CHAPTER∞-28-









…雨。


抜かるんだ地面。


折れて汚れた軍旗。


何かの植物を並べたような…どこかの、家紋。


積み重なるように倒れた兵士。


地面に突き刺さる無数の刀や槍、使い物にならなくなって転がった火縄鉄砲。





…暦。





垂直に突き刺さる一際大きな槍



降りしきる雨に打たれる投げ出された腕と






「----------------ッ!」


暗闇の中、は勢いよく目を開けた。

仰向けのまな真っすぐ見上げていた天井は、目が暗さに慣れてきた頃ようやく自分の部屋のものだと分かった。


「……っは……はぁッ…はぁっ…!」


額に大量の汗

酷く乱れた呼吸

喉はカラカラに乾いている。


(…なに…今の、夢……)


ゆっくりと体を起こしながらどくどくと脈打つ胸にぎゅうっと爪を立てた。


…前にも、同じ夢を見た気がする。


だだっ広い部屋に1人ぽつんと座っていると徐々に大きな不安にかきたてられて、

は思わず布団を出ると浴衣姿のまま部屋を出た。

まだ夜が明けて間もないこの時間、城に仕えている者でも起きている人間は限られる。

裸足で駆ける廊下では誰ともすれ違わなかった。

は辺りを見渡しながら一目散に鍛錬場を目指す。

近づくにつれてかすかに聞こえてきた男の掛け声。

そして長いものを振り回す空を切る音。

開け放された鍛錬場の戸の前に立ち中を見て、は息を切らしながらも胸を撫でおろした。


広い鍛錬場の真ん中、


見慣れたそれは、今はなぜだか心の底から安心できるものだった。

気配に気づいた幸村は動きを止めて振り返り、入口に立ちつくしているの姿を見て目を見開く。


「そ、そんな格好で何をしている!!」


幸村が驚くのも当然だ。

は下着の上に薄手の浴衣を一枚纏っているだけなのだから。

だが当のはそんなことを気にしている余裕などなく部屋を飛び出してきてしまった。


なぜか、なぜだか今は、彼の姿を確認しなければならないと思ったから。


肩で息をするの表情を見て異変を感じた幸村は僅かに目を細める。


「…何かあったのか…?」

「……ううん…ごめん…何でもない……」


はすぐに苦笑して幸村を見上げた。

寝起きのせいか顔色が悪い。

「ごめん、ちょっと寝ぼけてた」

はそう言ってくるりと向きを変えたが、幸村は訝しげな表情をしている。


「もしや…厠の場所が分からぬのか!?」

「っ何でそれでアンタのとこに来なきゃならないんだよ!!何日ここに住んでると思ってんの!?」


ピカピカに磨かれた廊下に滑って転びそうなりながら、振り返って大声で怒鳴る。

「何でもないから!気にしないで!」

最低だった血圧がいっきに上がってしまった。

そのまま感情を足音に込めて部屋に戻ろうとしたが、ふと思い立って立ち止り、再び振り返って幸村を見た。




「……なんかの葉っぱ…みたいなのが円の中に3つ並んだ家紋って…どこの?」




朧気な記憶から夢に出てきた家紋を思い出し、曖昧な説明で幸村に問いかけた。

幸村は首をかしげてしばらく考えた後、鍛錬場の壁に貼っていた勢力図を剥がして持ってくる。


「桐なら豊臣軍だが…葵ならば徳川軍だ」


何せ植物を家紋にしている軍は数多くある。

幸村は勢力図に描かれた家紋を指差して説明した。

「……徳川…」

夢で見た家紋と一致したのか、は差された家紋を見て呟く。

幸村はそれを見て再び目を細めた。

「やはり何かあったのか?」

「…ううん、ちょっと気になっただけ。戻るね」

「そ、そのままの恰好で城内を歩くつもりか!」

「?別にいいじゃん、浴衣も着物も大して変わんないでしょ」

慌てた様子で勢力図を放る幸村を見ては怪訝な顔をする。

別に浴衣のままでもいいじゃないか、旅館とか行くとみんな浴衣のままウロついてるぞ。

そう思ったがやはりこの時代は勝手が違うようで、幸村は渋い顔をして辺りを見渡した。


「これを着て行け!」


そう言った幸村は兵士たちが訓練の際身につける防具を持ってきた。

「い、いらないいらない!!逆に目立つでしょ浴衣にこんなの着てたら!」

白い浴衣の上から防具を被った自分を想像して恥ずかしくなり、慌てて首を振って断る。

自分も昔剣道をやっていた時に似たような防具をつけたことがあるがかなり重い。

そんな恰好をしている方が注目を集めるというものだ。

「いいよ急いで戻るから!気にしないで!!」

は寸胴の防具を押し戻し、逃げるように鍛錬場を出る。


(…いや確かにちょっと透けるけどさ……)


