朔夜のまたたき-18-
「えーこれから期末テストの総合結果表を渡す。
夏休み中に補習が必要な科目については赤字で記してあるから各自確認するように」
午前10時から1時間程度で2学期終業式を終え、生徒たちが安心したのも束の間。
担任の島津が結果用紙の入った封筒を開けてそう言うと、クラス中から深いため息が漏れた。
明日から約一ヵ月の夏休み。来年は受験生なので今年が夏休みを満喫できる最後の年だ。
だが補習があれば夏休みのほとんどを補習に費やさなければならない。
クラス中が憂鬱になるのも無理はなかった。
50音順の出席番号で名前が呼ばれていき、ほどなくしてかすがが呼ばれる。
ほとんどの生徒が受け取ってから席に着くまでの間に結果用紙を見るのだが、かすがは席に座ってから
結果を確認し、あまり表情を変えずに用紙を2つ折りにした。
「真田」
名前を呼ばれ、返事して教卓に近づくと島津は笑いながら結果用紙を手渡した。
「名前漏れ、次は気を付けんしゃい」
「す、すみません…」
担任が名前を書かせてくれなければ地理は0点だっただろう。
席についてから真っ先に地理の点数を見たが、ちゃんと回答した通りの点数がつけられていた。
赤字で書かれた教科も辛うじてない。
すぐに佐助が呼ばれ、受け取って席に着くと幸村の背中を叩く。
「旦那、どうだった?」
「可もなく不可もなく…いや、英語と数学は若干下がったような…」
溜息が漏れる。
中学の頃からこの2教科だけはどうも苦手だ。
クラス内順位でいけば下から数えた方が早いかもしれない。
「まぁよかったじゃん、補習なくて」
「補習などとなればお館様に叱られてしまうからな…」
幸村の所属する剣道部はテストで赤点をとると2週間部活に参加出来ない上に、
大きな大会には出場できないという規則がある。
部活に力を入れることも大事だが勉学こそ学生の務め、文武両道が好ましいというのが信玄の教えだからだ。
「よかったぁー!!ギリギリセーフ!」
後ろで慶次の大きな声が聞こえ、どうやら彼もギリギリ補習を免れたらしい。
これで予定通り来週は海に行くことになりそうだ。
担任はくれぐれも事故にないように、他校とのトラブルを起こさないようにとお決まりの注意をしてHRを締めた。
号令を終えて担任が教室を出て行くと既に浮かれた生徒たちが次々と後に続く。
「ちゃんはテストどうだった?」
「数学が心配だったんだけど…かすがに教えてもらったから逆に一番よかったかも」
慶次がの席に近づくと、はまだ仕舞っていなかった結果用紙を見ながら安堵しように答えた。
これで来週は海行けるね、と慶次が笑うとも嬉しそうにはにかんで頷く。
「俺らはこれから飯食いに行くけど一緒に行く?」
「かすがと買い物に行く約束してるから今日はいいや、ごめんね」
「そか。じゃあ時間と集合場所決まったらメールすっから!」
帰り仕度をしたかすががの席に近づいてきては席を立つ。
慶次の言葉に頷いて軽く手を振り、2人は教室を出て行った。
「さて、と。じゃあ俺らも飯食いに…あれ、幸村部活は?」
慶次もバッグを持って立ち上がったところでまだ席の近くにいる幸村を見る。
幸村は「あ!」と声を上げ慌てて腕時計に目をやった。
今日は終業式だが、ほとんどの運動部は午後から通常に活動を予定している。
都内でも強豪と名高い剣道部は尚更だ。
活動は1時からだが、時計は既に12時半を過ぎていた。
「行ってくる!」
幸村は机の上に置いていたバッグを掴み上げて駆け出す。
「旦那、昼飯は!?」
「購買で適当に買ってから行く!」
教室を飛び出しながらも律儀に佐助の問いに答え、さすがというスピードで廊下を駆けて行った。
残された4人は顔を見合わせて苦笑し、それぞれ帰り仕度を始める。
【諸恋】互いに恋いしたうこと。相思相愛。
「………………」
大通りの本屋では国語辞典と睨みあっていた。
勤勉な学生なら珍しくない光景だったが調べている単語が単語なので、
そのページを数秒見つめた後はすぐに辞書を閉じて棚に戻す。
学校から程ない大きな本屋はたくさんの客がいたが店内は静かで、緩やかに流れるクラシックがしっかり聞き取れた。
