此処は、どこだ




風が冷たい

酷く寒い


目の前に見えるのは鉛色の分厚い雲だけで

頬を撫でる風は生温いのに、自分の体は触れたものすべてを冷たいと感じてしまう。

耳元で聞こえるのは誰の声だろう

心なしか自分を呼んでいるようにも聞こえるが、違うかもしれない。

籠っていてよく分からない。

背中に生温いものを感じ、鬱陶しくなって掃おうとしたが腕が背中に回らなかった。


手が動かない。


指先も、腕の関節も、まるで鉛玉に押しつぶされているようにびくともしない。

すぐ傍に突き立てられている棒はなんだ?

俺は何を持っていた?

確かめようとして起き上がったつもりだったが両足が動かず、両目は相変わらず雲だけを見ている。


立てない。


ぱち、と一度瞬きをしたところで漸く気付いた。




俺は死ぬのか。




そういえば呼吸が苦しいような気がする。

いつもより鼓動が遅い気がする。

腰から脇腹にかけてひどく風通しがいいような、それでいて燃やされているように熱いような気がする。

気がするだけで本当はそんなことはないのかもしれない。


「…俺は…死ぬのか」


思ったことを口に出す。

先ほどから耳元で聞こえていた声が何度も何度も俺の身体を揺すっている。

…済まない、聞こえないんだ。


「……上田に、上田に…戻らなくては…」


再び起き上がろうと両腕に力を入れたがやはり体は動かなかった。

上田に戻ってどうする?

俺は、あそこで成さなければならないことを残してきた。

俺は上田に戻らねばならない。


「…姫様」


瞼が下がる。酷く眠い。



ああどうか



あのお方のお姿を思い浮かべるだけの思力を。






「姫様…」








朔夜のままたき-23-








450年前・甲斐


自室にいたはぱっと顔を上げ、後ろを振り返った。

誰もいない部屋

城の者もほとんど出払っていて、城内には自分と侍女が数人いるだけだ。

でも今聞こえたのは確かに


「…幸村様……」


すっくと立ち上がり、勢いよく障子を開けて廊下に出る。

いつの間にか外は雨が降っていて縁側は少し濡れていた。

廊下にも人はいない。

何度も左右を見渡したが、長い廊下の端から彼が歩いてくることはなかった。

すると

「姫様!」

すぐ傍から今度は侍女の声。

バタバタと足音が近づいてきて、息を切らしながらの前に立つ。

「幸村様は…?お戻りになられたの…!?」

「い、いえ…お戻りになられたのは勘助様でございます。

 他五名の騎馬隊と共に…幸村様はまだ……あッ姫様!」

侍女が説明し終える前には廊下を駆けだした。

長い着物の裾を持ち上げ、裾が割れるのも気にせず走る。

中庭に甲斐の武将の姿を確認すると草履も履かず足袋のまま庭に出た。


「勘助!」


馬を停めていた勘助はに気付く。

「姫様!ご無事で…!」

「酷い怪我…!大事はないの…!?」

近くで見ると甲冑のあちこちに亀裂が入り、肩口に折れた矢が刺さっているのが見える。

具足は血だらけだったが勘助はしっかりと立って固く頷いた。

はほっと胸をなで下ろしたが、次の瞬間再び嫌な予感に苛まれる。


「幸村様は…?ご一緒ではないの……?」


勘助と一緒に戻ってきた騎馬隊はみな真田の六文銭を掲げていたが、幸村の姿はない。

勘助は他の武将たちと顔を見合わせ、顔を伏せる。

だがすぐに顔を上げ、固く結んで震わせていた唇を開き、を見た。




「…幸村殿は、大阪で…」





雨音は

勘助の言葉を遮ってはくれなかった。

傍にいた侍女が言葉を詰まらせて両手で口を覆う。

勘助はしばらく黙りこんだ後、再び口を開いた。

「…此処も危のうございます。一刻も早く、隠れ里へ避難を」

勘助はそう言って姫に一礼し、馬に跨ろうと鐙に足を掛ける。


「…勘助」


思いがけず口を開いた姫に驚き、勘助は振り返る。

そこには見たことのない表情で立つの姿があった。

「…貴方は、上田に戻るのですね?」

「は、上田にいる民兵は僅か五百…一刻も早くこのことを報せに戻りませんと…」

「…私も一緒に連れて行って」

「な、何と……!?」



「上田の民には私が伝えます」




雨でぬかるみ足場の悪い山道を走り続け、騎馬隊は上田に到着した。

城下には民兵が集まっており、駆けつけた騎馬隊を見ると安心したような表情を見せたが、

先頭の勘助と一緒に乗っていた一人の姫が地面に降りると慌てて膝を着く。


「皆顔を上げて、私の話を聞いて下さい」


武田の姫の顔はそこにいる誰もが知っていたが、

彼女がこうして上田に来ることは初めてだった。

民兵たちは驚きを隠せず、おずおずと顔を上げて姫の顔を見る。

は下唇をきゅっと噛みしめて一呼吸おいてからゆっくりと口を開いた。



「…幸村様は、大阪の戦にて討死なさいました」



姫の言葉を聞いた上田の民はざわめき出した。

泣き崩れる者や、膝を着いて呆けている者もいる。

どこからか「そんな…」と声が漏れて、民家から出てきた女や老人たちも肩を抱き合いながら泣き出した。

「…もう駄目だ…幸村様がいなけりゃ上田はおしまいだ…!」

頭を抱えていた民兵の一人が声を出す。

「そうだ…幸村様なしで徳川に敵うはずがねぇ…!」

「武田もここまでか……っ」

泣きながら弱音を吐く民たちを見渡し、は下唇を噛みしめた。


「落ち着きなさい!」


柔和な姫から発せられた厳しい声。

たちまち民から不安の声が消える。

「徳川の手はすぐそこまで迫っています。一刻の猶予もありません!