足早に部屋へ戻りながら自分の浴衣の袖を日光に照らしてみた。

平成で着る浴衣よりも薄手で余計な着色をしていないので、陽の光に当たると体のシルエットがくっきり見えてしまう。

もっとメリハリのある体なら見応えがあるのだろうが、残念なことに自分にはそれがないので恥ずかしさよりも虚しさの方が勝っている。

すると


!!」


後ろから再び幸村の声が聞こえ、一緒にバタバタと走ってくる足音が近づいてきた。



「っちょ!何!!」


走り寄ってくる幸村を見たはぎょっとして思わず後ずさりする。

幸村はいつも着ている紅い上着を脱ぎ、同色の胸当てだけを上半身に纏ってつかつかと詰め寄ってきた。

上着を着ていても胸板が見えているのはいつものことだが、

上着を脱いで胸当だけになるとさすがに直視できなくなっても近づかれた分だけ後退する。


「鎧が嫌ならばこれを着て行け!」

「…っは…!?つ、つーかアンタが着ろ!服を!!」


幸村がそう言って付きつけてきたのは自分が着ているべき紅い上着。

「い、いいって!走ればすぐなんだから!!」

「良くはない!上田に住まう者がふしだらな恰好をして城内を歩いてはならぬ!!」

「ふ…っふし…」


今一番ふしだらな格好してんのオメーだよ!!


声を大にして言いたかったのだが




「…お二人さんさぁ」




気配なく2人の横についた影と声。

幸村は気付いていたようだが、はこの男の気配の無さに驚かされるのは何度目か知れない。

いつものように気配なく2人の横に並んだ佐助の声はいつも以上にの心臓を跳ね上がらせた。





「通路のど真ん中に二人してそんな恰好で突っ立ってたら変な誤解されるよ」






寝着の浴衣姿のと、上着を脱いだ幸村

その上着は二人の手の間にある。

佐助の言っていることを先に理解したはカッ、と赤面してどたどたと後ずさりした。


「き、着替えたら返しにくるから!」


はそう言って上着を取り上げ、肩から羽織ると足早に部屋へ駆けて行く。

だがそれを見送る幸村は首をかしげて佐助を見た。

「何の誤解だ?」

「………いや、もういいや」

説明するのも面倒くさいし馬鹿馬鹿しい。

佐助は額を押さえて浅いため息をつく。


(…あんな話聞かされた後だから何か進んだのかと思いきや)


当然ながら、そんなことがあるはずがない。

佐助は再び素振りを始める幸村を横目で見て呆れ顔を浮かべた。



…彼は気付いているのだろうか。



これまで一度だって、侍女や外部の女人とそんな態度で話したことなんかないことを。

戦の前は本当に煩いぐらい戦の話しかしなかったのに、今回に限って第一に彼女の話をしたことを。

長年仕えた家臣の前でしか見せない表情を、何度も彼女の前で見せていることを。



(このまま行かせていいモンなのかね…)



野暮だ野暮だとは思いながらも何となく考えてしまう。

長く城を開けることは必至だし、当然彼女は共に戦場へ出向くことは出来ない。

彼女が言えない「しなければならないこと」が何なのかは知らないが、彼女の様子からするに時間はあまりないように思えた。

だからと言って彼女の願望を聞いている暇はないし戦は明日に迫っている。

これまで大義を守るための戦をしたことはあっても、特定の誰かを城に残して戦をしているという実感を持ったことのない城主は、

今度の戦もこれまでの戦となんら変わりなく臨むのだろう。




だからきっと、その時にならなければ気付きはしないのだ。

…厄介なことに。




「………傷、すごい」



だらんと垂れさがった紅い袖を持ち上げてよく見ると、あちこちに細かい傷が見えた。

それだけ沢山の戦場を駆け抜けてきたということだろう。

彼の戦場での姿を知らないにとっては想像もできないことだった。

ただやはり丈夫な素材のようで、綻んでいる箇所はどこにもない。


(っていうか……重…ッ!!)


肩にずしっと圧し掛かる上着の重みはジーンズ5本分くらいある。

本革とか布の種類もあるだろうが、恐らく肩や腕についている鋲の1つ1つが丈夫で重いのだろう。

着ているだけで肩が凝りそうだが幸村は全くそんな動作を見せないので、

着る人が着れば十分鎧として機能するということだ。


「………って…」




この格好も十分目立つじゃん!!!




