越後・春日山城



「……たしかに、しょじょうはうけとりました。かいのしのびよ」


すっかり陽が落ちた城の縁側に座る謙信は先ほど佐助に渡された書状を読み終え、

いつになく緊迫した表情で庭に跪く佐助を見下ろした。

謙信が座る通路の真後ろにある広間にはかすがが正座しており、浮かない表情で主君の背中を見つめている。


「かいのとらにおつたえなさい。われらもにゆくと」

「は」


達筆に書かれた書状を丁寧にたたみ、謙信は佐助にそう言った。


「では俺はこれで」


顔を上げた佐助は一瞬謙信の後ろに座るかすがを見たが、すぐに顔をそらして夜風の中に消えていった。

謙信はしばらく佐助が消えた庭を見つめ膝の上においた書状を再び手に取る。



「…かいのとらとのさいせん、しばらくはかないませんね…」



そう言って寂しそうに笑ったが、自分の後ろに座るかすがの異変に気付いて振り返った。


「どうしたのです、つるぎ」


薄暗い部屋で正座したまま、顔を伏せて動こうとしないかすが。

だがその肩は小刻みに震えている。




「…また、戦が始まるのですね」





消え入るような声が呟いた。

そしてぱっと顔を上げ、両手を畳の上に着く。


「かすがは…かすがはこの命に懸けても必ずや謙信様をお守りいたします…!

 ですから…ですからどうか…!」


必死に訴えるかすがの前に膝をつき、謙信はその手をそっとかすがの頬に伸ばした。


「そなたはわたくしのうつくしきつるぎ。しにいそぐことはゆるしませんよ。

 このらんせをさいごまでみとどけなさい。わたくしのそばで」


かすがは頬に添えられた手を握り返すのを躊躇いながら、泣くのを堪えてこくんと頷く。


「…はい……!」


開け放した障子の向こうから冷たい夜風が吹きぬけて

白い頭巾の裾とかすがの金髪をふわりと揺らした。




「…びしゃもんてんの、かごがあらんことを」









CHAPTER∞-23-









…雨。


抜かるんだ地面。


折れて汚れた軍旗。


どこかの、家紋。


積み重なるように倒れた兵士。





「---------------…」





ばちり。

は勢いよく目を開いた。

ちかちかする視界が次第に暗さに慣れてきて、見慣れた木目の天井がぼんやりと見えてくる。



「………あれ…?」



布団に寝そべったままは呟く。



……何の夢見てたんだっけ?



確かに目覚める寸前まで何かの夢を見ていたはずなのだが、目覚めた瞬間にその夢をド忘れしてしまった。


(…まぁよくあることだけどさ…)


は頭を掻きながらゆっくりと起き上がる。

夢のせいなのかそうでないのか予定より早く目を覚ますことが出来た。

障子から差し込む朝陽はまだ頼りなく、日が昇って間もないことが分かる。


「…晴れるといいな」


障子を少し開けて外の天気を窺い、浴衣の紐を解いてセーラー服を上から被った。

昨晩のうちにまとめた少しの手荷物を持って身支度を整え、なるべく足音を立てないように城を出る。

当然ながら城内は静まり返り、いつも起きると忙しそうに城内を歩き回っている侍女の姿もなかった。

だが厩舎に近づくと数名の兵士が既に出かける支度を整えており、

が挨拶すると早朝だというのにみんな元気に挨拶を返してきた。


「幸村」


城門前に遠くからでもよく目立つ紅い鎧を見つけ、は門まで駆ける。

瘡蓋になった左足の傷は走るとまだ違和感があったが包帯は外れたし痛みもない。

「おはよう」

「よく眠れたか?」

「うん。いつも通り」

少しに手荷物をまとめた紅梅色の風呂敷を右手にぶらさげ、厩舎の外に出された馬を見上げた。

以前乗馬の練習をした時に乗った馬と毛色が似ているのでおそらく同じ馬だろう。


「これを」


幸村は手に持っていたものをに向かって差し出す。

それは幸村が奥州へ向かう際、が彼に渡したものと同じものだった。

は受け取る前に思わず幸村の顔を見る。

「…アンタが握ったの?」

「い、いや…侍女から預かった」

聞くまでもないと思っていたが一応聞いてみた。

後ろめたそうに言う幸村を見ては「だろうね」と笑う。


殿、こちらもどうぞ」


笹に包まれたおにぎりを風呂敷に仕舞っていると、既に支度を整えた兵士の1人が何かを持って駆け寄ってきた。

手渡されたのは編み笠と紺色の外套。

「…なにこれ?」

「着用して行け。女が一人で遠行していると周囲が見れば山賊や夜盗に狙われる可能性がある」

「山賊なんか出るの!?」

は慌てて幸村を見上げる。

山賊とか時代劇でしか見たことないんだけど!!!

