甲冑の熱がちりつく真夏に


会話を遮るほどの蝉の鳴き声



彼女の声色はいつでも涼しげだったけれど

ただの一度も



俺の体温を冷ましてくれたことはなかった






朔夜のまたたき-15-







月曜の朝

先に社を出た謙信に戸締りを任されたかすがは暗い表情で境内に突っ立っていた。

鍵を掛けてはぁ、とため息。

今日から始まる学期末テストが原因、ではない。

寝不足で目元にクマが出ているのもテスト勉強のせいではない。

学校で顔を合わせる友人のことを考えるとどうしたらいいか分からなくて、ただただ憂鬱だった。

鍵をバッグに仕舞い、境内を出ると


「おはよう」


鳥居の傍からがひょっこりと顔を出す。

…!」

2日前からずっと考えていた友人がいきなり現れて思わず声が裏返った。

「な、なぜ此処に……」

「一緒に学校行こうと思って。いい?」

彼女の家は此処から学校へ向かう途中にあるから、わざわざ遠回りをしてここまで来たのだろう。

驚いたがかすががコクコクと頷くとは「よかった」と笑う。

鳥居を離れて歩き出すと、かすがはすぐに口を開いた。

「すまなかった…ずっと、黙っていて……

 理事長や謙信様はのためだと仰っていたがやはり騙していたことに変わりは…」

「いいよ」

全てを謝ろうと思ったが、は返事一つでそれを許す。

「…慶次と元親が、色々教えてくれたんだ。昔のことも、今皆がどういう思いなのかも」

「私は、かすががいなきゃ皆と仲良く出来なかったもん。

 元々社交的な性格じゃないし…かすががいてくれて本当によかったって思ってる」

はそう言ってかすがを見上げた。

その表情はとても穏やかだ。


「…私も、怒鳴ったりしてごめんね」


穏やかな笑顔に、会ったことのない450年前の彼女を見た気がした。

きっと多くの人間に好かれ、誰にでも分け隔てなく接し、

幸村や佐助が敬った甲斐の姫君。

かすがは泣きそうになるのを堪えてぶんぶんと首を振る。



何故だろう

出会ってひと月と経たないのに

自分は昔の彼女を知らないのに

ただ漠然と

何の理由もなく本当に漠然と、彼女の笑顔を願う


(………真田も)



そうだったんだろうか。

…今も?




