"幸村様"
"は、此処でお待ちしております"
篭手越しに触れた手の柔らかさを忘れたことなどなかった。
無論、他の女子の手を握ったことなどないのだから比べることもないのだが。
"この戦が終わったらきっと…"
…こんな時まで
果たせぬ約束が責めるように繰り返す
朔夜のまたたき-12-
屋上をただ眺めていることにも飽き、松永は踵を返す。
昼休みの終わりを告げるチャイムと同時に生徒たちが駆け足で教室へ戻って行くが、
その波に逆らってこちらへ向かってくる男子生徒がいた。
生徒の声が遠ざかり、静かになっていく渡り廊下に2人だけが残される。
「…甲斐の姫に何吹きこんだ」
政宗は松永を睨みつけて口を開く。
松永はふ、と鼻で笑って首を振った。
「何を言っているのか分かり兼ねるな」
「とぼけんな。本人から聞いたぜ。あそこまで確信突いたこと言うからには、
テメェが余計なこと言ったんだろ」
戦意こそ400年前に置いてきたが、この男を見れば腹の底からボコボコと沸き上がる殺意は変わらない。
高校生が全身から発する殺気を受け流すように松永は再び微笑んだ。
「…意外だな。卿はこの一件に関して無関心だと思っていた。
甲斐の姫、クラスメイト一人どうなろうと卿の与り知る所ではないと」
実際、政宗もそう思っていた。
自分たちが異質だというのなら、彼女の方が普通なのだ。
武田の人間が彼女に事実を告げる気がないなら、無関係の自分たちは沈黙を守る他協力のしようがない。
昔の彼女と面識がないのだから当然だ。
だがそれが崩れてしまった今はそんなことを言っている場合ではない。
「そういうわけにもいかねぇだろ。俺たちだけじゃねぇ、テメーら教師にまで話が及んでんなら
姫だのクラスメイトだの言ってる場合じゃねぇ。父親である武田のオッサンが黙秘を決めたんだ、
俺たちはそれに従ってりゃ面倒事にはならねーんだよ」
「それは卿の本心かね」
政宗は眉をひそめる。
「本当にそれが最善だと?いや、卿も心のどこかで思っているはずだ。
彼女にとっての最善は、事の全てを知ることだと」
ひそめた眉がぴくりと動いた。
「彼女がそれを受け入れるかどうかは別にして、だ。
父親はおろか友人、教師に至るまで彼女の過去を隠蔽し「甲斐の姫」をなかったことにする。
いつまた掘り起こしてしまうとも分からぬ危惧の念を抱いたまま卿らが学校生活を送ることは、果たして得策と言えるのか?」
違うだろう?と鼻で笑う松永は再び窓の向こうに見える屋上へ目を向ける。
「現に彼女は、なかったことにされていた己の過去を知ろうとしているではないか」
同時刻
屋上に佇む4人に嫌な沈黙が流れていた。
(……松永)
佐助のこめかみに汗が滲む。
(最近何事もなく大人しくしてると思ったら…クソ、よりによって厄介な奴に…)
「……して、お前はそれを聞いて何と思った」
信玄が静かに口を開いた。
は父親と見つめあったまましばらく答えを考えているようだった。
何を言えば、望み通りの答えが返ってくるか探るように。
「……半分馬鹿げてるとも思ったし、半分、そうだったらどうしようって思った」
どうしよう、という漠然とした不安はそれを知ったことにより今の生活が変わってしまうのではないかという思いから来ている。
父や友人たちとの関係はどうなるのだろう。
実際、今自分は父親や友人たちに対して不信感を抱いている。
『歴史上の偉人に父と同じ名前の人物がいて、その偉人の娘と同じ誕生日に生まれた自分に、娘と同じ名前をつけた』
これはここ数日が自分に言い聞かせてきた判断結果だ。
そうであって欲しいし、そうでないと言われた場合それがどうやって証明されるのか。
だがの期待とは裏腹に信玄は目を瞑り、顎鬚を撫でてしばらく黙ったあと瞳と口をゆっくり開く。
「…ワシには娘を二人育てた記憶がある」
は眉をひそめる。
さっき自分でも言った通り、は一人っ子だ。
母親を幼い頃亡くしてから肉親は父親の信玄ただ一人だったはすなのに。
「乱世に生まれた甲斐の姫と、平成に生まれた武田の長子じゃ」
がつん、と殴られたような衝撃がの頭に走る。
しっかり立っているはずなのに足元がグラついてしっかり踏ん張らなければ倒れてしまいそうだ。
だが信玄は話を続ける。
「二人といっても、先の一人は乳母に任せきりだったがな」
困ったような自虐的な笑みを浮かべる父の姿を、は初めて見る。
父は自分の前ではいつも穏やかでいてくれたから。
母が亡くなった時も、その後居心地が悪くなった本家でも、
父の存在が唯一自分を自分でいさせてくれたと言ってもいい。
…なのに。
「……どういう…ことなの…父様…」
わたしの知らないわたしを、父様が知っている。
「お前を含むこの学園の大半は、戦国時代を前世の記憶を持っておる」
「お前は、嘗て甲斐の姫じゃった」
甲斐。
戦国時代、武将が治めていた領地の名が今も残る自分の故郷。
"魂の転生というものを信じるか?"
"そんな境遇にある人物が、君一人ではないとしたら?"
