「早く戻らなきゃ…!」

「ちょ、ちょっと待てって!」

慌てて手綱を握るの手を横から慶次が制止した。

「何も今すぐってわけじゃねーんだから!っていうか一人じゃ帰れねぇだろ!」

「っだって幸村が…!」

一周り大きな手にがっしりと手首を掴まれ、焦りながら口に出した名前は


・ ・
そうだと気付いてから初めて発したものだと気付いた。



「………………っ」



下唇を噛み締めるとなぜか目頭が熱くなる。

気付いたことが悲しいのか、

何も聞かされていなかったことが悔しいのか、

今はただ、一刻も早く上田に戻らなければと思った。



自分は、止められるんじゃないかと思った。




根拠もなく




あの人を




あたしはこの時代で唯一、身分も体裁も捨てて






あの人を助けられると思った






ようやく手綱から手を離したを見て慶次もの手首を離す。


「…とにかく、上田に帰ったら詳しいことを幸村に聞きなよ。な?」


を宥めるようにゆっくりとした口調で慶次は言った。

はすぐにでも馬を走らせたい衝動を抑えてコクンと頷く。

慶次はそれから何と言葉をかけていいやら迷い、困ったように頭を掻いた。



「……まつ姉ちゃんもさ、利が出陣する時はいつもそういう顔してる」



慶次が再び口を開いたのでは顔を上げる。


「武士の嫁ってのは常に覚悟してなきゃならないからって口癖みたいに言って見送る時は普通にしてるけど…

 一人になった時の顔は…やっぱり寂しそうなんだ」


「誰かを守るために戦うことは人を強くするけど、結局戦は何も生まないんだよな」





『それによって死する者がいることも、必ずやそなたの生きる来世の礎になろうぞ』






…お館様。







それが自分の、大切な人でもですか?







「伝えたいことは、泣いて縋ってでも引き止めて伝えた方がいい」










CHAPTER∞-27-











と約束した時刻丁度に加賀へ到着した佐助は、

飛び移る木々の葉の合間にの横にもう一つ派手な人影を見つけた。


(………あれは)



より二周りほど大きな体

高く結わえた髪と派手な身なり

間違いなく



(…前田慶次)




本能的にあの男を目にするとまず溜息が漏れるようになってしまった。

良心で彼女をここまで送ってきてくれたのだろうと思いつつ、木を降りて地面に着地する。


「長旅お疲れさん」

「、佐助さん…」


まずに目を向けると話に夢中だったのか考え事をしていたのか、

はいつもに増して驚いたような顔で佐助を見た。


「よっ、久しぶり」

「元気そうじゃん風来坊。いやー先日は上田で世話んなったねー」


続いて慶次に目を向けて嫌味を言ったつもりだったが、

慶次はそれを完全に受け流してへらへらっと笑った。

…こいつ俺様ブン殴ったの忘れてやがるな。

そう思うと怒りを通り越してむしろ呆れてくる。

挨拶もそこそこにして再びを見るとその表情は暗く、意気揚々と尾山城の門をくぐっていった様はどこにもなかった。

言いたいことを堪えているようにも見える横顔を前に佐助は眉をひそめる。

原因があるとすれば今目の前にいる男以外に考えられなかったが、

一刻も早く彼女を上田へ連れて帰りたい今はここで面倒事を起こしたくなかった。



「じゃ、戻ろっか」

「…はい」


佐助が声をかけるとは堅く頷き、手綱を強く握り締めた。


「さて、と。じゃあ俺もぼちぼち行こうかな」

「城に戻らないのか?」


明らかに「帰る」という様子ではない慶次を見て佐助は首をかしげる。

「ああ。利たちには悪いけどこのまま行くよ。

 俺も自分に出来ることやらないとな」

そう言って大きな刀を背中に担ぎ直し、手綱を持って馬の向きを転換させた。

佐助には慶次が「俺も」と言っている意味はよく分からなかったが、

恐らくとの会話と何か結び付けているのだろうと思って気に留めなかった。


「気をつけて帰れよ。あと幸村によろしくな」

「あ…っはい…お世話になりました!」

「アンタも頑張んなよ!」


慶次はそう言って手綱を下ろし、馬の腹を軽く蹴って発進させる。


「また加賀に遊びに来てくれよな!」


手を振って走り去って行く慶次にも手を振り返したが、

ほかにも言いたいことが沢山あったのに頭がいっぱいでその動作だけで精一杯だった。

慶次の肩の上でこちらに向かって手を振っている夢吉にも手を振って見送り、

その姿が見えなくなったところでも即座に手綱を下ろす。

突然のことで一瞬対処が遅れた佐助も慌ててその後を追った。






同時刻・上田


幸村は自室で槍の手入れをしていた。

少し前に信玄から贈られた上等の得物だったが戦の度に人の血と脂を浴び、

稽古の際も加減をせず使ってきたので手入れを怠るとすぐ駄目になってしまう。

もうすぐ信玄を含む武田の兵士たちが軍議のために上田へ来ることになっているので、手入れには余計力が入った。


(…が上田へ戻ってくるのは…酉の…六つ半程か)


