ。

 もし姫様があの戦の後どこかに嫁いで、誰かの奥方になってたとしても驚かなかったよ。

 むしろそれが一般的な姫様の生き方だろうしね』

「……………」

つくづく物事に感情移入しない奴だ。

例えそれが自分のすぐ傍で起こっていることだとしても。


『…でもま、旦那も姫様も抜きにして、誰かに聞かせる武将と姫の恋物語なら

 俺もこういう結果を望んだかもね』


佐助はそう付けくわえて笑う。

かずがは「捻くれ者め」と舌打ちした。






To be continued
ルート調べたら東京→新宿→甲府→松本→長野→上田らしいです。
乗り換え3回。