「……姫…?」
転生。
信じていないわけではないが信じているわけでもなく、
「ひょっとしたらあるのではないか」という曖昧な感情だった。
人に言われなければ取り立てて思いつく言葉ではない。
100歩譲って前世から転生を遂げた人物がいたとしよう。
だがそれはその本人が過去の記憶を持って初めて明るみに出るもので、
例え実在していてもその事実には気付く人がいるわけがない。
「……父様は……?そこの2人や…かすがたちも…そうだっていうの?」
口を開く表情が歪んでいるのが自分でも分かった。
僅かに後ろの幸村と佐助と振り返って再び父を見る。
「…ワシは武田軍総大将。幸村はその家臣、佐助は真田忍隊の長じゃ」
信玄はの後ろに立つ2人を見て言った。
幸村と佐助は思わずその場に膝を着く。
は振り返って2人を見下ろすが、幸村は顔を伏せていて目を合わせることが出来ない。
「かすがは謙信に仕えた忍。他の三人や他クラスの数名も、乱世では名高い武将じゃった。
担任の島津、校長、副校長、お前に話をした松永も同じよ。みなが乱世を生きた記憶を持っておる」
言われれば思い当たる節はいくつもあった。
幸村の言葉使いに始まりかすがの謙信に対する姿勢、
慶次が言おうとして阻まれた言葉の数々。
だが今が知りたいのは、「なぜ前世の記憶があるのか」ではない。
「…どうして、私に黙ってたの?」
声が震える。
信玄は腕を組み、真っ直ぐを見た。
「お前に昔の記憶がないからじゃ」
それはまるで、記憶のない自分の方が異質だという言い方だった。
「幸い、昔のお前と面識があったのは幸村と佐助のみ。
下手にお前を混乱させては学校生活に支障を来す。
教師陣、生徒に話を通しこのことをお前に知られぬようにとワシが手配した」
甲斐を飛び出し、父が理事長を務めるこの学校に行きたいと言い出したのは自分だ。
父は二つ返事で許してくれた。
離れていた父とまた一緒に暮らせることが嬉しかったし、新しい高校生活に期待もした。
「変なこと言わないで」とは言えない。
父はこれまで一度も、自分に嘘をついたことがないから。
は再び後ろを振り返る。
「…みんなが私と仲良くしてくれたのは、私が姫だったからなの?」
幸村は勢いよく顔を上げた。
「ッそ、それは違いまする!かすが殿や慶次殿が仰っていた通り貴女のお人柄が…!」
「敬語はやめて!!」
初めてが声を荒げた。
表情が怒りと混乱に満ちている。
…幸村のその態度こそが、質問の答えだと言っているようなものだった。
「……初めて会った時は、とっつきにくそうだなって思ってた。
でも、お祭りに時に話をして…ようやくちゃんと仲良くなれたって思ってたのに…」
裏切られた、と言いたい表情だ。
そんなを見上げる幸村の方が泣きそうになってしまう。
そんな表情をしないで欲しい。
笑っていて欲しい。
それを崩してしまったのは、自分たちだというのに。
は2人に背を向け父と向き合う。
「……少し、考えさせて。一人にして」
苛立ちを露わにするように髪を掻き上げ、父の横を通って逃げるように屋上を出ていく。
駆け足で階段を下りていく足音を聞きながら信玄は目を瞑って深く息を吐いた。
「……申し訳ありませぬ…!お館様……ッ!!」
幸村は両膝を着いて床に頭を叩きつけそうな勢いで頭を下げる。
「ぬしが謝ることではない。遅かれ早かれ、こうなることは予測しておった」
「ッしかし…!」
「過ぎたことじゃ。あとはあやつ自身に任せる他ない」
首を振る信玄を前に幸村は顔を伏せ、噛み切ってしまいそうな程唇を噛みしめた。
力を入れた右拳がぶるぶると震える。
佐助は横でそれを見ながら目を細めた。
「…のことは任せてぬしらは授業に戻れ。
恐らくは授業には戻らぬ。担任にはワシが話をしておく」
「………………」
口内に鉄の味が広がるのを感じながらも唇を噛むのを止められない。
幸村が顔を伏せたままでいると横から佐助が腕を引いた。
「…旦那」
佐助に促されてようやく立ち上がり、信玄に向かって再度頭を下げて屋上を出ていく。
屋上に一人残った信玄の着物が夏の生温い風に靡いたが涼しさは微塵も感じられなかった。
信玄は顎鬚を撫でながら再び深く息を吐き、低い声で呟く。
「…済まぬな。幸村…」
同時刻
「…そっちこそ、それはテメーの本心かよ」
渡り廊下にいる政宗は松永を睨みつけて口を開く。
「それがあいつの為だって?HA!らしくねぇじゃねーか。
テメーはそういうの見てほくそ笑むのが趣味だと思ってたぜ」
「人聞きの悪いことを…私は曖昧なことが嫌いだ。
白なら白であれば良いし、黒はどこまでも黒であるべきだ。そうは思わんかね」
「……何を企んでいやがる」
鼻で笑い首を振る松永を前に政宗は眉根を寄せた。
「何も。生憎過去の彼女とは面識がないのでね。
彼女が記憶を手に入れたところで私に利害はない。少々面倒にはなるが。
卿も彼女を憂う思いがあるのなら、こんな所で私と話している暇などないだろう?」
松永はそう言って政宗を追い越し西校舎へ向かっていく。
政宗は振り返ってその背中を睨みつけ、舌打ちをして頭を掻いた。
To be continued