続々と活動を始めた城内の人間とすれ違うと、誰もが見慣れた衣服を何故彼女が着ているのだと不審な目で見てくる。

これでは変な誤解を受けてもおかしくない。

は慌てて上着の袖を寄せて部屋まで走った。



「…遂に枕を交わされたか」

「幸村様もなかなか…」



走り去る後姿を見た兵士たちが関心したように呟いたのも聞こえず、

部屋に駆けこんで勢いよく障子を閉める。





「「…ふぇ……っくし!!!」」





障子を閉めるなり部屋に響いたくしゃみは、離れた鍛錬場からも時間差で響いた。


「…ちょっと…人に上着貸して風邪引かないでよ」

「む…気を引き締めねばな」


苦笑する佐助の言葉を聞き、幸村はズズ、と鼻をすすって再び二槍を振り回す。

確かに今日は朝からすっきりしない天候で城の上を分厚い雲が覆っていた。

風も冷たく、このままでは明日の戦の天候も怪しい。

佐助は曇天を見上げて目を細め、僅かに感じる雨の匂いに鼻をヒクつかせた。








「これでよし、と」


急いで制服に着替えたはいつものように布団を片づけて部屋の隅にまとめ、借りた上着を丁寧に畳む。

肩や腕の部分に鋲や丈夫な金属が埋まっていて普通の服のように畳むのは困難だったが、

一応借り物なのだからぐしゃぐしゃにして返すよりはいいと思った。

畳んだ上着を抱えて部屋を出ると朝陽が眩しく、上着の鋲が反射してピカピカと光った。

小走りで鍛錬場へ向かうと先ほどまで聞こえていた素振りの音が聞こえない。

部屋に戻ったのだろうかと中を覗くと、部屋の奥に掲げられた書をじっと見つめる幸村の後姿があった。

薄暗い部屋でも陽が当たると鍛えられた背中の広背筋がしなやかな筋を浮き上がらせて、

後ろで紐を結んだ胸当ては逞しい腕を包んでその紅い輪郭をくっきりと映し出す。



広間にある掛け軸よりも大きい書には何と書いてあるか読めないが、

左隅の落款印に見覚えがあるから恐らく信玄が書いたものなのだろう。



気配に気づいた幸村が振り返ったのでは慌てて中に入った。

「あっ、こ、これ…ありがとう」

そう言って丁寧に畳んだ上着を差し出す。

「ああ」

幸村は受け取った上着を羽織り、内側に入り込んだ後ろ髪と鉢巻きを外へ出した。

「……今日は…ずっと上田にいるよね?」

「ああ、戦に備え各々体を休ませるようお館様から仰せつかったからな」

襟を直しながら幸村はそう言ったが、先ほどまで全く体を休めていなかったくせに、とは思った。

いつもなら何てことないのに静かな鍛錬場の空気が気まずくなって、

は早々に部屋へ戻ろうと踵を返す。

「そろそろ朝ご飯の時間だから、戻るね」



急ぐを幸村が呼び止めた。


「朝餉が済んだら時間を貰えるか」

「…?なんで?」

「戦の件、可能な限りその細事をそなたに伝えるようお館様に言われた」


はそれを聞いて昨日信玄が言っていたことを思い出した。

出陣は明日の夜明け前。

昨夜遅くまで行われていた軍議でその詳細が決まったのだろう。

信玄がそれをに伝えるよう言ったのは、それに合わせて何かを成そうとしているを気遣ってくれたのだと分かった。


「……あたしが聞いてもいいの?」


女が戦に口を出すものではないと元親が言っていたのを思い出し、改めて幸村に問いかける。

幸村は堅く頷いた。


「…分かった。じゃあ、食べたら部屋に行くね」

「そうしてくれ」


稽古場を出たは見慣れた中庭に目を向けながら、来る時よりもゆっくりと廊下を歩いた。



(……戦のことは…多分聞いても分かんないけど…)



恐らく、聞いておく必要がある。



次の戦に関して自分が出来ることはまだ定かではないが、

自分の中で幸村を止めなくてはいけないという使命感だけは確かにあった。


(…この時代の人間じゃないってことがきっと生かせる)


部屋の障子を開けて後ろ手で締めると、隅にある姿見の自分と視線があった。



「…………………」




"アンタ、恋してる顔だ"




…恋をすると女は綺麗になるとはよく言うが、それは本当だと思う。

メイクにも服装にもいつも以上に気を配るし、前髪の流れがちょっと気に食わないとすぐ鏡で直したり、リップを何回も塗り直したりとか。


今の自分はどうだろう。

スッピン。さっきようやく櫛で整えた髪。

…あぁかなり酷い寝起き曝したなぁ……


頭を抱えて自己嫌悪に陥ってももう遅い。

思えば寝起きすぐに部屋を飛び出して彼に会いにいくのなんかこれが初めてだ。



(……どこが、って聞かれたら…多分答えらんないと思う)



