槍を携えたが部屋から出てくると、城の侍女は驚いて駆けよってきた。

「っ姫様!一体何を…!」

「…袴を貸して頂戴。それから脛当てと篭手、女子が着用出来るものを用意して」

「え……!?し、しかし…!」

「早く!」

これまで声を荒げたことのない姫の切迫した表情に驚いた侍女は、「はい!」と返事をして廊下を駆けて行く。

は部屋の前から雨に濡れた上田の城下町を見下ろし、下唇を固く噛みしめた。

手摺を掴む細い指はカタカタと小刻みに震えている。


「…どうか、お力を御貸し下さいませ…」


貴方はなんと仰るでしょう

私が生き延びてどこか遠い地で平穏に暮らすことが望みだったと仰るならば、

残念ながら私はそれに従うことが出来ませぬ。



私は貴方以外の誰にも幸せになどされない。

この地以外の何処であっても、私は幸せになどなれない。





朔夜のまたたき-24-






半刻ほどして姫は城下に下りてきた。

出迎えた勘助はの姿を見て目を見開く。

「ひ、姫様…一体何を…!」

綺麗な着物を脱ぎ捨て、侍女の白い小袖と赤い袴姿で姫の見る影もない。

形だけ篭手で武装された細い右腕には嘗ての城主の槍が握られていた。


「私も此処で徳川を迎え撃ちます」


姫の言葉に再び民がざわめき出す。

「以前、貴方から薙刀を教わったことがあるでしょう。私も戦います」

「姫様!戦場は稽古場とは訳が違いまするぞ!

 この勘助、無礼を承知で申し上げる。付け焼刃で覚えた武術、増して女子の細腕で

 太刀打ち出来るほど徳川の兵は甘くは御座いません!!」

「…今この場で問われるのは出来るか否かの意志なの?」

姫は槍を握りしめ、反対に勘助に向かって問いかける。

その瞳には見たこともないような強い光が宿っていた。


「ここにはもう父様も幸村様もいない。なら誰がこの上田を守るの?

 兵士たちが戦い死んでいく様を黙って見ているなど…私には出来ない。

 姫だからという理由で最後まで守られなければならないのなら、

 泰平の世を願う民の命と引き換えに生き延びねばならないのなら、私はそんなもの喜んで捨てる!

 私は言ったわ、動ける者は武器を持ちなさいと。私は動ける!武器を持てる!

 それ以外に戦場に立つ理由がいるの!?」


大将や武将たちが国の強さの象徴なら、姫は豊かさ・気高さの象徴なのだと昔誰かが言っていた。

だけど今は、国の強さを象徴してくれる人は誰もいない。

ならば私が代わりをする。

甲斐は強い国なのだと、私が証明しなければいけない。


勘助は口を一文字に結んで難しい顔をしていたが、の表情に圧倒されてゆっくりと口を開いた。

「…分かり申しました。ですがくれぐれも、ご無理のなさらぬ様。

 お館様も幸村殿もいない今、甲斐には貴女様が必要なのでございます」

「分かっているわ」

は頷いて両手でぎゅっと紅い槍を握りしめた。

「民の逃げ道は」

「大手門前から裏山へ抜ける道がございます。あの山は断崖絶壁、徳川も背後から攻め入っては来れぬでしょう」

「…そう」

固く頷く様は自分に言い聞かせているようにも見えた。

槍を握る右手は小刻みに震えている。

護身用にと以前少し薙刀を教えた程度で、これまで一度も戦に出たことのない姫君。

戦を恐れるのは当然のことだ。

勘助は横目でを見ながら拳を強く握りしめる。


(……幸村殿)