 動ける者は武器を持ちなさい!御老体、女子供は城の中へ!」

「し、しかし姫様…!徳川軍は十万!上田にいる民兵は五百に及びませぬ!このままではっ…!」

「…例え力の差が歴然であろうと、幸村様は敵に背を向けることなどなさいません。絶対に!」


「上田は真田の町です!何人も荒らすことは許さない!!そうでしょう!?」


そこにたおやかな姫君の姿はない。

着物が泥に汚れることなど全く気に留めず、自分の前に集まり不安気な表情を浮かべる民草に向かって激を飛ばす。

民兵たちは顔を見合わせ、頷いて各々武器を手に持った。

「…そうだ…!上田は真田の町だ!」

「上田は我らが守る!!」

「陣形を立て直すぞ!」

再び団結した民兵を見るとも安心したような表情を見せたが、

すぐにその場を離れて城下を抜け、城へ向かって歩きだした。


「お強いお方だ…一番お辛いのは姫様だろうに」

「幸村様とは諸恋であられただろう」

「上田の姫様になって下さるのを皆楽しみにしていたんだがな…」



城主のいない城は、とても静かだった。

来たことのない城だったが何となく初めて来たような気がしない。

ところどころに見える柱の傷や整然とした鍛錬場を通り過ぎて、最上階の部屋の前で立ち止まる。

閉め切られた障子をゆっくりと開けてほっとした。

彼の部屋だ。

父が書いた掛け軸が吊るされていて、整理が行き届いているというよりあまり生活感のない部屋。

一日のほとんどを甲斐か鍛錬場で過ごす彼にとって、部屋は寝るためだけのものだったに違いない。

敷居を跨ぐとキシ、と軽く音がする。

寝床の傍に衣桁があり、淡い色の着流しがかかっていた。

少し躊躇ってから指先で触れ、感触を確かめるように指でなぞってその袖をきゅっと掴む。

当然だが、自分は武装した彼の姿しか見たことがなかった。


「…私は、貴方の何も存じませんでしたね…」


なんだか可笑しくなって笑ってしまう。


貴方はこの場所でどんな表情をしていたのでしょう。


貴方の好きな食べ物は?

好きな言葉は?

好きな和歌は?

好きな季節は?



わたしのこと、好きでしたか?




「…………っ」


かたかたと下顎が震えて短い嗚咽が漏れる。

それを抑えようと唇を噛み締めたが、追い打ちをかけるように流れてきた涙が唇を横断して頑なな口唇をこじ開けた。



「……幸村様……」



こわい


貴方のいない世界を生きていくのが、とても



恐ろしい



「幸村様…ッ、幸村様…!」



ぼろぼろと溢れる涙が愛しい名前を呼ぶ口に侵入してそれを阻む。

塩辛い。



「…っゆきむらさまぁ…!」



がく、と膝が崩れて倒れるように蹲った。

彼の匂いの薄れた着流しに顔を埋めても声を抑えることなく、大声で泣く。

涙は乾いた絹にみるみる吸い取られていくが枯れる気配などない。

むしろこのまま涙腺を壊して体の水分の一滴まであの人の為に流したいと思う。




恐らく私は、貴方の前で一度も泣いたことなどなかったでしょう




それもひとえに、貴方がいつも私を笑顔でいさせてくれたから

貴方が直向きで率直だったからこそ、

私はいつも笑っていようと

笑って いたいと思っていた


戦場に向かう武士の想いなど女子の私には解らないけれど、

せめて、

せめて貴方が二槍を下ろしている間は、

貴方の目に私が映っている間は

笑顔でありたいと、穏やかでありたいと、思っていた

そうすれば貴方も笑顔で、穏やかでいてくださるから。


お伝えしたかった。

子供のように駄々をこねて泣いて、「行かないで」と言いたかった。


留まらせてくれたのも貴方だし、

そう思わせたのも貴方でしょう?



あの方の一部になりたいと願った



あの方の一部になれると思った




私如きが、あの方の何だったというのだろう




貴方がいなくなってしまった今、

私という存在はこうしてただ弱く拙く泣き崩れるだけの女だというのに。



「………、」



床の間に保管してある、一本の槍。

以前使っていた物の一本が折れてしまい新調したと聞いたことがある。

ここにあるのは恐らく無事だったほうの一本だ。

そっと両手で持ち上げてみるとずしりとした重さがか細い手に圧し掛かる。



「…お借り致します」



柄に巻かれた赤い鉢巻きを解き、長い髪を固く縛る。

肩に流れた鉢巻きの端を手繰り寄せて握りしめ、口元にもっていって目を閉じた。




今私の中にあるのは


貴方が護ったこの地で朽ちる覚悟のみです







To be continued