「言ったであろう、女子が一人城を出るのは危険だと」

幸村はそう言って眉間に皺を寄せた。

…あぁやっぱりまだ加賀に行くことを良く思ってないんだ。

は外套を広げ、肩から羽織って左右の紐を結ぶ。

…制服も紺だし、これを羽織っても大して身が隠れているとは思えないが。

「これは?」

こちらも時代劇で見かけるような笠だが、左右に長い紐が何本かついていてそのまま顎で結んだだけでは不安定だ。

「手前の紐を顎にかけて一度結べ。後ろの紐は手前の紐の下に通して唇の下を固定する」

「…は…!?これをどこに通すって!?」

初めて目にする笠の着用に四苦八苦するを見て幸村は咄嗟に右手を伸ばす。

「これを顎にかけた紐の下に…」

紐を持ちかけたところでハ、と我に返った。



"アンタ"





"あの子に触ってみたいって思ったことはねぇのかい?"





向かい風に揺れた彼女の黒髪が篭手にかかりそうになって、勢いよく紅い手を引っ込める。

不安定な笠を両手で押さえているは少し眉をひそめて首をかしげた。

早くこの笠を安定させたいというのに。

「…笠の結び方を教えてやってくれ」

傍にいた兵士にそう声をかけて後ろに下がる。

兵士は「はい」と返事をしてテキパキと笠の紐を結んでくれた。

顎と唇の下がしっかりと紐で固定され、俯くと前が隠れる大きな編み笠はようやく頭の上で安定した。


「北風小僧みたい!」


笠の唾を持って外套を翻し、は楽しそうにくるりと一回転する。


「…くれぐれも、利家殿に無礼のないようにするのだぞ」

「分かってるよ」


荷物を鞍にくくり着けながら再び話し出した幸村に返事した。


「道中何があるか分からぬ。佐助と真田隊から離れるでないぞ」

「分かってるって」

「それから…」

「…っ分かったって!何でそんなお母さんみたいなこと言うワケ!?子供じゃないんだからさ!」


よそのお城にお邪魔するのだから最低限の礼儀を弁えるぐらいはできるし、

女が1人で出歩くことがどんなに危険かは身を持って体験している。

今時母親だって出かける時にこんな口うるさいことは言わない。


「そなたが上田から出るのが初めてであるから申しておるのだ!」

「それがどんくらい大変なのかは昨日聞いたから!