「、ここにいたのか」
棚の影からかすがが顔を出す。
「参考書か?」
「あ、うん。ちょっと見てただけ」
まさか国語辞典を見ていたとは言えず、苦笑して誤魔化し棚の傍を離れる。
「謙信先生のお使いの本、買えた?」
「ああ。付き合わせて悪かった」
「全然いいよ。暑いし、ちょっとお茶してこ?」
は本屋を出てすぐ向かいにあるコーヒーショップを指差した。
店に入ると連日続く暑さを少しでも和らげようと沢山の客が涼んでいた。
店内は外に比べ多少涼しかったがやはり冷房は押さえているようで、汗はすぐには引けてくれない。
2人は揃ってアイスコーヒーを注文し、席に座る。
「かすがって」
「謙信先生のこと好きなんだよね?」
向かいの席からぼしゃっ、と軽い音。
コーヒーより先に出された水を飲もうとしたかすがは目測を誤って口より手前でグラスを傾けた。
水はそのままチェックのスカートに零れる結果となり、は慌ててバッグからハンカチを取り出す。
「か、かすが!水、水!」
「す、すまない…」
スカートを拭いてという意味で渡したハンカチで何故か口元を拭くかすがの様子からかなり動揺の色が見える。
幸い床には少量しか零れなかったので、テーブルに備えつけの紙ナプキンで軽く拭いて2人は再び席に落ち着いた。
「ごめんね変なこと聞いて…」
「い、いや…いいんだ。ど、どうしてそう思ったんだ…?」
店員が運んできたアイスコーヒーをすすり、かすがは赤面しながら問いかける。
顔に書いてるから、とは言えなかった。
「何となく…かすがは謙信先生に仕えてる忍者だったんでしょ?
なら姪っ子ってのも嘘だったのかなって」
そういえば謙信が機転を利かせて「かすがは自分の姪だ」と説明していた。
が信玄からすべてを聞いた今、その設定を通す必要はない。
「…すまない…嘘をついてばかりで…」
「いいよ。今考えると全部納得できるし。
それに何となく、親戚っていう感じじゃないなって思ってたんだ。
謙信先生も凄くかすがのこと信頼してるみたいだったしから、
仕えてるっていうより恋人同士だったのかなって」
「わ、私等が謙信様とそのような…!おこがましいにも程がある…!」
真っ赤になって首を振るかすがを見つめるは柔らかく微笑み、ガムシロップをグラスに入れてストローを回した。
氷がぶつかる音が少しだけ空間を涼しくさせる。
「…いいなぁ。私にもそういう人がいたはずなのに、どうして忘れちゃったんだろう」
かすがは目を見開いてを見た。
グラスを見下ろす表情はどこかさびしそうにも見える。
「信玄公から何か聞いたのか…?」
は黙って頷く。
「かすがも知ってるんだ?昔の私と幸村のこと」
今度はが顔を上げて首をかしげた。
「知っているという程ではないが…佐助から少し聞いただけだ。
昔のとは面識がないから何とも言えないが…」
佐助もその辺は曖昧な言い方をしていたが、幸村の反応を見るに恐らくそうなのだろうと認識していた程度だ。
武将と姫の色恋は珍しいことではないし、
信玄だけでなく謙信も幸村の様子を気にかけていたようだった。
(…ただそれが寄りによって真田だったのかということに驚いただけで)
かすがはそんなことを考えながら再びコーヒーをすする。
元親と同じこと言うわけではないが、戦うことしか知らない熱血漢が一国の姫君と関係を持っていたというのが驚きだった。
「変な感じだよね。何百年も恋人が今は友達で、私以外はその経緯を知ってるんだもん」
グラスが結露してコースターに染みを作って行く。
「父様はそのままでいいって言ってたけど…私はまだ分からないの。
本当に私は過去を知らなくてもいいのかなって」
「…それはどういう意味だ…?」
かすがは少し目を細める。
てっきりは前世の記憶など知りたくないものだと思っていた。
前世の記憶があるという事実もまだ半信半疑だろうに、
自分の中にあるもう一人の魂というものの存在を気味悪がってはいないのだろうか。
「私はいいよ。このまま知らなくても生活には支障がないし、皆と仲良くやっていけるって思ってる。
でも、昔の私を知る人はどうなんだろうって。父様や、幸村や佐助は…