何故、このお方を置いて逝ってしまわれたのですか。

このお方は甲斐に必要なお方だ。

このようなところで死んではならない。

貴方もこのようなこと、望んではおられぬはず。


「勘助」


ふいに声をかけられて顔を上げると、柔和に微笑むの姿があった。



「良き戦にしましょう。明日の甲斐のために」



砂煙に靡く赤い鉢巻きが貴方のようだなんて

恐れ多くも、思ってしまう



「………御意」



上田の城下を抜けた荒野の先に徳川の先陣が見える。

旗の数を見ただけで勢力の差は明らかだった。

は葵の紋を睨みつけながら槍を構える。

狼煙が上がり、法螺貝の音が上田に響き渡った。

馬が駆ける地鳴り。足音や怒号が姫の足を竦ませる。

「姫様、」

「…平気」


「私は、甲斐の虎の娘なのだから」


草鞋が砂を蹴る。

先遣隊が先に駆け出し、敵の騎馬隊が足止めされている間に足軽が攻めてくる。

明らかに武将とは違う兵士の姿を確認すると、敵の刃は真っ先にへ向かってきた。

は長い槍を両手でしっかり持ち、右脇から勢いよく薙ぎ払って相手の刀を防いだ。

丈夫な槍の柄は刃の浸入を許さなかったが腕力が足りない。

踏ん張った両足が後ろへ押されそうになるが槍を持ちかえて相手を押し切り、半歩引く。

槍の先が下がった一瞬をついて降り下ろされた刀が白い小袖を裂いて細い腕を斬りつけた。


「………ッ」


感じたことのない痛みに顔を歪め、思わず声を上げてしまいそうになるのを必死に堪える。

ふらついた足元に力を入れ直し、再び槍を持ち変えて相手の脇をめがけて槍を突きだした。

槍の先端が肉に食い込む感触。

だが今のには初めて人を殺したという感覚は全くなかった。


何かを護るための戦がある。

戦では人が死ぬ。

それが自分の身内であったり、想い人であるかもしれない。

戦とはそういうものだと、父がずっと言っていた。

自分の殺した目の前の敵が誰かの身内や想い人であっても、

人を殺めるということはそれら全ての思いを受け止めることなのだと。


「姫様!」


目の前で倒れて行く敵に気をとられているとすぐ傍で声が聞こえて、背後に殺気を感じた。

こちらに向かって突進してくる敵武将を前にもう一度構えようとすると、

赤い鎧の武将が飛び出してきて敵の進行を阻む。

「大事はありませぬか!」

敵が倒れたのを確認し、勘助が振り返る。

は槍を下ろして息を吐いた。

だが勘助はその場にがくっと膝をついて倒れこんでしまった。

「勘助!」

は槍を置いて慌てて駆け寄る。

「申し訳ござりませぬ…足を……」

勘助の右脚には矢が数本刺さったままだ。

具足にはじっとりと血が滲み、草鞋を真っ赤に染めている。

「肩を貸すわ、立って…!」

は勘助の腕を肩にかけ、体を起こそうとする。

だが甲冑で武装している男の体が女の力で起き上がるわけがなかった。

「なりませぬ姫様…ッ某のことは構わずお逃げ下され!!」

「駄目よ!さぁ早く!」

そう言って肩を担ぎ、渾身の力で体を起こす。

勘助がある程度自力で立ち上がったのもあるが、火事場の馬鹿力というべきか

細い腕はなんとか武将の体を支えて立ち上がった。

斬られた右腕から血が溢れて激痛が走ったが、そんなことは気にも留めず歩を進める。

倒れている無数の赤い軍旗と民兵たちの死体

四半刻も経たない間に上田の兵士は半数以下となってしまった。

は死体から顔を背け、固く目を瞑る。

「早く矢を…」

やっとの思いで岩影まで引き摺ってきた勘助を座らせ、裂けた小袖を破こうと立ち上がった瞬間

乾いた音が耳元で響いて振動で体がびくりと揺れた。

座らせた勘助が目を見開きこちらを見ている。

動かないはずの右脚が反射的に動いて駆けよってきた。

対照的にの体は傾いていく。

駆けよってくる勘助の姿も、傾いて見えた。



痛い。



そう感じたのは地面に倒れる直前のことだった。


「姫様!!」


倒れた体を抱き起こされたところでもう一度痛みが走る。

左鎖骨の下あたりに切り傷とは比べようのない痛み。

痛い、というより体の肉を一部に無理やり寄せ集めて千切り取ったような。

…それを痛いというのか。

これまで生きてきて感じたことのない痛覚だから、これが「痛い」という表現で正しいのか分からない。

ぎしぎしと首を動かして自分の胸元を見下ろすと、白い小袖の襟が真っ赤に染まっているのが見えた。

呼吸をしようとして、阻まれる。

息が苦しい。

勘助に支えられた背中がぬるりと滑る感触がした。


「……勘助、」

「お話にならないで下さい!鉛玉が…っ」


いつも赤らんでいる彼の顔が珍しく蒼白で、はようやく自分の置かれている状況を理解した。


撃たれた。…らしい。

目の前で撃たれた人間を見たこともなければ、当然これまで生きてきて鉛玉に撃たれたという経験もない。

だが傷はあるのに周囲に存在しない敵や武器

心臓の近くに感じる異物

臓器以外の何かが自分の体に残っているという感覚しかなかった。


「…鉛玉は……簡単にひとを、殺せるのね…」


喉の奥が引きつってヒュッと音が鳴る。

槍を手放した指先がジンジンと冷たくなってきた。


「何を仰います姫様…!!貴女はまだ…!」

「…私は…浅ましい女だわ…」