 もう行くことに決まったんだからしょうがないじゃん!!」


出発の寸前になってあれこれ言われても困る。

もう発たねばならないというのに大声を出し合っている2人を見て、供の兵士たちもオロオロしていた。


「……何度も申しているように、某はお館様からそなたの安全を任されておる。

 某は城に残らねばならぬ故共には行けぬが、お館様に託された使命を懈怠するわけにはいかぬ」


先に冷静になった幸村は真顔でそう言った。

は外套の中で手を上下させて唇を尖らせながら頷く。


「…分かってるよ。何かあって真っ先に迷惑かけるの幸村だし、…慎重に行動します」


お館様お館様って、こっちだってそれを出されると強く言い返せないの知ってんのか。

そう思ったがも冷静になってふーっと深呼吸した。

実際、慶次に誘われているとはいえ無理を言って加賀へ行くことにしたのは自分なのだから。

門の前に待機していた兵士たちが各々馬に跨り始めたので、も編み笠の角度を直し、鐙に足をかけた。

そして慣れた様子で鞍に手をかけて馬に跨る。


「本当に馬術が上達したのだな」


幸村はそんなの様子を見て感心したように言った。

数日前までは乗り方も降り方も分からず、馬の首にしがみついているしか出来なかったというのに。

「昔っから飲み込みは早い方だって言われんだよね。そこからの上達は時間かかるんだけど」

はそう言って馬の上から幸村を見下ろす。

「佐助は越後からこちらへ向かっているところだ。

 国境へ差しかかる頃には合流するだろう」

「わかった」

の返事を聞き、幸村は門前にいる真田隊へと目を向けた。

を頼むぞ」

「お任せ下さい!」

薄暗い空は次第に東から明るくなっていき、門の向こうに見える朝の城下町を照らして心地いい日差しが差し込んでくる。



「利家殿に宜しく伝えてくれ。くれぐれも道中用心するのだぞ」

「うん、行ってきます!」



軽く馬の腹を叩く幸村に右手を振り、手綱を下ろして馬を発進させた。

緩やかに歩を進める馬の揺れは久々の感覚で少し不安があったが、

今はそれよりもこの世界に来て初めて上田の外に出るという高揚感の方が増している。

真田隊と共に城下を抜けてあっという間に上田を出ていったを見送り、幸村はしばらく城の前に突っ立っていた。



「……………………」



城や町はこれから賑わっていくというのに、やはりどこか静かなような気がする。

…それは八日前の上田となんら変わりのない景色のはずなのに。


(明後日の戦に備えて俺も鍛錬を積まねば…!)


すぐに頭を戦のことへ切り替え、踵を返して城へ戻って行く。







一方、越後を発った佐助は上田には戻らず、そのまま加賀へ続く道へ大きな鳥と共に向かっていた。

越後へ向かう途中、忍隊の使いからが加賀へ行くことを聞き、同時に主君からその道案内をするよう伝達を受けたのだ。


(まさか大将があの子の遠行を許可するとはねー…)


いくら前田に戦の構えがないとはいえ彼らも豊臣軍と無関係というわけではない。

だがそれ以上に彼女を早急に郷へ帰した方がいいという考えが強かったのだろう。

戦が激化する前に彼女は郷へ戻る術を探す必要があるということは前々から言っていた。


(…大阪城…確実に、天下分け目のデカイ戦になる)