はぁ、と昇降口で深いため息を漏らす。

今日から全学年で始まるテストのことを考えれば全校生徒が溜息をつきたいのだろうが、

幸村はこの土日ほとんど勉強らしい勉強をしていなかった。

手をつけられなかった、というのが正しい言い方だ。

金曜の夜10時すぎに寮に戻ってきた元親は「多分大丈夫だと思う」と曖昧な言い方をしていた。


『月曜みんなと話せるかなって言ってたし、一旦飲み込んで落ち着いたんだろ。

 家に帰って虎のおっさんとも話しただろうし』


元親は自分たちがに説明したことを思い出しながら、2人を安心させるようにそう言った。

「お前とのことは喋らなかったけどよかっただろ?」と幸村に向かって言い加えて。

よかったもなにも関係を持っていたわけではない。

元服した時からの顔馴染みで、城に仕える侍女たちよりも少しだけ話す機会が多くて、

ただ、それだけだ。

廊下を歩きながら再びはぁ、とため息が漏れる。

「溜息つきすぎ」

横を歩いていた佐助が苦笑しながら言った。

だが次の瞬間その苦笑が驚きに変わって口が「あ」と開く。


「おはよう」


すぐ背後で聞こえた言葉が一瞬、誰に対して発せられたものなのか分からなくなり、振り返るのが遅れた。

声の主が横に並んで顔を覗きこんできたところでようやく我に返る。

「……、あ…!」

がこちらを見上げて首をかしげている。

かなりどもっておはよう、と言い返す前にの方が再び口を開いた。

「放課後、少し話せる?」

そう言ったがあまりにいつも通りで、拍子抜けというか安堵したというか。

ややあって幸村が「ああ…」と頷くとは返事の代わりに僅かに微笑んだ。

そして先に教室へ入って行く。

「…どうだった?」

佐助は横に並んでいたかすがを見た。

かすがは小さく首を振って「分からない」と答える。

「……ただ」

「少し、見えた気がする」

幸村も振り返ってかすがを見た。


「…慶次と同じことを言うわけではないが、私も、

 もう少し前にと会ってみたかった」


かすがはそう言って足早に教室へ入って行く。

言ってから言うんじゃなかったという照れ隠しのようにも見えた。

幸村と佐助は顔を見合わせる。


…知っている。


彼女はいつだって、沢山の人に囲まれて、いつだって笑顔だった。


『ひめさま!』


城下に降りて甲斐の町を歩く姫に、町の少女が駆け寄る。

親と思われる百姓が「こら!」と窘めるが、姫は構わず少女の前にしゃがんだ。

『河原に咲いてた芝桜です』

少女が差し出したのは白と躑躅色の可愛らしい芝桜。

姫はぱっと表情を輝かせて両手でそっと花を受け取る。

『きれい…ありがとう、部屋に飾らせてね』

そう言って姫がやんわりと微笑むと、少女も照れくさそうにはにかんだ。

姫は受け取った花を帯に差し着物の袂から何かを取り出すと、

少女の肩をそっと掴んで後ろを向かせた。

じっとしててね、と言うと取り出した簪を団子状にまとめた少女の髪に差す。

『ひ、姫様…!いけませんこんな高価なもの…!!』

慌てた親が駆け寄ってきたが、姫は笑って少女の頬を撫でた。

『私は髪を結わないから、貴女の方が似合うわ』

少女の髪でしゃらりと揺れる簪。

藤の造花をあしらった鼈甲の簪は町娘が着けるには不釣り合いに見えた。


『女子だもの、綺麗でいたいわよね』


そう言って微笑む姿はきっと荒んだ乱世を生きる人々の心を穏やかにしたと思うし、

気高さはそんな人々の象徴のようで、縋りたい存在のようで、

きっと誰かが救いの手を伸ばしたなら迷うことなくその手を取ってくれそうな


彼女は甲斐という国で、そんな存在だった


上田から甲斐へやって来た幸村は城下の入り口で馬を降り、人混みの中心にいる姫を見つける。

楽しそうな彼女に声を掛けるのは気が引けてしばらく遠くからそれを眺めていたが、

他の足軽が到着したのと民が道を開けたことで幸村に気付き、すっくと立ち上がる。



「幸村様」



はっ、と我に返る。

目の前にあるのは木製の机。

先日買い換えたシャーペンと消しゴム。

テストの答案用紙は、ない。

「お疲れ」

数回瞬きをしたところで横から佐助に声をかけられた。

どんだけ集中してたの、と笑われたが多分テストにはさほど集中していなかったと思う。

テストの答案用紙は既に回収され、号令をかけ終えたところだったらしい。

テスト期間中は午前授業なので生徒たちは帰り仕度をしてぞろぞろと教室を出ていく。

「屋上行こう」

「………何故?」

呆けた顔をしていたが眉をひそめて佐助を見上げると、

佐助は顎をしゃくって教室の後ろのドアを見た。

とかすがの姿は既になく、政宗と元親、慶次も屋上へ向かうため帰る生徒とは反対方向へ歩いていく。

…そうだ、放課後話せるかとに言われていたのだった。

道具やバッグはそのままにして席を立ち、屋上へ上る東階段へと向かう。


…こんな時になって

少しだけ、期待している。

彼女が全てを受け入れたのだとしたら、自分が落としてしまった「約束」を

彼女が諭してくれることはないだろうか?

果たす資格などないと口にしたばかりだというのに、ずるずる、



(……未練がましい男だとお館様に叱られてしまうな…)




「ごめんね」



もやもやと頭の周りを覆っていた霧が一瞬の突風で晴れたように、

それと同時に飛んできた小石がこめかみを撃ったように衝撃的だった。

自分たちに向かって謝るを前に一瞬「ごめん」とはどういう時に使う言葉だったか分からなくなって、

思考回路が急停止する。

「…あ、謝らねばならないのは俺の…!」

「ううん」

幸村の言葉を遮ってが首を振る。

「…私は正直、前世がどうのとかいうのは…まだよく、分からない。

 でも父様や皆が私のことを考えてしてくれたことだっていうのは分かった。

 私は…皆と楽しく出来ればそれでいい」

まるで前世のことはどうでもいいと言っているようにも聞こえた。

実際、そう言いたかったのかもしれない。

例え機械的に集められた生徒で、必然的に集まった集団でも。

「…一つだけ、約束して」

は幸村を見上げて続ける。




「…敬語は使わないで。私は…もう姫じゃないんだから」





"約束"