開け放した障子から陽が傾きかけている空を見上げ、その眩しさに目を細める。

戦のことを考えると同時に、戻ってきたにそのことをどう説明するかを考えていた。




(……は何と言うだろうか)




幸村の心配をよそに、国境は慌ただしくなっていた。




「……っちょっと!一旦止まれって!おい!」




国境で騎馬隊と合流した後も、は来る時の倍の速度で馬を走らせていた。

戦で馬術に慣れ親しんだ騎馬隊や佐助にとっては驚くほどの速度ではなかったが、

慶次と別れた後ほとんど何も喋らず馬に乗っているの様子を不審に思っていた。

手綱を短く持ち鐙に体重をかけて前傾姿勢で走る姿は女とは思えぬほど様になっていたが、

木を飛び移って駆ける佐助の言葉にも応じず速度を緩める気配もない。


(…ああもう…っ)


「加賀でなんかあったのか!?つーか…その馬は戦向きじゃないんだ!

 このままの速度じゃ上田まで持たない!!」


たまらず馬より速度を上げて先へ出た佐助が声をかけると、は渋々手綱を緩めて速度を落としていく。

後ろに続く騎馬隊も速度を合わせた。




「…………佐助さん」




そしてようやくが口を開く。






「…近々戦があるって本当ですか?」

「っ」






佐助は目を見開いた。

兵士たちも顔を見合わせて困ったようにの背中を見つめる。



「……前田慶次に聞いたのか」



佐助が木から降りて問いかけるとは黙って頷いた。

武田を始め上杉、伊達、長曾我部にも大阪城攻めの動きがある。

前田慶次も、城に居候しておきながらそんな大きな戦を知らないはずはないと思ってに言ったに違いない。

恐らくがあの場ですぐ佐助に聞かなかったのは慶次が責められることを気にしていたのだろう。


(…やっぱ碌なことないな)


心の中で舌打ちをしても後も祭りだ。

佐助はがしがしと頭を掻いて浅く溜息をつく。



「…旦那から詳しい説明がある。俺らは口止めされてたんでね。
 
 俺の口からは何とも言えないよ」

「……………」



は何も言わず俯いていたが、奥歯を強く噛み締めているのが佐助には見えた。





仮に



彼女が戦を事前に知っていたとして

彼女は何かを起こしただろうか



佐助は再び木に飛び乗ってそんなことを考えた。



主を止めて



(…戦には行くなって?)



鼻で笑ってしまいそうになったが彼女ならやりかねない。

彼女の存在自体がこの乱世を




…あの人を




少しずつ変えてしまっているのは事実なのだから。








それからおよそ三時間

幸村の予想より大幅に早く騎馬隊は上田へ戻ってきた。

城門をくぐるなり馬を降りたは馬を厩舎へ入れることも忘れ、そのまま城内へと駆け出す。

「幸村は!?」

城から出てきた侍女を呼び止めて問いただすと、

その剣幕に驚いた侍女は少し困ったように目を泳がせた。

「あの…つい先ほど信玄様が…」




!」




侍女が言いかけたところで中庭の方から城主の声。

「戻っていたのか。今しがたお館様が…」

その姿を確認するなりはそのまま殴りかかりそうな勢いで幸村に詰め寄る。


「何で黙ってたの!?」

「……何…?」


帰還の報告もなくいきなり怒鳴られる理由の分からない幸村は目を細めた。




「戦のこと!!近々大きな戦があるんでしょう!?」




幸村は目を見開き、その視線をすぐ後ろに立っている佐助へと向けた。

だが佐助は首を横に振るばかり。


「…誰に聞いた」

「そんなことどうでもいいでしょ!何で!?