掠れた声で呟く姫の言葉を聞き、勘助は思わず止血の手を止める。

「甲斐の為、上田の民の為と言って…結局はこの地に縋りたいだけなの…」

「姫様何を…」

「私は、此処でなければならないの。どうしても…上田でなければいけないの」

そう言って瞑られた瞳の端からうっすらと涙が滲んだ。

無意識に傷口を押さえる白い手がみるみる土色に変色していって、

勘助は思わずその手を強く握りしめた。

そうすると自分も何故だか泣けてくる。


「…………ッ」


ああ誰か、このお方をお助け下さい。

まだ連れて行かないで下さい。


例えこの願いがお二人の願いを阻む結果となっても、

某は喜んでお二人からのお叱りを受けましょうぞ。


「…貴女が生き延びてお幸せになられることこそ…

 幸村殿の願いだったのではござりませぬか…!?」


恥ずかしくも流れた涙が姫の頬に落ちる。

姫は顔を上げて苦笑した。

「それは、戦場で生きる殿方の勝手な思い込みだわ…

 武家の女は殿方が思うよりずっと、狡猾で逞しいものよ」

ふふ、と笑ってゆっくり目を閉じる。



「…は、幸せでございましたよ。貴方が思うより、ずっと」



何十年、何百年先の来世に、もし


私の魂を受け継ぐ者がいたとしたら


…どうか、どうかお願いだから

あの人に会えるまで、「私」を誰にも渡さないで


頑なでいて。


今の「私」だけが、「私」の中にだけ秘めておくの。




「…幸村殿がご健在でも、きっと…それは解らず仕舞いだったのでございましょうな…」




姫の柔らかな表情にぎこちなくつられて笑みを浮かべた勘助の声は、

誰の応答も得られることなく戦場の怒号に消えた。




…幸村殿

某のしたことは、間違っていたでしょうか


あのまま姫様を逃がし、戦を逃れた安息の地で

最期まで姫としてあのお方を生かしておくことが某の使命だったのでございましょうか




上田の城下が一望できる裏山の崖淵に姫の遺体を埋葬しながら、

遠く離れた地に眠るこの町の城主に向かって何度も問いかける。

返答があるわけもなく、勘助はその疑問を抱いたまま再び戦場へと駆け出した。






「これが、私の知る全てにございます」


勘助が話し終えた後も、幸村はただ呆然と中央のテーブルを眺めていた。

頭に酸素がうまく回らず、思考回路が働いていないことがよく分かる。

すると横に立っていたがいきなりすっくと立ち上がり、徐にチュニックの襟を引っ張って白い首筋を露わにする。

それを見た幸村は我に返り、慌てて立ちあがった。

「な、何をしている…!」

チュニックの下のキャミソールが見えて咄嗟に自分の目を手で覆う。

「いいから見て」

見てと言われても。

目を覆っていた手を無理やり引っ張られて再び視界が開けると、の白い鎖骨が目に入った。


「………それは…」


目線は左鎖骨の真下に向けられる。

浮き出た鎖骨の下に3〜5cm大の青黒い痣がはっきりと見えた。

それは白い肌で異様すぎるほど目立っていたが、見るからに打ち身でつけた痣ではないことが分かる。

「…生まれた時からあるの。背中の同じ位置にも…」

海へ行った時、かすがにだけ見せた鎖骨の痣。

これから先、誰に見せるものでもないと思っていたのに。


「これは、姫様が受けた傷だったんだね…」



『幸村様』



…俺は何を。



呆けた顔で痣を見つめていた幸村はどさっとソファーに腰を沈める。



…どんな思いだったのだろう。


約束も果たせず

鉛玉を受けて

姫としてでなく、まるで武人のように非業の死を遂げたこと



「…姫様は」

ふと勘助が口を開く。




「最期まで、幸村殿を想っておられました」




俺は何も知らず、ただ漠然とした希望があって


幸せに なっていて欲しいなどと


他の誰かと結ばれ、戦など忘れていて欲しかったなどと





「……………ッ」

顎が震えて瞳が揺れる。

食いちぎってしまいそうなほど噛み締めた下唇を緩めればその瞳に貼った水の膜が零れてしまいそうだ。

腿の上に置いて爪を立てた右手がわなわなと震え、全身が熱くなっていく。



何が幸せだ

俺如きが、あのお方の何を悟れたというのだ




「…………、」



血管が浮き出た右手に、ひんやりとした感触。

隣に座るの左手が熱い右手の上に乗せられている。

一周り小さく、細く柔らかい女の手。

武骨な男の右手を覆ってその熱を吸い取っているようにも感じた。

顔を上げてを見たが彼女は黙ってまっすぐ正面を見つめている。

彼女もまた、色素の薄い下唇を噛み締めて必死に堪えているように見えた。



"幸村様"



一度だけ、触れた。



"は、ずっとお待ち申しております"



あの日、戦場へ向かう自分を見送りながら

この手を確かに握った。



「………………っ」


僅かに開いた唇の奥で歯が震え、目頭が熱くなった時には遅かった。

更に唇をかみしめて下を向き全身の震えを止めようとしたが叶わない。

腿の上に落ちた涙を見ないように、

必死に抑えた嗚咽を聞かないように、

はただ黙って正面を向き、ただ黙って幸村の右手に自分の左手を乗せていた。





To be continued
回想は勘助さん夢と捉えてくれて構いません(真顔)