「友達なのに敬語なんて、変でしょ」


はそう言って苦笑した。

…十分だ。

それだけで。


「……ああ」


つられるように苦笑して、頷く。

ふっきれたような気がした。

懼れていたことも、僅かな期待も。


突如、沈黙を切り裂く大きなアナウンスが校内に流れ出す。

屋上の屋根にもスピーカーが取り付けられていて、音はよく響いた。

"2年A組、真田幸村。至急職員室へ来なさい"

担任の声だった。

幸村は慌てて振り返り、声の主がいるわけでもないのにスピーカーを見上げる。

「…旦那何やらかしたの」

「カンニング?」

「ち、違う!」

否定はしてみたが呼び出される理由も思いつかなかった。

行ってくる、と屋上のドアに手を掛け、階段を駆け下りて行く。

佐助は苦笑しながらそれを見送ったが、横にいたは即座にその視線を政宗に向けた。



「政宗が昔の私に会ったことがあるって本当?」



いきなり話を振られた政宗は目を丸くする。

「…誰に聞いた?」

「父様」

政宗はそこでではなく佐助を見た。

なるほど、佐助→信玄→の経緯だなと理解すると、浅くため息をついて頭を掻く。

面倒事には巻き込むなと言ったのに。

「会ったってほどじゃねぇよ。甲斐で世話になった時に、ちょっと顔見たことがあるだけだ」

政宗は織田軍の鉄砲隊による流れ弾を受けた際、少しの間だが甲斐の躑躅ヶ崎館に身を置いていたことがあった。


『…では…幸村様は片倉様と一緒に東大寺へ…?』


小十郎と幸村が甲斐を出た後、部屋で横になっていた政宗の耳に聞き慣れない女の声が飛び込んできた。

「うむ」と頷くのは信玄の声だ。

包帯だらけの上体を起こし、立ち上がって廊下に出てみる。

長い廊下の突き当たりに信玄と小柄な女の姿があった。

侍女とは明らかに異なる鮮やかな着物。

遠目からでも分かる白い肌やすらりと通った鼻筋、大きな目。

すぐに甲斐の姫なのだと分かった。

姫は不安そうな表情を浮かべていたが、政宗に気付くとすぐに柔らかく笑って浅く頭を下げる。

その後信玄と二言三言会話をしてその場を離れて行った。


(…側室……じゃ、ねぇか。歳離れ過ぎだし)


その時から何となく感じていた。

あの戦馬鹿を想う物好きな女もいたんだな、と。



「っていうか…昔のことが聞きたきゃ俺じゃなく真田に訊けよ」

「?どうして?」

「どうしてってそりゃ…」

そこまで言いかけたところで、フェンス傍にいる慶次と元親が顔の前で手を交差させて×マークを作っているのが見えた。

数秒でその意味を理解した政宗は再び頭を掻く。

「…同じ甲斐にいたんだし」

「でも幸村と佐助がいたのは上田なんでしょ?」

「い、いや確かに俺らは上田に住んでたけどさ!ほとんど甲斐にいたようなもんだよ!」

が更に尋ねてきたので佐助が慌ててフォローを入れる。

はまだ首をかしげていたが「ふぅん」と納得してくれた。

ようやく大きな問題がひと段落したのにまたややこしいことになっては大変だ。

「よし、真田戻ってきたらみんなで飯食おうぜ」

「今日はサイゼがいいな!」

「お前いつもマックかサイゼじゃねぇか…」

「学生は金がないんだよ。政宗と違って」

3人のやりとりを見ながら苦笑する佐助は横目での表情を窺った。

相変わらず微笑とも作り笑いともつかない微妙な表情を浮かべていたが、どこか安堵しているようにも見える。

…錯覚しそうだ。

自分たちが昔から知っていた姫も、こうだったのではないかと。

自分たちの知る甲斐の姫など、最初からどこにもいなかったのではないかと。

今となっては、ひどく曖昧な自分たちの記憶の中にしかいないのだから。

結局、行き着くのは一番最初の疑問だ。

(……なんで)



彼女は記憶を失くしてしまったんだろう




To be continued