 戦があるって知ってたら加賀に行きたいなんて我儘言わなかったのに!!」


加賀から戻ってきてそんなことを言い出すのだから、前田の人間に聞いたに決まっている。

幸村が何と説明しようか迷っていると





「幸村を責めるでない。





誰もが反射的に一時停止する太く低い声。


「……お館様…」


が振り返ると正門前に跪く兵士の中に悠然と佇む信玄の姿があった。

幸村もその場に片膝をついたがは立ち尽くしたままだ。



「幸村や真田の兵に口止めをしたのはワシよ。

 幸村からそなたが加賀へ行きたがっていることを聞いた時は、既に軍議で出陣が決まっておった」

「っならどうして…!あたし軍に迷惑かけてまで…!」

「そなたはこの戦が激化する前に郷へ戻る必要がある」

「ッ」



の体が強張った。


「郷へ戻る可能性が少しでもあるのなら、多少危険を冒してでもそなたを行かせるべきだと判断した」

「……………っ」



…あたし一人




のうのうと







「………戻る方法なら…多分、見つけました」







はっきりとした口調で答えるを見て今度は信玄が目を見開いた。

膝をついていた幸村や佐助も思わず腰を浮かせる。



「…それは如何様なものだ」



低い声に再びびくりと肩が強張った。

冷や汗が額に滲んで唇が震える。



「…………言えません…」




の言葉を聞いて幸村が思わず立ち上がった。

兵士たちもざわめき出す。

だが信玄は僅かに目を細めただけで微動だにしない。

もしが思ったことが本当なら、これをここで話してしまっては意味がなくなる。

それどころか軍全体の怒りを買ってしまうだろう。




「………左様か」




信玄はそれだけ呟き、顎鬚を撫でた。


「それはそなた自身が肝に命じておればよいことだ。

 無事郷へ戻ることが出来るのであれば、その術をワシらが詮索する必要はない」


そう言ってに背を向ける。


「出陣は七日夜明け前。委細は追って伝える。長旅で疲れておろう。今宵は休め」


信玄はそう言いながら城の中へ入って行く。

はしばらくその場に立ち尽くしていたが、立ち上がった幸村たちより早く駆けだして信玄の後を追った。

後ろから自分を呼び止めようとした幸村の声は多分聞こえなかったんだと思う。




「お館様!」




長い廊下を広間へ向かって歩いていた信玄は立ち止り、ゆっくりと振り返った。

兜の立派な毛が中庭から吹きぬけてくる風に靡いてぼんやりとしていた城内に鮮やかな着色をする。



「お館様は前に…あたしに聞きましたよね…?

 「戦が怖いか」って」



静まり返った廊下にの震える声だけが響いた。

綺麗に磨かれた廊下に反射していつもよりその声が大きく聞こえる気がする。





「あたしは今でも戦が怖いです」





「例えどんな理由があろうと、戦の先に得るものがあろうと…

 誰かの大事な人が戦で死ぬのはやっぱりその誰かを不幸にすると思うから」





『誰かの為に戦うことは人を強くするけど』




自分でも何が言いたいのか分からない。

ただ理由もない使命感だった。

この世界を変えられるのは、この世界に存在しない自分の存在なのだと

高慢でもいいからそう思っていたかった。



「………言えぬと申したのは」



黙って話を聞いていた信玄がゆっくりと口を開く。




「そなたが成さねばならぬことに次の戦と幸村が関わっているからか」

「っ」





あまりに的を射た言葉には目を見開いた。

戦のことも、あの人のことも、まるで慶次との会話を全部聞かれていたみたいだ。

何と答えていいか迷う前に既に答えは出ている。

言い訳も誤魔化しも考える必要はない。

…この人に隠し事はできない。




「…………はい…っ…」




声を絞り出してそのまま頭を下げた。



恥じることだとは思わない

でも胸を張って言えることでもない


気恥かしくも、甘酸っぱくも、じれったくもない

今まで感じたどんな想いよりずっと曖昧で怖くて否定したくて



なのに

あの人を助けたいと思っている

戦うことしかしてこなかったあの人に、死んで欲しくないなんて、思ってる



「…………………」


ゆっくりと近づいてくる足元が見えたかと思うと、

頭に大きな手が乗せられた重みを感じた。



「そなたはそなたが成すべきことをすれば良い」



温かい熱が頭を離れていくと同時に見えていた足元が踵を返したのが分かった。

は慌てて顔を上げる。


「…っお館様…!」

「己の無事を願う者がいることを知るのも強さとなる」





「あやつがそれに気付くのは容易ではないだろうが」






そう言って立ち止り、振り返った信玄は苦笑を浮かべていた。

そして再びに背を向け広間へと向かって行く。

はその大きな背中を見送りながら小さく溜息を漏らした。



…いつだって






それに気付くのは容易じゃないんだ






!」



バタバタと廊下を走ってくる足音が背後から聞こえると、その溜息は更に深くなった。


「お館様と何を話したのだ!」


…テメーのことだよ。

振り返って焦り顔の幸村を見るとそう言ってやりたくなったがやめた。


「…何でもない。軍議なんでしょ、さっさと行きなよ」


はそう言って部屋へ戻ろうと向きを変える。

「し、しかし…!」

「幸村が気にすることじゃないってば。…怒鳴ったりしてごめん」

信玄と話したことによって落ち着きを取り戻したのか、は先ほどのことを素直に謝って浅く頭を下げた。

幸村はそれを聞くと話の内容を聞くに聞けなくなってしまい、

腑に落ちない表情で短く唸ったが渋々「分かった」と頷く。

そして信玄の後を追って広間へと駆け出す。




「幸村」




「…ただいま」




呼び止めて、帰ってきたら真っ先に言うべきだったことを今ようやく言った。

立ち止った幸村はそれを聞いて安堵したような表情を浮かべる。



「無事で何よりだ」



薄く笑ったようにも見えた表情はすぐ真顔になって、再び廊下を駆けていく。



(……七日…)



廊下に隣接した部屋に見える暦に目をやるとそれは二日後に迫っていた。

二日と言っても夜明け前に上田を出るということは、

実質彼らが上田にいるのは明日だけということだろう。



(あの人を止めるために…)







あたしに何が出来るんだろう









To be continued