挙げようと思って指を構えたけど、思い返したら悪い所しか出てこない。


まず初めて会った日に槍を突き付けられた。

甲斐に向かう際は落馬しそうになったし…

何かと言い合いになって、あーもう頑固だなぁって思って



…でも真っすぐで


だから、人のことも真っすぐ見る人なんだなぁって




様」

「っはい!!!」


何となくリボンを直していると障子の向こうから侍女の声。

は慌てて返事して立ったまま障子を開けた。


「お早うございます。朝餉でございます」

「あ、ありがとうございます」


倒れた時にも世話になった年配の侍女はにこりと笑いながら部屋に入って膳をいつもの場所へ置いた。

が定位置に座ると蓋をしていた味噌汁を開けて、炊き立ての米を茶碗によそう。

戦の前だというのにいつも通り平然とした様子の侍女を見て、は思わず声を出した。


「……あの」


米桶を持って部屋を出ようとした侍女は首をかしげる。


「…戦のこと……知ってるんですか?」


城に仕える侍女が知らないはずがない。

恐らく、知らされていなかったのは自分だけなのだ。

侍女は少し困ったように目を泳がせたが、すぐにまっすぐを見て頷く。


「はい。昨日、幸村様からお聞きしました」


そう言った侍女の表情は堅かった。

だが特に動揺するでもなく、やはり平然としている。


「……怖くないんですか?」


愚問だと思いながらも問いかけてしまった。


「我々女子が口出し出来ることでは御座いませぬ。

 戦場は男子の居場所。信玄様と幸村様にお任せしていれば案ずることは御座いません」

「でも…侍女の人たちの中には…旦那さんとか、恋人が戦に出てる人だって…いますよね?」


ほかほかと湯気たつ味噌汁がいい匂いを放っているが、

は体ごと侍女の方を向いて真顔で問いかけた。

そんなを見た侍女は柔らかく微笑み、ふいに頭の簪に触れる。




「私の夫も、戦場に散りました」

「え…っ」




触れたのは、恐らくそれが夫から貰ったものだからだ。

「ご、ごめんなさい…!」

「いいんです。常に覚悟はしておりますゆえ」

慌てて頭を下げるを見て侍女は苦笑する。

正座した膝の上に両手を乗せるとその表情が寂しげに変わった。



「…私の夫だと知った時、幸村様は私にお謝りになられました」


「"守ることが出来ず申し訳ない"と…」



は目を見開く。





"大義であった"





「あのお方に仕え、あのお方と共に戦った戦場で散ったこと本望にございましょう」

「この町に暮らす者はみな、同じ思いなのでございます」




…あの言葉を





その人にもかけたのだろうか。





「……戦へ行って欲しくない殿方がいるのでしょう?」

「えッ」



再び柔らかく微笑む侍女の言葉にカッと顔が熱くなる。

慶次から言われた後だから余計敏感になっていたのかもしれない。

の心中を知ってか知らずか、侍女はふふ、と笑って口を手で押さえた。


(あたし分かりやすいのか!?顔に出てるのか!?)


動揺して動かしてしまった味噌汁が零れそうになって、慌ててお椀を両手で押さえる。

その仕草さえ分かりやすさを表しているようで恥ずかしかった。



「……そう思うのって…この時代ではいけないことですか…?」



熱いお椀を押さえたままバツが悪そうに侍女に向かって問いかける。

侍女は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んで首を横に振った。


「いいえ」


「そう思うことが女子の努めで御座いますから」


女子が思わねば誰も口には出しませぬ、と言い加えて再び笑う。




後姿を見て胸の奥がジンジンするのも


…この人に死んで欲しくないって思うのも




四百年という月日は変えたりしないんだ






「どうか」



「どうか悔いの残らぬようなさって下さいませ」




そう言って頭を下げ、顔を上げて再び笑いかける。




"あの時しときゃよかったって思ったことも、

 そう思った時には遅いことだってある"





あたしが今




しなければならないことは






「では、私はこれで」


侍女の言葉で現実に引き戻され、紅い姿が頭の中で弾けて消えた。


「あ…っありがとうございました!」


慌てて礼を言うと侍女はにこやかに笑ってもう一度頭を下げ、ゆっくりと障子を閉めた。


「……………………」


再び一人になると、卓の前から離れて箪笥の横に置いていた重石の前に座る。

中庭から選んできた重石を退かして下敷きにしていた教科書をパラパラとめくり、

数ページ置きに挟んでいた水仙の花を探した。








…あたしには




あとどれくらいの時間が残されているんだろう









To be continued
10話以下で終わると思います。