昔の自分たちを知る私のことを「私」に知って貰いたいんじゃないかなって…」
『…妙に鋭い所、真田の旦那と似てるなーって思ったんだよなぁ』
かすがはふと、佐助が言っていたことを思い出した。
「…それも、私の口からは何とも言えない」
かすがは口を開くとはストローから口を離して顔を上げる。
「乱世はみなが幸せだったと言える時代ではなかった。
それは今も変わらないが…理不尽な理由で罪のない者が死に、虐げられてきた。
前世を知るということは……自分や、周りの人間の死を知るということだ」
病死した父親のことも、自分を置いて先立った想い人のことも。
険しい表情をするかすがの向かいではやんわりと微笑む。
「…心配してくれてるんだよね。ありがとう」
心を読まれたようでかすがはハッとする。
戦国の姫の魂が宿っているということを知った時点で彼女にとっては衝撃だったろうに、
更に辛い前世を知ることは、彼女にとって利点なのだろうか。
「それは慶次も言ってた。でも、どうせ知るならそういうことも全部ひっくるめて知りたい。
私はもう姫じゃないし過去を知ったところでどうにもならないけど、
私が忘れてしまった記憶を誰かが必要としてるなら私は知りたい」
そう言ってかすがの目を見る強い眼差しは、450年前の姫君を思わせる気がした。
会ったことなどないはずなのに。
自分も知りたいとさえ思ってしまう。
彼女が、どのような生き様だったのか。
乱世にどんな希望を持ち、何を思って死んでいったのか。
すると沈黙を破るようにテーブルに置いていた2人の携帯が同時に鳴った。
2つの携帯の画面には同じ名前が表示されている。
「…慶次からだ」
かすがは露骨に嫌そうな表情を浮かべて溜息をつく。
はそんな様子を見て苦笑しながら携帯を開いた。仲間内に一斉送信したのだろう。
メールの件名には「集合場所と時間!」と書かれている。
「"土曜9時に上杉神社前に集合"…って何故うちを集合場所にするんだ…!」
「分かりやすいからね」
かすがは返信せずに乱暴に携帯を閉じてバッグに突っ込む。
は苦笑しながらも律儀に返信して携帯を静かに閉じた。
「海、楽しみだね」
がそう言って嬉しそうに笑うので、かすがもついつられて表情が緩む。
午後7時半
部活を終えた幸村が更衣室で着替えをしながら携帯を見ると新着メールが2件あった。
首にタオルをかけながらメールを開くと慶次から何故か2通来ている。
1通目には集合時間と場所が書かれており、2通目を開いたところでかっと顔が熱くなった。
From:前田慶次
Sub:追伸!
泊まりじゃないから安心して!\(^o^)/
咄嗟に携帯をロッカーに投げつけそうになったが何とか押しとどまり、
呼吸を整えてから携帯を閉じてバッグに押し込む。
(……海)
『薩摩の御様子はいかがでしたか?』
真田隊を率いて薩摩へ出向いていた幸村が甲斐に戻ると、姫が駆け寄って尋ねてきた。
『神無月も半ばだというのにとても暖かでございました。
海は穏やかで、東国では見られぬ草花も多く見られまする』
『私はまだその海というものを見たことがないのですが…さぞ立派で雄大なものなのでございましょうね』
姫はそう言ってやんわりと微笑み、幸村の言葉からまだ見ぬ海を想像しているようだった。
海のない甲斐国、ほとんど城から出ることのない姫君は生まれてまだ一度も海を目にしたことがない。
『お館様が天下をお取りになり泰平の世が来れば必ず、姫様が海をご覧になれる日が来ましょう』
『ええ』
幸村の言葉に再び柔らかく微笑んで頷く。
『その時は是非、幸村様もご一緒に』
「------------…」
ずきん、と鈍い頭痛。
"私はもう、姫じゃないんだから"
受け入れることと忘れることを一緒にしたって、
それが彼女の為ならば
俺は俺の記憶を手放したって…
(……勝手だろうか)
言葉一つ、情景一つでこんなにも鮮明に思い出せる450年前の記憶を
俺は本当に手放すことができるだろうか。
彼女の笑顔を、かけられた言葉を、触れた体の熱を
450年分の想いを
人はそんなに容易く、手放すことが出来るのだろうか。
To be continued