そんなことを考えていると、少し前方に見慣れた騎馬隊が走っているのが見えた。

五〜六騎の兵の真ん中では紺色の外套を着たが全く遅れをとらず馬を走らせている。


「結構な速度で走ってんじゃん」


関心しながら鳥の高度を下げて騎馬隊に近づき、木の上に飛び降りての馬の横に並ぶ。

「よっ、長旅ご苦労さん」

「佐助さん」

地面に降りて馬に並列した佐助を見ては若干速度を緩めた。

「すいませんまた我儘に付き合わせちゃって…」

「いいよ全然。ぶっちゃけいつもの仕事よりこっちのが楽だし」

佐助はそう言って笑いながら再び木に飛び乗る。

熱血師弟の巻き添えを食らうよりは彼女の道案内の方がずっと楽だ。



「そろそろ国境だな」



他の兵士たちも速度を落とし、開けた崖の上で騎馬隊は停止した。

急な石崖の下に広がる広大な森と、その少し先に見える城下町。

どこまでが信濃でどこからが加賀なのかさっぱり分からないが、恐らくあの崖の下は別の国なのだろう。

…道路だと「ようこそ石川県へ」みたいな標識があるのに。


「我々がお供できるのはここまでです」


先頭を走っていた兵士が馬ごと振り返ってを見た。

「途中何度か緩い山越えがありますが、平坦な道を通っても今の速度なら巳の下刻には尾山城に着けましょう」

「ありがとうございます」

は馬から降りて兵士たちに頭を下げる。

「我々はこの付近で待機しております。未の刻には加賀を発たねば本日中に上田へ戻ることが困難となりますので…どうぞお気をつけて」

「はい!」

向きを変え、元来た道を引き返していく騎馬隊。

はその姿が森に消えるまで見送っていた。


「…お館様と幸村様に口止めされているとはいえ…気が重いな」

馬を走らせながら1人の兵士が口を開いた。

「大きな戦になることは必至、殿は上田に残られるのだろうか」

「戦に連れて行くわけにはいくまい。幸村様も殿とは親しくしていただけに辛かろうに…」

二日後に控えた大きな戦を知らないの心中を案じながら、兵士たちは林の中へと消えて行く。

勿論には聞こえないその会話も、供を務める忍の耳には入っていた。

佐助は遠ざかって行く騎馬隊に気を配りながら、再び馬に跨ろうとするを見上げる。


「ここらで朝餉食っといたら?旦那から預かっただろ」

「あ…そっか」


佐助の言葉を聞いて上田を出てくる時に幸村から預かった握り飯を思い出し、

鞍にくくり付けていた風呂敷包みを開く。

「ここから城までは更に半刻くらいかかる。黙って馬に乗ってんのも意外と体力食うんだからさ、食える時に食っときなよ」

佐助はそう言いながら馬の綱を近くの木に結びつけた。

はその木陰に入って石の上に腰をかけ、膝の上で笹の包みを開く。


「どうぞ」


そして最初に掴んだ握り飯を立って幹に寄りかかっている佐助に差しだした。

佐助は差しだされた握り飯を見て目を丸くすると、しばらくして微妙な表情を浮かべた。

「…や…いいよ。俺もコレ仕事だし」

「さすがに1人で4個も食べれないので貰って下さい。残すの勿体ないし」

はそう言って首を傾けながら笑った。

それでも佐助はしばらく考えたが、確かに女が食べるには少し量があるようにも見える。


(…忍に飯分けるとか)


少し呆れたが、武将とか忍とか、そういう区別のついていない人間というのはこういうものなのだろう。

難しいことを一切考えていない彼女の好意を無碍には出来ないと思い直し、佐助は差しだされた握り飯に手を伸ばす。


「じゃあ一つ貰うかな」


形のよい握り飯を受け取り、立ったまま口に運んだ。

も自分の分を手にとって頬張る。


(…こんなトコで堂々と飯食う忍ってどうなの)


ユルみすぎでしょ。

そうは思ったが一緒にいるのが400年後の未来から来た少女なのだから仕方がない。

そんな佐助をよそには嬉しそうに握り飯を食べていた。




「-------どう?初めて上田から出た気分は」



佐助は崖の向こうを見下ろしながら口を開く。

は佐助を見上げ、すぐにその視線の先を追いながらしばらく考える。


「…不思議な気分です。知ってる場所のはずなのに全く知らない景色だし…」


隣県の石川県には小学校の頃社会科見学で来たことがある。

だが今自分がいる場所は見渡す限り緑豊かな山・山・山。

整備された道路などあるはずもなく、当然目印になる建物もない。

電信柱も信号も道路標識も、見慣れた景色にあるはずのものが何一つ存在しない長閑な景色。

上田の外に出たことによって今自分がいる世界を更に強く実感したような気がした。



「…少し、不安にもなります」



遠くを見つめて呟く

佐助は視線を下げてを見た。


「加賀に行くことが?」

「あ、いえ…このまま…戻れないんじゃないかって考えたりしたから…」


はぱっと顔を佐助の方に向けて小さく首を振る。


「…ここに来てもう1週間以上経つのに変わったことはないし…

 海賊のお兄さんに携帯を見てもらった時も大きなことは分からなかったんです。

 お館様はあたしのこと心配して加賀に行くこと許してくれたのに…手ぶらじゃ帰れない」


そう言ったの声は次第に小さくなって、彼女は表情暗く俯いてしまった。


(…多分これ旦那には言ってないんだろうな)


佐助はなんとなくそう思った。

この数日間色々な角度から彼女を見てきているが、彼女が郷に戻れない不安や不満を幸村に漏らした所は見たことがない。

言ったところで彼が対応出来るはずもないのを知っているのか、あるいは何かと言い合いになる幸村に弱音を吐きたくないのかもしれない。



「それに…幸村といると自分も早くって…なんか気ばっかり焦っちゃうし」

「あぁ、旦那見て焦るのはよくないよ。あの人に自分の速度合わせてたら身が持たないから」



佐助がそう言って笑うと強張っていたの表情も幾分緩んだ。

「あの人はこの乱世を生きる武将で、君は戦のない世界から来た女人なんだから歩幅合わせようとすんのがハナから無理なんだって。
 
 誰も急かしちゃいないよ。焦ってどうにかなるなら八日もここにいないでしょ」

佐助は軽い口調で言ったがそれは正論だった。

絶対何か理由があってここにいるのだろうし、そうだとすれば来るべき時にしか自分は元の世界には帰れないのだろう。

…問題はそれがいつかということなのだが。


「…加賀に行って何か分かればいいな」

「前田慶次は日本全土あちこち歩いて回ってる奴だから、その辺に関する話は聞けるかもよ」


竹筒の水に口をつけ、残りを手の平に掬って馬に与えながらは「よし」と膝を軽く叩いた。


「行きましょう!」


すっくと立ち上がるを見て佐助も苦笑しながら木を離れる。


「行こうか」






To be continued